菅直人『東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと』


 原発事故に備えて防災計画を自治体につくらせるべく、原子力規制委員会が防災指針をしめした。福島原発級の事故が起きたとして、30キロ前後がヤバい、と。んで、平均的な風とかそういうものでのシミュレーションを出して、それでうちの町が入ったとか入ってねえとか、いやあれ間違いでしたとか言ってる。
 さらに、そういう想定にもとづいて、避難訓練とかやっちゃったりして、参加した人が「こんなに車がスイスイ走れるわけねーだろ」とかボヤいている。


 何なんだこれは。


 ストレートにいうと、原発事故がなんで福島級で打ち止めみたいな話になってんだ
 シミュレーションで、うちは入ったとか入らないとか、法律的な準備からいうとたしかにそれは大ごとなんだろうけどさあ。原発事故ってそういうもんじゃないだろ。
 お前らはナニか、原子炉に人格があって、「おれ今から事故るけど、やっぱ、防災指針のとおりに事故って、放射性物質も指針にそって拡散しないとな」とか考慮してくれるとでも思ってるのかよ。それとも事故りそうな原子炉を前にして「いろいろ事情もおありでしょうけど、申し訳ないんですが、事故るならこの指針どおりに事故ってくれませんか」とか申し入れるのか。


 前にも書いたけど、「専門家」どもは、いちおう30キロで備えるっていうのは、IAEAが世界中の過去の事故データからはじきだした確率の範囲内で、それがたまたま福島原発事故の範囲にぴったり合っちゃったんだなあ、とか言ってるわけだ。


 だけど、実際にはこんな感じだろ? 「事故なんか起きるわけない」→JCO事故→「うわっ。じゃあ事故があるとして、備えておくのは5キロくらいで」→福島原発事故→「うわっ。じゃあ30キロで」。
 泥縄とはまさにこのこと。


 だけど、福島原発以上のひどい事故っておきうるだろ? そんときに、30キロがどうのこうのとか、事実上ふっとぶわけだよ。
 たとえば玄海原発の炉が一つボカーンっていっただけで、福岡市で急性死が出るレベルの放射能が出てくるわけだから(まあ何も避難手だてをとらないとして、だけど)、普通、なだれをうって逃げるだろ。そうなると、道路は大渋滞。避難場所とかくそもないんだよ。

 いまの福岡県の計画って、たとえば玄海原発福島原発級の事故が起きて、1万5000人の糸島市民が福岡市に避難することになっている。*1そもそも佐賀県民の避難をまるで勘定に入れてないという、このレベルでいっても頭に何かわいてんのかと思うほどの、いさぎよいお役所仕事っぷりだけど、福島原発級にとどまる保障なんかどこにもない。そういうときに福岡市でどこに受け入れましょうかね、なんて悠長な話じゃなくなるだろ。いや、そういうレベルの事故もありうるから、想定がまるでムダとは言わないけど。


 きのう、太宰府市の議員に話をきいたけど、行政サイドの中には「避難民受け入れに体育館新しくつくる」とかいう話が出ているらしい。ハコモノを便乗してつくってるだけだろ。


 それともまた「確率」の話をするのか。事故前みたいに。そんな事故はまず起こりません、リスクゼロガーとか。



東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと (幻冬舎新書) この問題を考える際に、福島原発事故のさいに、原発から250キロ圏、5000万人避難」のシナリオまで考えられた、という事実はもっと強調されていい。
 それを考えるうえで、この本、菅直人の『東電福島原発事故 総理大臣として考えたこと』(幻冬舎新書)はその問題意識をぼくらに叩き込んでくれる。


 このシナリオがつくられたことは、すでにマスコミでも報じられているし、民間事故調などがこの事実をクローズアップしてとりあげたので、よく知られている。
 ただ、総理大臣であった菅のこの回顧録は、自分の事故対応の中心問題意識がこの最悪シナリオをどう食い止め、たたかうか、ということでガッツリしめられていた、というふうに書かれているので、単にそういうシナリオがあった、という話じゃなくて、この悪夢との闘争をしてきた物語としてぼくらに迫ってくるわけである。


 本書は、原発事故の発生からその対応をめぐる1週間を中心にした回顧録で、それを経て自分がなぜ「脱原発」に転じたかを書いている。
 冒頭の「序章」は「覚悟」というタイトルがついていて、これが全体をつらぬくテーマである。さっきも書いたように、もし最悪の事態が重なったらどうなるんだということを原子力委員会の委員長に技術的な試算をさせ、250キロ圏、5000万人避難という予測が出された、とする。この5000万人シナリオが現実になると、東日本が長期間住めなくなり、そうすると小松左京の『日本沈没』そのものじゃねーか、と菅がふるえあがった。

 菅はこのシナリオについて、

そしてこれは空想の話ではない。紙一重で現実となった話なのだ。(p.25)

と評している。紙一重、という点について、菅は次のように立ち入っている。

 もしベントが遅れた格納容器が、ゴム風船が割れるように全体が崩壊する爆発を起こしていたら最悪のシナリオは避けられなかった。
 しかし格納容器は全体としては崩壊せず、二号炉ではサプレッションチャンバーに穴が開いたと推定されている。原子炉が、いわば紙風船にガスを入れた時に、弱い継ぎ目に穴が開いて内部のガスが漏れるような状態になったと思われるのだ。
 その結果、一挙に致死量の放射性物質が出ることにはならず、また圧力が低下したので外部からの注水が可能になった。
 破滅を免れることができたのは、現場の努力も大きかったが、最後は幸運な偶然が重なった結果だと思う。
 四号炉の使用済み核燃料プールに水があったこともその一つだ。工事の遅れで事故当時、四号機の原子炉が水で満たされており、衝撃など何かの理由でその水が核燃料プールに流れ込んだとされている。もしプールの水が沸騰してなくなっていれば、最悪のシナリオは避けられなかった。まさに神の御加護があったのだ。(p.36-37)

 さっきも述べたように、この「5000万人シナリオ」が紙一重で現実のものになろうとした、その危機意識のなかで、菅直人は総理大臣として事故対応にあたった、というドラマの構成になっているわけである。
 菅が事故直後に福島原発を視察したこと、東電の撤退を一喝したこと、東電に乗り込んでわめきちらしたことなどが、このドラマの主題から説明される。このあたりは国会事故調や政府事故調、そして国会やマスコミで議論され論争となっている点であり、菅の本書はまさに底のことに対する菅の反論(言い訳)そのものであると言ってよい。 


 この書評記事は、そこにはあんまりふみこむつもりはない。


 ただ、「5000万人避難、日本沈没」というシナリオを避けるためという問題意識から自分はやれるだけのことはやった、という筋書きは、一定の説得力がある。
 共産党の吉井英勝は国会で「事故直後に首相が視察に行っちゃったのはどうなの」という批判をしているが、本書を読むと、事故直後の原発視察も、東電からは何の手応えのある情報も返ってこず、自分が何を信じて判断をくだしたらよいかわからない様が描かれている。だから、視察をして現場を確かめたかった、行ってみるとけっこう感覚がつかめたし、吉田所長の言動は信頼していいものだとつかめたのは大きな収穫だった、といっているのは、まあ人情としてわかる。


 それでもなお、議論はあるだろう。しかし、ぼくはそこにあまり今は問題関心はない。
 一国の首相だった人間、それも、原発事故対応の最高責任者が、5000万人シナリオが紙一重の現実だったと証言して、それを基調として回顧録を書いているという、このことを重視したい。
 それなのに、なんで防災指針はあいかわらず、「福島原発事故級」しか想定しないのか。思い切って250キロ圏での事故想定をすべきじゃないのか。少なくともシミュレーションをやれよ。


 ところで、本書の後半、「脱原発」の主張の展開の部分は、違和感が強い。
 「なお共産党社民党とは違い、従来、原子力の平和利用推進の立場だった」という一文をだしぬけに説明もなく書いているくせに、自分の過去や現在の民主党の方針があたかも脱原発かそれに近いニュアンスに彩られているかのような粉飾をするのは、いかがなものかと思ってしまう。
 まあ、それも今はとりあえず、いいや。そいつもふくめて、読んで議論してみれくれ。


 さっき言ったとおり、一つのストーリーとして構成されているので、非常にわかりやすくて面白いことは事実である。それに憤激するも感激するもあなたの自由なので、一読する価値はあると思う。事故調の事故経過・検証説明が膨大でとても読み切れないという人にとっては、本書でまず時間軸を頭にいれて、それから挑んでみるのもいいんじゃないだろうか。