小山田容子『ちっちゃな頃からおばちゃんで』


ちっちゃな頃からおばちゃんで(1) (KCデラックス) 28歳とは思えない。
 いや、タイトルから想像される「おばちゃん」=オバタリアン(いわゆる「女らしさ」を放棄している、度し難い図々しさをもっているなど)という意味ではない。地元の銀行に勤める28歳の独身女性主人公・里谷淳子の家族観と人生観があまりにオトナなのだ。その意味で里谷はおばちゃんである。そしてそれは、なんら不快なことではなく、40をこえた子持ちのぼくが、家族というものを考えるさいに、共感や教えられるものをあまりに数多く持っている。この作品は読んでいて濃厚で楽しい。


 里谷の親は、地元の商店街で落ちぶれつつある定食屋をやっており、里谷は親元(実家)に住み、そこから出勤している。
 といって、いわゆる「寄生」しているのではなく、逆に家計を支え、休みの日は定食屋の仕事を手伝い、家事をこなし、客のこなくなった実家の店の運転資金さえ出そうかとしているほどである。


母の考えはこうだ
結婚までは実家で家計と家業を助け
近隣に嫁ぎ
いずれは自分たちと同居
老後の面倒から墓守までやってほしい


要するに私は母にとって
自分の資産であり
老後の保障なのだ


 里谷は便利で実用的な存在として、自分は家族、なかんづく母親から頼られている。そしてまるで呪いをかけられたように、自分もその役割に馴染んでいるのである。銀行のなかで、なまじ有能なために特定の部署がいつまでも放してくれない人材を間近にみている里谷は、その人々の立ち位置が、まるで家族における自分の立ち位置とそっくりであることに気づくのである。


 「呪いをかけられている」とは言い得て妙で、一方的で強圧的な抑圧によって成り立っているものではないところにこの関係の複雑さがある。
 冒頭で、里谷はわりとよさそうな相手と見合いの話をすすめていくエピソードが登場するのだが、本格的に話をすすめる段になって、親・友人・隣人などさまざまなつながりのある地元を離れ、大都会の東京でまっさらな新生活を始める自分をどうしても想像できず(それは里谷にとって目眩がするほどの難事なのだ)、その縁談を断ってしまう話が出てくる。
 地元に根が生えまくり、もはや共同体として断ち難いまでの一体感を抱いている里谷の姿は、地元を愛する感情として作者はひたすら肯定的に描いているのかと思って初めは読んだのだが、それは半分しか当たっていないようだ。
 家族、とりわけ母親から自分を眺めた時に、それは「とらわれ、動けない呪縛」として見ることもできるからである。
 第2話で、アルバムを紐解きながら昔を振り返る里谷は、どうにも小さい頃から自分が「ミニ母親」の役割を演じさせられてきた記憶にしょっちゅうつきあたり、そのたびにフリーズしてしまう。「愛する地元」とは、母親の呪縛ではないのか、という深まりをみせる回である。


 といって、作者は単純にこの二者(地元と家族を愛する気持ち、母親の呪縛で動けない自分)を白黒つけない。現状を認めながら、そこから少しずつ離脱し変わろうとする自分が矛盾のなかで揺れ動いている様を実にていねいに描く。くーっ、このあたりですよ。このあたりがホントにオトナなわけです。
 ぼく自身、20代にこんな気持ちに到底なれなかったっすよね。つうか、そこにアンビバレントな課題があることにすら気づいてなかったと思う。

かつて男につきつけられた課題

 「老後の面倒をふくめ、完全に独立せず家を守ってほしい」という旧世代からの要求は、これまで男性につきつけられてきたものであった。だから、この里谷の視点や課題は、男性にも共有できるものだ。
 ぼくの家は田舎であり、農家かつ社長であったから、「家をついでほしい」「地元にいてほしい」「老後は面倒見てほしい」という親のホンネは相当なものがある。そこを押し殺して一言も言わないわが親に、ぼくは敬服しているが、同世代の親戚は完全にこの圧力の中で家を継いだ。いやいや圧力に屈したのではなく、喜々として家をつぎ、「子どもを残すことは宇宙の法則」などと傲慢きわまる発言をかつてしていたほどその価値観や文化観にとりこまれていった。


 いま自分が子どもや家族を持ってみて、そして町内会の活動をしてみて思うことは、「地元に根をはやし、コミュニティの一体感につつまれることの心地よさ」についてである。
 里谷が、母親のための衣類を買ってあげて、まるで友だちのように楽しく接し合うシーンが描かれる。母親はこう漏らす。


こうしてるとまるで友達みたい
あんたが小さかった時や
反抗期だった頃は
こんな日が来るなんて思わなかった


でも今回のお見合いで
淳子がいつまでも
この家にいるわけじゃ
ないんだなあって思った


今が一番いい時なのかもね
短いわね
親子の蜜月って


 この言葉は、その後にすぐ幼なじみがたくましく変化していることに気づくシーンとセットになっており、むしろ共同体の一体感の心地よさといえども永遠不変のものではない、と諭すためのものである。
 しかしぼくは、むしろそれを否定する。
 その共同体の一体感の心地よさが一時的なものなわけないじゃないか! これは永遠に続くんだ! と叫びたくなる。すなわちぼくの心のなかでは、いま里谷の母親の感情を「理解」しかけ、里谷にかけられた呪いを肯定的にとらえつつあるというホラーが進行中なのだ。
 考えてもみてほしい。もし里谷が結婚して家を出ても、近隣に住んで老後の面倒も見てくれるような存在になれば、たしかに「友達のような蜜月」は消えるかもしれないが、家族としての一体感は消えない。少しくらい数値は低下しても、その心地よさはおそらく母親が死ぬまでずっと続くのだ! すばらしいではないか。
 一体それをどうして里谷は「呪縛」だなどと考える必要があるのか? 都会に行って独立して何者かになりたいという熱情があるわけでもないのに、その居心地のよい関係を断ち切って里谷はどこに行こうとしているのか?


 里谷は独立などできない。秘密裏に家を借りて出ていく計画はきっと破綻する――そういう結末を望む心こそが、いま自分のなかでわき起こる。ぼくはいま、自分のなかで里谷の母親的価値(家族の一体感を心地よいものだと感じ、そのために知らずに他人を拘束したり抑圧したりする)を尊ぶ感情がむくむくと興ってきている、その危険を強く感じる。かつてあれほどまでに自分が唾棄すべきものとして軽蔑してきたあの感情を。