茂木久美子『人の5倍売る技術』

5倍売るとは需要が5倍になること

 人の5倍売る技術だそうである。
 5倍か。
 5倍売るってどういうことなんだ。
 買い手の側からみると、需要が5倍になることだ。ほしいって人が5倍もふえることか。すごいよね、それって。
 市場経済って、需要と供給にもとづいて商品を等価交換する交易経済のことだろ。だから、売れたってことは買ったって人がいることだもん。市場経済だと、モノを他人のためにつくる。そしてそれを得た他人が喜んでくれる。「やー、これがほしかったんです」ってね。
 ほら、モノを売ることが社会的な意味を与えてくれるんだよ。「みんながよろこんでくれて、ぼくはもうかって、こんないいことあるかしら」(野比のび太
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/doraemon11.html


 だから、営業っていうのは、本当は喜びなんだよね。
 営業が喜び。営業成績が伸びずに、首でもくくろうかっていうお前らには寝言みたいに聞こえるか。
 そういえば、この前、携帯に電話があったんですよ電話。
 誰だと思います? そう。当たり。不動産投資、マンション経営をおすすめする電話なんです。例の「新人研修で名刺交換の練習をしてるんです」でまんまと引っ掛けられましてね。ほら、エンなんとかって会社あるでしょ。エンクなんとか。エンクレなんとか。

ぼく「入居者がいなかったら二重家賃になっちゃうでしょ」
そいつ「家賃保証がありますから」
「それが切れたらどうなるんです」
「都心のマンションですから、もうですね、需要はあふれるほどあります」
「そんなにもうかるなら、あなたがやればいいでしょう」
「はい、私も同僚もやってます」
「……いや、そうじゃなくて。じゃあ、あなたの資金でまずマンション買って下さい。リスクもあなたが負う。で、もうかったとき、もうかったときだけ連絡下さい。そのもうけ分だけください」
「ま、そのへんのことも含めてですね、一度お会いしてお話させていただければ。いつにしましょうか?」


 ビクともしないよね。ああいうものはきっぱり、断固として断わらないとダメだ。で、断わったのが3年前。え、3年前? そう3年前。なのに、また3年後のさっき、かけてきたんだよ。すごくない? あのとき電話を切りながら「こんな商売に捲き込まれて、こいつも不幸だな」と思っていたけど、3年後に同じ奴からかかってきた。つまり、そいつは3年間、そういう手口で生きてきた。1095日もの間そういう職業生活を送ってきたということだ。ふつうの人間なら、心を病んで辞めるところではないかと思うけど、そんなヌルい世界じゃないんだな。喜々として3年間営業してきたってことだよ。そいつは。


 はじめに話をもどすけど、5倍も需要がふえるってどういう事態なのか。
 たとえば価格が5分の1に下がったとか。
 たとえばまったく新しい商品を開発したとか。
 たとえばその商品に会ったことがない客を5倍みつけてきたとか。
 たとえばよそから客を奪ってきたとか。
 たとえば強引に売ったとか。

営業がうまくいかないというのは現代人の最大の不幸の一つ

 さっきも言ったけど、市場経済とは需要と供給を媒介にして、財やサービスを等価交換する場である。
 市場経済にとって、営業とは何か。それは商品やサービスを本当に必要としている人を探し出して、届けるということである。
 ところが資本主義というのは、流通・交易の形態として市場経済をそなえているが、価値の自己増殖、つまり利潤の増大を目的にしているという点で、市場経済単体とはまったく違う風景を生み出す。資本主義とは利潤追求を目的とした経済である。
 そのもとでは、利潤を最大にすることを目的として営業がある。
 欲望や需要がなくても、そこをこじあけて商品やサービスを売ってしまうことも大いに含まれる。そういうときが不幸だよな。っていうか、だいたいそうなっているけどね。市場がパンパン、ギリギリになるまで供給の主体がいつでもいるから、ギリギリのところはいつもつぶれる一歩手前。その辺境で最大の不幸が起きて、中心部ふくめて全体が競争にまきこまれて不幸がおきる。
 そして、「売れない」ということが現代では人々の不幸のかなり大きな源泉になる。
 営業成績がのびないでウツになる人とか本当に多そうだよね。
 需要と供給が牧歌的に調整されたら、こんなにのんびりした生活はないと思う。「それがソ連型の経済だろ! 競争無くして進歩なしじゃん」ってお叱り受けるわけだけど。


 なんか、『人の5倍売る技術』と全然関係ない、もしくは直接関係ないことをダラダラ書いてきたようにみえる。半分はそのとおりなんだけど、半分はこの本を考えるうえでどうしても最初に書いておきたかったことなんだよね。だって5倍も売るんだぜ。

茂木はなぜ注目されるのか

 本書はその売り上げを5倍にした技術を紹介するというふれこみである。新幹線の売り子である著者が、5倍もの売上をしたというので、テレビなどでよく紹介されている。ぼくも本書を買う前にテレビで見ていたので、「あ、あの人か」と思いながら買った。すでに情報を得ていたのに、それでも買った自分にびっくりするわ。
 それくらいこの成功譚には人を惹きつけるものがあるのだろう。
 まず、一見「誰がやっても同じだろ」と思うような仕事で5倍も売り上げるというのが人の興味を誘う。次に、なじみのない仕事・職業ではなくて、誰でも一度は見聞きしたことがあり、その気になれば自分もその仕事に就くことが容易に想像できそうな仕事であること。これが自分に置き換えての想像をたくましくさせる。車のセールスとかだと、「車のことを相当知ってないとな」とか思うわけだけど、新幹線の売り子なら俺でもできるぞ、というふうに。まあ本書を読むとそう単純ではないわけだが。


茂木の主張は二つのポイントがある

 結局この本のタイトルの要諦というのは何であるかと言えば、二つ。
 一つは、売る相手への徹底した興味関心ということ。もう一つは、それにもとづく戦略や効率化である。基本は前者から出発している。
 たとえば、相手が何かまんじゅうを買おうとする。そのとき著者・茂木は「おひとつでいいんですか?」とつい聞いてしまう。そのおばあちゃんが土産をもっていくシチュエーションを細かく想像する、もしくは実際に会話の中からそれを引き出す。そうすることで、まんじゅうは1つでは足りないだろうとイメージする。そして実際におばあちゃんは買うというわけである。
 これは「売らんかな」の話ではない、と茂木は言う。
 逆の話もあるからだ。子連れの客の前でアイスクリームを宣伝しない。宣伝すれば子どもはねだるだって売れるかもしれないけど、親の方は困るからだ。
 もう一つの対象の観察にもとづく戦略づくりや効率化というのは、たとえば、客の立場にたってみると、売り子の声が聞こえてからはじめて自分の欲求を思い出し検討を始める人もいる。そう考えた時に、普通にワゴンが通り過ぎるスピードというのは速すぎるし、検討する時間もない。そこをどうしたらじっくり検討し、声をかけやすいか考えるというわけである。

茂木を再解釈する──なぜ売れているのか

 まあ、という具合に、まず茂木の側からの本書のロジカルな説明をしてみた。


人の5倍売る技術 (講談社プラスアルファ新書) しかし、ぼく=買い手の側(需要側)からすると、なぜ5倍も売れているのか。再解釈してみる。
 まず、やはり一番大事なのは、効率的技術であろう。
 たとえばワゴンの動かし方や声のかけかたで、買い逃していた人が買いやすくなる、買えるようになった、という点がやはり大きい。固定的な販売をワゴン式の移動販売にした時点で大きな飛躍があるはずだが、普通の人はそこで終わる。しかし、そこからさらに改良の余地があったということだ。


 もう一つは、茂木が乗客とのつながりをつくっている点
 茂木はしつこいほど「売るプレッシャーをかけない」というむねのことを言っている。そのプレッシャーを除去した上で、茂木の興味関心にもとづいて、乗客と交流をすすめる。買うか買わないかわからないけども、販売の機会につながる対象、常連を山のようにもつことになる。それが一定の規模になれば、買わない人が多数でも一定数そのなかから買う人が出てくる。
 おしゃべりをしている回り先をいくつもかかえ、その中で「あっそうだ、アレが切れてたな」といってそこそこの売上をキープしていた昔の牧歌的な営業。
 声をかけること自体が新幹線の売り子としては革命的であるが、茂木はそこに絶妙な距離感を保たせている。とにかく押し付けがましくなってはいけない、あくまで交流をお互いに楽しむということにならないといけない、というわけだ。


 これが現代の営業にそのまま転用できないのは、何よりも競争相手がいないこと。営業先で世間話をして気心がしれても、価格が断然安い他社がいれば、何も買ってはくれない。お買い上げがあっても、せいぜい「お情け」程度である。
 休日に趣味や地域の活動でいろんな交流をもつことがあるが、その場合は、たいていお互いの職業は意識されていない。そこから開ける営業の縁もあるけども、主要な柱になるようなものではとうていない。その職業の看板をぶらさげて、接している人間ではないのだ。

客に関心を持てるものなのか?

 では、この本はムダなのであろうか。
 うーん。
 茂木が中心点としてうちだしている、客への関心や興味を持つということ、まあ客への愛という点についてちょっと考えてみる。
 相手への強い関心や興味を持つ、というのは一体どういうことなんだろう。「関心を持て!」「お客様の立場に立て!」と大声で言ってみても別に関心が持てるわけではない。
 まあ、もともと人間への好奇心が強いという人がいて、そういうものをあれこれ観察するのが好きというやつはいるんだけど、みんながみんなそういう気持ちになれるわけじゃないよな。


 ビジネスをする人が相手への関心や興味を持てる、その最大の動機というのは、自分の売ろうとしている商品やサービスへの強いこだわりということになる。
 市場経済のもとでは、自分が売っている商品やサービスが誰かの役に立つ、という側面をもっている。だれかが喜んでくれて、それで自分がもうかって、こんなうれしいことはない、というわけである。
 相手の役に立つ、ということにどれだけ明確なものを見出せるのか。
 たとえば、商品やサービスがかなり独自な場合は、この連関が見出しやすい。採算がとれずに走れない山村に、低コストで採算にあう形で交通機関が通る、なーんていうのは、もうものすごくわかりやすいよな。お年寄りが泣きながら「ありがとう」と握手してくれる、という瞬間に「ああ開発してよかった」と思うだろ。誰でも。


 だけど、新幹線の売り子の場合はどうだろう。
 行楽やビジネスの行き帰りでちょっと食事がしたい、酒がのみたい、土産を買いたい、そういう声にこたえるというわけだが、それはそこまで相手への関心や興味を引き出せるものだろうかとぼくなどは考えてしまう。
「どうでもいいじゃん」
自動販売機でもいいだろ」
「売れたからどうなるっていうんだ」
という気持ちになるのではないだろうか。新幹線の車内でビールを買えなかった、うわー残念、とかなるか? それに打ち勝って相手への興味と関心を持続させるというのは並大抵のことではない。
 だとすれば、客への関心や興味を持続でき、観察を続けられるのは、茂木という個人の特殊技能でしかないのではないか。
 特別に客が喜ぶ弁当やお菓子やお酒を売っているわけではない。新幹線の売り子はそのへんのコンビニやキヨスクで売ってそうなものを売っているだけではないか。客の側からしてみたらそこに特別な価値があるのか。

やはり茂木を「需要」から説明することは難しい

 いやあるんだ、と茂木は反論するだろう。
 それを本書1冊を使って述べているのだと。相手の琴線にふれて、旅や出張のちょっとした味付け、付加価値としての交流や気持ちのいいサービスというものがあって、それが小さいけどかけがえのないものなんだと。
 そうかなあ。そうは思えないよ。
 おばあちゃんは、まんじゅうは1箱では足りなかったなと新幹線を降りてから気づけば、キヨスクで買うだろ。それでいいんじゃないのか。


 自分が売っているサービスや商品が、いつもいつもお年寄りが自分の手をとってくれて感涙にむせぶ、そんなものばかりではないことは十分承知である。たとえば、村や町にある小さな雑貨屋を考えてみよう。売っている食料品や日用品は、別にそこらへんのスーパーやコンビニでも売っているものばかりである。いや、それよりも鮮度が落ち、割高で、種類も少ない。
 にもかかわらず、その商店が社会的に存在意義があるのは、「その地域では、その店でそうした商品を買うのが便利だから」ということに他ならない。豆腐を買いたいなあと思う。角の豆腐屋が近いからそこで買おうか。それだけのことである。*1
 純粋に近くにあって便利だからそこで買う。商店は、そこから買ってもらうことで便利な存在としての自分たちに存在意義を見出すことがベーシックなその店のその地域での役割なのである。逆に言えば、近くの大型店ができて、その店から買わなくなったとすれば、売り上げの減少自体が、その店の存在意義の縮小・消滅を意味する。「そろそろ店をたたむべきかねえ」とその店のおばあちゃんが判断するのには、一つの合理性がある。


 新幹線での車内販売というのは、自動販売機であっても、固定の売店であっても、車内にあることによって、一つの社会的意義を達成する。ワゴンでの移動販売であれば、より便利であり、これ自体にも社会的な意義は確かに存在する。しかし、同じ条件で5倍に売り上げることにどれほどの社会的な意味があるのか。それはしょせん売り手側の事情でしかなくて、買い手および社会全体からみたら、意味のないことではないのか。「いや、お前は茂木のサービスを直接受けてないだろ。すばらしいサービスだからこんなに人気がでて、ファンや常連もたくさんいるんじゃないか」という反論が返ってきそうだ。
 まあそれも一理あるけど、仮にそうだとして、やはりそれができるのは、ごく特殊な一例でしかないような気がする。新幹線の売り子がすべて、あるいは多数そうなるという状況は想像しにくい。


 ちょっと脇道にそれるけど、保育園の保護者会で物販ってやるんだけども、そこでフェアトレードのコーヒーとか、煮干しとか、石けんとか売買するわけ。でもぼくらは別にそれが本気でほしいわけじゃない。園の保護者会の活動って大事で、それを財政的に支えるからっていうんで、ぼくなんかもわざわざ煮干しを買ったりする。店で買えば安いのに。寄付金でもいいんだけど、味気ないから、もしくは生々しすぎるから物販にしてるんだろう。営業自身はそんなに大義がなくても、事業の目的が大事でそれを支える営業というのもある。
 従業員の生活を支えるために企業の売上をのばす、という大義もあるかもしれないが、購買側にとってはどうでもいいことだよね。そして、別に当該企業セクターがつぶれても、もし富の総量が十分に人々を養うほどに存在しているならば、他に雇われたりして、何かしらの生きる糧をもらえばいいわけだから、その企業の商品を無理して売ることはない。


 いろいろ茂木の技術が社会的意味を獲得するかどうかについて考えてみた。しかし、どうもぼくには納得のいく結論がでなかった。
 となれば。
 やはり、茂木の「5倍売る技術」とは、社会的にみて意味のない技術ではないだろうか。茂木を「需要」の側から説明し、その社会的意義を獲得させることは至難なのである。
 いや、茂木自身はそこで旅になにがしかの価値をプラスしているのだとすれば、意味のある仕事をしているのだろう。
 しかし、それを普遍化し、汎用的な技術にし、さらに他の職業に広げて考えるということは、なかなか難しいのではないか。そう思うのだがどうだろうか。悲観的にすぎるだろうか。


茂木の営業的口調の文体をどうしても汚したくなる

 ところで全然関係ないが、茂木の常連客づくり技術として、客の秘密をしっかり守るということについて書いた箇所がある。

 常連さんへの心遣いには、ただ名前や好みの商品などを憶えるだけではなく、意外なものもあります。それは、たとえば「難しい(と思われる)恋愛をしているお客さまへの気遣い」。
 「そんなこともあるの?」と思われるかもしれませんが、新幹線のなかではさまざまな恋愛模様を見ることもできるのです。
 いつも夫婦でご利用いただく男性のお客さまが、時折、奥様とは違う女性と一緒にご乗車されることがあります。もちろん仕事といった雰囲気ではなく、女性のほうは二人で新幹線に乗って遠出することがよほど嬉しいのか、まるで少女のようにキラキラした顔をしている。きっと普段は思うようにおつき合いできない恋人と、旅行へ行けることが嬉しくてしょうがないのでしょう。
 こういったときは、もちろん無粋なご挨拶はしないよう気をつけています。
 「あれ、今日は奥様と一緒じゃないんですか?」
 などといってしまっては、お客さまが楽しい気分になるはずがありません。こういった恋愛の良し悪しは別として、あくまでお客さまに気分良く、楽しく新幹線での時間を過ごしていただけるようにしたいと思っているのです。(茂木p.141〜142)


 ぼくとしては、こういう「偽善」的なオトナの口調をけがしたくなる。許せないよね。

 常連さんへの心遣いには、ただ名前や好みの商品などを憶えるだけではなく、意外なものもあります。それは、たとえば不倫すなわち姦通をしているお客さまへの心遣いです。
 「そんなこともあるの?」と思われるかもしれませんが、新幹線のなかでは「うわー……」としか言いようのない生々しい性の実態、人間の欲望がしたたる瞬間を見ることもできるのです。
 先日、トイレでフェラチ●をしていたバカップ……熱愛のご夫婦を午前十時くらいからお見かけしたこともあります。「ママー、あのひとたち何してるの?」とつぶやいた通りすがりの5歳の女の子の頭を、「シッ」と言ってはたいたお母さまにご同情を禁じ得ませんでした。
 さて、そのようなカップルは論外といたします。
 いつも夫婦でご利用いただく男性のお客さまが、時折、奥様とは違う女性と一緒にご乗車されることがあります。もちろん仕事といった雰囲気ではなく、女性のほうは二人で新幹線に乗って遠出することがよほど嬉しいのか、まるで少女のようにキラキラした顔をしている。きっと普段は思うようにおつき合いできない恋人と、旅行へ行けることが嬉しくてしょうがないのでしょう。
 こういったときは、真正面から諫言申し上げます。
 「あれ、今日は奥様と一緒じゃないんですか?」
 場が凍ります。
 少女のようにはしゃいでいた女性は秋晴れの空もかくやと思うほど青くなり、そばにいた男性のお客さまは、お弁当にそえられたトマトのように真っ赤っかになられます。となりに黄色人種である平均的日本人のお客さまが座っていらっしゃると完全に信号機です。
 こういった恋愛は悪いに決まっています。悪の道です。「あくまでお客さまに気分良く、楽しく新幹線での時間を過ごしていただけるようにしたい」などというおためごかしを言うつもりはさらさらありません。
 それが長い目でみて、果たしてお客さま自身のためになるでしょうか?
 やがては奥様に不倫がバレ、慰謝料何百万、離婚……そんな悲しい未来が待っているというのに、「楽しい時間を」などといって当座の自分の弁当の売上だけを、おカネをせしめることだけにきゅうきゅうとする。そんなものはもはや公共交通のクルーとして失格です。売国奴です。
 お客さまの楽しい時間とやらをぶちこわしてでも、お客さまの将来のために、お客さまにとって耳の痛い、いやなことも申し上げます。良薬は口に苦し。忠言は耳に逆らう。人の振り見て我が振り直せ。犬もあるけば棒にあたる。泣いて馬謖を斬る
 そのせいで、お客さまから、もっていた熱湯をぶっかけられたこともございます。
「あちちちちちちちちちちち」
といって転げ回る私の腹を何度も何度も蹴られたお客さまもいます。
 王累という蜀の忠臣をご存じでしょうか。劉備が蜀を乗っ取る野望をぎらつかせてきたのに、人のよい劉璋はのこのこ出かけていこうとしました。王累は城門に逆さまにぶらさがり、劉備を蜀に入れぬよう諫言し、受け入れられなければ自分は縄を切って頭をうちつけて死ぬつもりだといって劉璋を諌めました。しかし、劉璋はそれを聞き入れるどころか激怒したのです。王累は縄を切り頭を打ちつけて死にました。
 私もひとたび新幹線に乗れば、この王累の覚悟で弁当とじゃがりこを売ってます。ええ。

 どうみても中二病です。本当にありがとうございました。

*1:よく商店街の機能として、その町のことを良く知っているとか、その地域の行事の担い手であるとか、そういう役割があるけど、ここではその話はしない。