山本おさむ『今日もいい天気』

遥かなる甲子園全10巻 完結セット (アクションコミックス) 山本おさむを最初に知ったのは、学生時代。学生運動仲間から「最近注目している漫画家がいる」といって、『遥かなる甲子園』を見せられたのである。いいなとは思ったけど、その友人が強烈にプッシュするほどにはのめりこめなかった(よくあることだ)。
 その後、『どんぐりの家』で強烈な存在感(ぼくにとって)。
 障害者のノンフィクションということで定評があるわけだけど、それが自分のことを描くとき、どういう筆加減になるのか。


 というわけで、本作『今日もいい天気』双葉社)は、山本おさむ自身のことを描いた、エッセイコミックというか実録コミックというか、そういういうものである。「田舎暮らし編」と「原発事故編」に分かれている。共産党機関紙「しんぶん赤旗」に2008年から連載されたもので、当然原発事故が起きた後からすべて描いているわけではないので、「田舎暮らし編」と「原発事故編」では中身の重さが違う。にもかかわらず、「同じトーン」で描いてると思わせる2作品である。

中間的真理性としての「田舎暮らし編」

今日もいい天気 田舎暮らし編 (アクションコミックス) 「田舎暮らし編」は、埼玉でマンガの仕事(1日15時間)をしている毎日に息がつまりそうになり、妻の実家がある福島県に家を買う話である。埼玉での仕事と、福島での田舎暮らしの二重生活をめざすのだ。
 都会の生活に疲れた人々が田舎暮らしに憧れるというのは、ぼくは直感的に団塊世代の発想かなと思っていたけど、ちょっと考えてみればそうでないことがわかる。山本と同世代の、ぼくの東京時代の上司や同僚も、北関東にこうした別荘的邸宅をもっているし、他にも東京時代の職場の人たちがリタイアして田舎で家を建てるというのはよく聞いたのである。
 西炯子娚の一生』も、主人公つぐみは、30代にして田舎暮らしをしているし、『おおかみこどもの雨と雪』も20代だよな。アジールとしての田舎。
 夢路行『あの山越えて』も20代か。



 田舎暮らしにつきものなのは、「田舎に甘い幻想だけ持ってやってきて、厳しい現実に裏切られる」というものだろう。特に農業を志す場合にこの苛酷さは強調されると思うんだけど、現実には農業は趣味程度にやる人がほとんどのはず。だから、現実にはそこまで鮮やかに裏切られるということはないに違いない。といって、理想どおりのカントリーライフというわけにもいかないだろう。
 真理はその中間にある。
 たとえ農業をめざさない程度の田舎暮らしであったとしても、なにがしかの癒しや理想を求めて田舎に行ったのなら、ある程度は裏切られる。しかし、それほど深刻に裏切られるというものでもない、ということだ。


 このように考えてみると、本作の「田舎暮らし編」は、そのようなクラスの裏切りの連続である。というか、その裏切りこそが中心のエピソードである。
 九州育ちの山本が見たこともない一面の銀世界。しかし調子にのって「近くの古墳」まで散歩したはいいけども、帰りの道がよくわからなくなり、用水路などにハマらないよう警戒しているうちに遭難に近い憂き目にあってしまうのである。
 あるいは、町営温泉。のんびり露天風呂……のはずが、アブと格闘するはめになり、へとへとに疲れてしまう。疲れ果てorzの姿勢になったところを「チクッ」「チクッ」と刺される姿は実に間抜けである。
 あるいは、草むしり。パートナーのケイコさんが草むしりをしている最中になにやら虫に触られたか刺されたようで、腕中・顔中ぶくぶくのデキモノが……(右上図)。*1
 まあ、どれをみても深刻に進路や人生を転換させるほどのエピソードではない。さっき述べたように、現実には最も多くの「田舎暮らし派」が出会うであろう体験レベルを描いている。



 山本のエッセイコミックのトーンは、大声をあげ、トガったフキダシや集中線が多用される。ひとことで言えば、暑苦しい。
 かわかみじゅんこ『パリパリ伝説』とか、じゃんぽ〜る西のパリ関係のエッセイコミックのように、たとえばインドのタクシーで山岳に連れ込まれ、レイプ・殺人の危機に出遭ったエピソードさえ、淡々とした絵柄と極少のコマで表現してしまう(右図参照)態度とは正反対のものがある。*2そして、どちらかといえば、ぼくには、かわかみや西のようなトーンの方が好感が持てるのである。



 にもかかわらず、ぼくが「田舎暮らし編」を楽しく読めたのは、絵柄のリアルさ(前掲図参照)と、エピソードのレベルが、ぼくらが田舎暮らしをする際のリアルガイドのような役割を果たしたからだろう。自分が、あるいは中高年が多い「赤旗」読者が、そのような田舎暮らしをするであろう様子が手にとるように伝わってくるのだ。


原発事故についての自分の立ち位置を迷いながら描く

今日もいい天気 原発事故編 (アクションコミックス) 次に「原発事故編」。福島原発で事故が起きたために、山本がいかに振り回されたかを描いている。


 いまだに3.11は、その描き方がなかなか難しいテーマだ。
 復興を描くストーリーは「美談」になってしまう恐れがある。「何が美談だ。復興にむけた真摯な人々の姿が本当に美しいからそうなるのであって、物語を消費しているだけのお前のような立ち位置だから『美談だなあ』などとケチをつけていられるのではないか」という批判が返ってきそうだ。しかし、やはり復興の現場から距離のある人々に向けられた物語は、美談とは距離をおいて、説得性をもたせる必要がある。そうでなければ届かないのではないか。
 他方で、福満しげゆきうちの妻ってどうでしょう?』には、3.11の直後、山本に似て、放射線をあるときはこわがり、またあるときは安心だと自分に言い聞かせたりと、その両極の間でゆれる心情が描かれている。けどやっぱり、それは「ネタ」である。福満自身が福島ではなく東京に住み、それを描いている時点ですでに「放射能の危険」を自分自身に差し迫った問題とはとらえていないことが、そう感じさせる大きな要因である。
 いや別にそれはそれでいいんだけどね。けしからんというつもりは毛頭ない。実際、面白く読んだし。東京に住んでいる人の、一つのリアルな心情であることは間違いないんだし。
 だが、それでは自分の描きたい温度にはならない、という作家側の不満が当然あるだろう。


 山本はどう描いたのか。
 彼は、最初に福満同様、「安全派」と「危険派」の間で自分自身が分裂してしまっていく様を描いた。
 やがて、「安全派」に対し、決定的な懐疑を持つようになる。政府発表や「安全派」学者の発言を信じず、小出裕章矢ケ崎克馬の出ている動画などを熱心に見るようになり、飼い犬の鼻血やパートナーの口内炎放射能の影響ではないかと疑いだすのである。こう書くと「なんだ放射脳人間の話か」と言って相手にしない向きもあるだろう。
 ただ、やはり先ほども述べたように、リアルな絵柄と、起きた事柄を微細に綴っていくタッチが、漫画家がこれをどう受けとめて行動したかということの客観的な記録であるという体裁を持っているのである。数万円を出して買った放射線計測器を頼りにしながら、除染をしていく様、業者が来たときとの比較の描写などは、そのまま除染という活動のたしかな記録なのだ。


 しかし、山本は、ただ漫画家としての自分の客観的な記録を残せばいい、という立場に疑問を覚えていたのではないかと思う。なぜならば、田舎暮らしをするために、ある意味で「いいご身分」として福島にかかわった身であるから、その立ち位置は、どこか「お客様」だからである。いざとなれば、福島を捨てればいい。そこにこだわり続ける切実さの必然が、山本自身には内在していない。


 だから、彼は、避難指示を出された地域の住民の生活をインタビューしようとする。共産党の石田・大熊町議といっしょに被災して戻れなくなっていた町議の自宅にいっしょにいったりするのだが、山本はどんな問いをしたらいいかわからなくなってしまう。「大熊町はなぜ原発を受け入れたのでしょう」と質問してから、気まずくなる。


僕は石田さんから何を聞き出そうとしているのだろう
そんなことはさんざん言われていることじゃないか

 大熊町民はなぜ容認してきたのかと問うた瞬間に、「お前はどうなのだ」という問いを自分にしてみたのである。自分自身が容認をしてきたという自分の立場をなぜ明らかにしないのかという問い直しだ。
 「原発事故編」では、山本はたえず自分の立ち位置の不安定さについて書いているといえよう。


 もう一つ、山本が「切実さの必然」が内在しない自身のかわりに描こうとしたのは、山本が住んでいた天栄村の農業者たちのドキュメントである。コメ作りが破滅するという事態の前に「放射能ゼロのコメ」をつくるという挑戦を描いたドキュメントがこの編にははまさっている。
 これはある種の「美談」ともいえるのだが、ぼくにはそのように感じなかった。
 なぜなら、山本自身が自分の立ち位置に逡巡するところが描かれたうえで、控えめに挿入されたこの天栄村農民たちのエピソードは、産業と生活の切実さの必然を描き表そうとする山本の強い動機を感じたからである。


 このようにして描かれた山本の本作は、おそらく山本の放射能に対するスタンスに決して同意しない人々が読んだとしても、その立場の違いをこえて、山本の迷いとつぶやきを客観的に記した作品として受け入れることができるだろう。これは3.11の一つの新しい描き方ではないかとぼくには思える。

*1:山本本書、双葉社、p.184

*2:かわかみ前掲書、祥伝社、1巻、p.123