吉岡斉『脱原子力国家への道』


 政府(国家戦略室エネルギー・環境会議)が2030年のエネルギーをどんなデザインにするか国民に聞いている。8月12日までパブコメを受け付けている。
http://www.npu.go.jp/policy/policy09/archive01.html


 お前らも当然出すよな。
 で、実際、どうすんだ、と。

出口をどうするの?

 官邸前での「原発なくせ」「再稼働反対」の抗議行動が広がっている。「あれは少数派だ」という意見があるけど、「原発の即時廃止」という点では確かに少数かもしれない。しかし、「原発ゼロ」というのを「原発の即時廃止派だけでなく段階的廃止・将来はなくしていく人も含む」というふうにまとめると明らかに多数派になる(あそこにいる人のうち、どれくらいがそのニュアンスを含んでいるかは別の話だ)。


 ぼくら左翼や、運動をしている人間は、たしかにいま「原発なくせ」「再稼働反対」で盛り上がっているけども、これをどうやって現実のものにしていくかは工夫がいる。道筋を描かないといけない。
 今日の西日本新聞の社説は「原発・エネルギー政策 本気で廃炉を促すなら」というタイトルで、「出口戦略」をどうするのかという議論をたてている。

原発ゼロ」はどう表現されるべきか──リーダーの「決断」だけでは不安

 原発をなくす、原発をゼロにする、ということを、ときの政権が決断すればいいのだろうか。これは半分そうだけども、半分は不安がある。最近よく「決める政治」「決める政治」などというけども、原発に関して、首相やリーダーが「決断」することのもろさを見せつけられたのは、菅直人橋下徹の件だった。
 もはや忘れている人も多かろうが、菅直人は、首相のとき、脱原発を宣言した(2011年7月13日記者会見)。

つまり計画的、段階的に原発依存度を下げ、将来は原発がなくてもきちんとやっていける社会を実現していく。これがこれから我が国が目指すべき方向だと、このように考えるに至りました。

http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/PI/20110713.O1J.html

原発ゼロという表現は、今日の某新聞の大きな見出しになっておりましたが、今私が申し上げた趣旨は、かなり共通してるかもしれませんけれども、私の表現で申し上げたのは、原発に依存しない社会を目指す、計画的、段階的に原発依存度を下げ、将来は原発がない社会を実現する、そのように申し上げました。

http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/PI/20110713.O1J.html


 しかし、これは結局「原発への依存度を下げる」という話だけになってしまい、「ゼロ」にするかどうかという点はあいまいになってしまった。
 そのプロセスをみると、首相の「決断」とか、ある政権の方針、というだけでは、実行力と明瞭さに欠けてしまうものなのだ、ということがわかる。
 橋下の再稼働をめぐる「豹変」ぶりは改めて書くまでもないだろう。

詐欺師?・橋下徹・大阪市長が似非脱原発思想だった頃の過去ツイート一覧 - Togetter 詐欺師?・橋下徹・大阪市長が似非脱原発思想だった頃の過去ツイート一覧 - Togetter


 この点で、ときの政権が「原発ゼロ」を決断することが必要であるにせよ、それをどういう形で表現するかということについていえば、次の観点が重要である。


原発ゼロの決断の表現としての「新増設禁止法」

脱原子力国家への道 (叢書 震災と社会) 最近、九大の副学長で、政府の事故調の委員もつとめた、吉岡斉の『脱原子力国家への道』(岩波書店)がこうした問題を考えるうえで、参考になった。吉岡はこの「脱原子力国家への道」をつくるためのシナリオを描こうとしてこの本を書いた。
 ここで吉岡が強調している一番重要なことは次のことだった。

脱原発に向けての第一歩は原発新増設の法律による禁止である。そこをあいまいにしたのでは、脱原発を進めていくシナリオを描くことはできない。既設の原発の具体的な扱いについては、直ちに決める必要はなく、国民にとっての種々の利害得失を総合的に検討した上で、一定の時間をかけて決めればよい。しかし政府はその第一歩さえ踏み出せずにいる。(吉岡p.4)

脱原発論者は一枚岩ではないが、あらゆる脱原発論者に共通する主張は(法律を制定すると否とを問わず)原発の新増設の禁止である。既設炉の扱いについては論者によって意見が異なるが、新増設禁止というのは脱原発論者にとって、絶対に譲れないミニマムの件である。もし政府が脱原発政策を進めるならば、まずはこの条件に関して明確な姿勢を示す必要がある。逆に新増設禁止を政府が打ち出さないならば、それは脱原発に対して曖昧な姿勢をとることを意味する。(吉岡p.151)

 先の西日本新聞の社説は、

いま、はっきりしているルールは原発の運転を原則40年とすることぐらいだ。ただ、20年を超えない期間で1回の延長が同じ法律で決められている。

と書いてあるが、これは新増設を禁じるルールとセットでないと、「40年自然死滅」を意味しないことになる。しかし逆に言えば、新増設禁止法をつくれば、現行のこのルールとあわせて、原発は40年、最大でも60年で死滅することになる。


 法律という形式をとることで、国会の審議を経ることもできるし、政権や首相がかわるごとに影響されないですむ。この決断を変えるときは、政権はもちろん国会の承認を得て変えることもできる。確実性、明瞭性において、法律による新増設禁止はすぐれているのだ。*1


 そして、「新増設禁止法」は、すべてのニュアンスの脱原発派を論理的には捲き込むことができる。さらに、原発存続派や推進派でさえ、捲き込むことは可能だ。40年や60年、つまり半世紀というスパンがあれば、「巻き返しは可能」という思惑での妥協を引き出せるからである。
 法律という形式をとることで、国会で議員立法による成立をめざすことも可能になる。与党でなければ関与できない、ということにならないのだ。


 ろ、ろくじゅうねん。
 原発即時廃止派はアワをふいてぶっ倒れるにちがいない。


 いやまあ、ぼくだって半世紀も残しておくのはダメだなと思うよ。そっからは、つまり5年で廃止か60年で廃止かっていうのは、吉岡が書いているとおり、国民的な議論での駆け引き、綱引きなんだよ。時間をかけてきちんと議論し、再生可能エネルギーや省エネ技術の普及状況、エネルギー需要の自然減なんかの状況を見きわめていけばいい。性急に決めて固定化してしまう必要はないのだ。
 だけど、出口は決めておかなきゃいけない。
 原発はなくすんだ、将来ゼロにするんだ、という政権としての決断が、今要るってことだ。それこそ、共産党のいうように、知恵が出てこないし、腰が定まらないだろう。

「原発ゼロの日本」の政治決断を/福井 志位委員長の会見 「原発ゼロの日本」の政治決断を/福井 志位委員長の会見

逆に原発や再稼働に頼る姿勢を続けると、当面の電力供給でも責任をもった対応ができず、地元の雇用や営業の問題も、地域経済の問題も責任をもった対応ができない。現にそういう事態におちいっています。いまなすべきは「原発ゼロの日本」への政治決断だということを、強く政府に求めていきます。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-05-14/2012051404_01_1.html

15シナリオを選んだ人は推進派か?

 たとえば、冒頭に書いた政府の3つのシナリオ(0%、15%、20-25%)で「2030年に原子力の比率は15%」(15シナリオ)を選択する人は「原発推進派」なのか、ってことだ。


 西日本新聞で「みんなで考える原発の将来図」というシリーズをやってるんだが、2012年7月28日付に登場した環境カウンセラーの崎田裕子は15%モデルを選んでいる。
 この人はなぜ15%モデルを選んでいるかと言えば、

原則40年廃炉の政府方針に沿い、既存原発の安全を確保しながら古い原発から止めていけば、30年には15%ぐらいになる。

という見通しだからだ。40年廃炉方針のもとで明かりが消えるように順次死滅的廃炉をさせていくという考えだろう。この人のインタビューでは、

30年が間近になって再生可能エネルギーの普及が徹底的に進み、さらにいけそうだとなれば、将来的には0%にする判断はあると思う。

と述べているように、原発をゼロにすることが可能ならば望ましい、というニュアンスを感じる。しかし、

その間に、再生エネルギーを30%まで増やさなければならない。そのためには徹底した省エネを含めたエネルギー改革が必要で、実現は〔2030年に原子力依存が15%でも〕楽観できない水準だ

という現実主義的な判断が入って、15%モデルを選んでいるのである。
 ぼくは至極まっとうな意見だと思う。脱原発派はこういう人とも手をくんで、冷静な議論をしていけばいいのではないか(というかこの崎田もある意味で脱原発派である)。崎田の主張に明瞭性を与えるためにも、15%モデルは新増設禁止法とセットであれば、ぼくは同意できるモデルの一つになると思う
 「新増設禁止」「40年廃炉」を明確なルールとして条件づけ、15%モデルを選んでもいいはずだ。あるいはそのような人々と対話すべきなのだ。
 「原発肯定派と否定派の溝は深く、そこには容易に消えない不信感が漂っているように見える」(西日本新聞社説前掲)というまさに不毛な硬直を乗り越える必要がある。

脱原発」は本来多様な立場を包摂できるはずの言葉

 吉岡は、本書のなかで「反原発」ではなく「脱原発」という言葉の本来のニュアンスに立ち戻り、その多様さを包摂できる点に着目している。吉岡は、「反原発」は「反核」同様、原子力を即座にネガティブにとらえる視点につながってしまうことを指摘しつつ、「脱原発」という言葉について次のように述べている。

脱原発」については、原子力発電が社会の中で一定の役割を果たしており、すぐにそれを廃止することは困難であるという現状を認めた上で、一定の時間をかけて原子力発電からの脱却を図っていくという意味が込められている。(吉岡p.142)

脱原発論の立場からは、構造上の弱点があったり、自然災害の可能性が高いような原発を廃止し、それ以外の運転継続を当面認める一方で、原発の新増設を法的に禁止するかまたは実質的に不可能とすることにより、十数年またはそれ以上の時間をかけて、原発の全面廃止という終点へと段階的に進んでいけばよい、という柔軟な判断に傾きやすい。さらに脱原発論者たちは、原子力分野のあらゆる事業に対して一様に厳しい態度をとるのではなく、事業の種類ごとに寛容さの度合を柔軟に変える姿勢も持ち合わせている。かつて反原発を唱えるには相当の決意を必要としたが、脱原発ならば、将来の状況変化による改宗の可能性を残した現時点での判断であり、今後において判断を改める余地を残しているので、人々はさほど気負わずに脱原発を表明することができる。それが脱原発という言葉の魅力である。(吉岡p.144)

 いやいやそんなふうになっていませんけどね、という苦笑が聞こえてくるが、あくまで「脱原発」の言葉の原義にこだわるとそういうものが見えてくるということなのだ。
 そして、原発の「推進派(存続派)」にも多様な意見が存在しているので、脱原発派と存続派の境目はますます曖昧となりギャップは縮小していると書いている。
 これは「原発肯定派と否定派の溝は深く、そこには容易に消えない不信感が漂っているように見える」という西日本新聞社説の指摘とまるで逆である。実態はそうなっているのに、政治的力学の中でその接近が見えなくなっているだけのことである。それに気づいた瞬間に、むしろ共同や対話の可能性は広がる。


暫定連合政権っていう可能性は?

 昔、共産党は消費税導入で大騒ぎになったとき(1989年)、(1)消費税廃止、(2)企業献金禁止、(3)コメの自由化阻止というたった3点の緊急課題をやるためだけの「暫定連合政権」の樹立を呼びかけたことがある(*)。
 いま不信任案をめぐる野党7会派の共同がすすんでいるけど、んー、たとえば、(1)原発ゼロへの決断としての新増設禁止法の制定(2)消費税増税法の廃止(もしくは4年間の凍結/廃案になっていたら、4年間増税しない)(3)TPP参加反対、とかいうので、そういう暫定政権構想が呼びかけられる可能性はないのだろうか。
 ま、それは可能性の話。



 元に戻ろう。
 原発の話。吉岡の本の話。

厳罰主義、日米原子力同盟

 吉岡の本書は、存続期間中の原発の運転の安全管理についても提起している。その一つが「厳罰主義」である。
 吉岡はリスク評価は「所詮は実証性の乏しい試算」(吉岡p.156)と批判し、

ほとんど絶対〔の安全──引用者注〕を担保する手段として「厳罰主義」(事故・事件・災害の加害者に対して、非常に重い刑罰を与えるルールの導入)は有効なハードルである。過酷事故の関係者に対して、核施設運転過失致死・傷害についての重い刑事罰を科すルールの創設や、過酷事故を起こした会社を救済せず、その清算を迅速に進めるルールの明確化などが考えられる。(吉岡p.156)

などと述べている。福島原発事故で業過致死傷とかで当時の東電会長や原子力安全委員会委員長や菅首相とかを刑事告発したアレをもっと大きくやるってことですね。


 他にも日本の原子力路線は、日米原子力同盟など軍事路線と一体になっているので、本来相当強固な基盤をもっていて、対米従属の政治路線のもとでは、この方向を打ち崩す決断をするのは決して容易ではない、という重要な警告も含まれていて示唆深い。
 原発ゼロを主張する人は必ず読んでおくべき一冊である。

*1:引用にあるように吉岡自身は必ずしも法律による表現に固執はしていないようだが。