保険屋さんと話をして
友人の紹介で、保険屋さんと話をする機会があった。「厚生年金はこのまま続かないでしょう」「昔老人医療は無料でした。でも今はどうですか。病院の窓口負担や高額医療費制度なんかもこのままじゃないですよ」と言われる。だから民間保険に、ということだ。
安全な資産運用ということについても議論になった。そのさいにも国債のリスクについて語られた。だから、弊社の貯蓄性保険を、という流れである。
民間保険は、日本国債でかなりの部分を運用しているはずだ。それ以外の部分は株やさまざまな証券だろう。国債や厚生年金が破綻するほどの経済情勢では、いかに民間保険会社がさまざまな運用先をもうけてリスクヘッジをしているからといって、無事でいられるとは思えない。
民間の保険の破綻と国債の破綻は、独立した事象ではない。というか、個々の民間保険会社がつぶれても、国債には影響がないことが多いだろうが、国債が破綻した時は確実にすべての民間保険に影響があるだろう。
独立事象でのみ働く乗法原理
独立した事象でないものを、あたかも独立した事象であるかのように考えてしまう誤りは、最近、原発と金融工学で見た。
全体を個々の要素に分解して、その個々の要素がもっているリスクの確率を掛け合わせていくという乗法原理が成立するためには、ごく簡単にいえば、個々の要素のリスクが独立した事象でなければならない。その条件を厳密に確保しなければならないのだ。
この問題について、ヘーゲルの研究者、哲学者であり、原子力委員会専門委員を歴任した加藤尚武は『災害論 安全性工学への疑問』の中で次のように指摘している。
高等学校の数学の教科書には、「独立事象が同時に起こる確率は、それぞれの確率の積である」と書かれているだろう。通常電源と予備電源が同じ原子力発電所内にあって地震と津波の影響を受けるとすれば、それぞれの事故が「独立事象」であるという条件は成り立たない。福島原発事故の原因は、冷却装置の通常電源と予備電源が独立していなかったことだと言ってもよい。(加藤『災害論 安全性工学への疑問』ii、強調は引用者)
原子炉冷却水を循環させるポンプの電源に故障があれば、予備の発電機を電源として用いる。原子炉の設計者が「この両方の事故が同時に起きる確率は、それぞれが一万分の一だとすれば、両方同時に事故となる確率は一億分の一となるので、事実上はゼロに等しい。それゆえ、予備の発電機に特別な安全装置を講ずる必要はない」と考えたとすると、これはルイス〔ハロルド・ウォレン・ルイス。物理学者。『科学技術のリスク』の著者――引用者注〕主義者が犯しやすい過ちである。
本来の電源装置と予備の電源装置を巨大な地震と津波が襲ったとき、それぞれが故障を起こすという出来事が独立事象であるはずがない。そのとき確率の積で表されるような小さな数字は、現実にはありえないものとなっていた。竹内〔竹内啓。統計学者。『偶然とは何か』の著者。直後の引用も同書から――引用者注〕は「もっとも重要なことは、確率の乗法原理がなりたつ条件を確保することである」(同:209)と述べている。実は、このことは、確率論的安全評価のシステムが提案されて以来、何度も語られてきたことであって、なぜその忠告が守られなかったのかということが問題なのである。(加藤p.52〜53、強調は引用者)
金融工学にたいする「ソボクなギモン」
金融工学の問題については、加藤が同書で高く評価し、『災害論』でも何度も引用されている竹内啓の『偶然とは何か』から直接引用しよう。
私は〔金融工学の――引用者注〕基本的な問題は、いわゆる「効率的市場仮説」にあると思う。それは多くの偶然的な変動は互いに独立であり、それらは打ち消し合ってその効果の合計が結局「条件つき期待値」に一致するということを想定している。
しかし、資産市場、例えば株式市場において、株価は何か客観的な確率メカニズムによって作り出されるというものではない。それは多数の買い手と売り手の参加する取引きの結果として変動するのである。また市場の多数の参加者は、けっして独立にバラバラに行動するものではない。そこでは人々はそれぞれに独自の、また共通の情報に基づいて判断すると同時に、市場がどのように動くか、つまり他の人々がどのように行動するであろうかを想像しながら行動するのである。
その結果として起こるのが「バブル」とその崩壊である。……
金融工学の想定する確率のモデルは、やはり本質的に大数の法則や中心極限定理が成立する世界を表している。しかし株式市場をはじめ現実の資産市場では、偶然的な要因が相互に強め合う正の相互作用を起こして、もっとダイナミックな変動が引き起こされるのである。(竹内p.212〜214、強調は引用者)
NHK取材班の『マネー資本主義』を読み、金融工学について知ったとき、ぼくが素朴に感じたことは、「なぜ悪い経済情勢に浸かった証券がいっせいにダメになる、と考えないのだろうか」ということだった。
住宅ローン債権ばかりになるといったような単一化が進もうが進むまいが、そもそも景気全般が大きく下落したら、いろんな業種や様々なリスクの債権がまざっていてもとどのつまりはダメってことじゃないのか?――という素朴な疑問がわきあがってくるのだ。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/money-capitalism.html
原発についても、日本での事故の確率は百万年に1回とか1兆年に1回とか豪語して、危険を警告してきた人間をせせら笑っている人がいるが、数十年に一回くらいはどこかで大事故が起きてるだろ…、という素朴な感覚がぼくにはあった。
加藤尚武『災害論』を読んで、その素朴な感覚に明晰な言葉を与えられた気がする。加藤の『災害論』をレビューした横山広美は、
まさにこうした本が読みたかった。震災、原発事故でこんがらがった糸がすっきり解かれていくようだ。
http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20111212-OYT8T00183.htm
と評したがまったく同じ気持ちである。
数学者の藤原正彦が『国家の品格』で数学的理性批判をおこない、感情で考えた方がだいたいは正しい、といっていたことがここで奇妙な形で「証明」されてしまったわけだが、別の言い方をすれば、確率に限らず数学を使う場合は、それが成り立つ条件を厳密に確保するというきわめて限定された状況下でのみ有効となる、ということだろう。
国の原発事故への防災計画=確率論的手法の採用
いま、ぼくの住んでいる福岡市では東日本大震災をうけて、地域防災計画の見直しがおこなわれている。津波と原発事故の想定を入れるのである。
ところが、原発事故についての想定がどうもはっきりしない。
これは国の原子力災害についての対策の見直しが2月現在でもまだ作業中であるということが大きい。国(原子力安全委員会の作業チーム)の出方をうかがっているのである。
http://www.nsc.go.jp/senmon/shidai/bousin.htm
http://www.city.fukuoka.lg.jp/shimin/bousai/shisei/022.html
しかしおそらく国、そしてそれにならうであろう全国の自治体は、まさに加藤が批判している「確率論的安全評価(PSA)」の手法をとりいれ、原発事故対策をしようとしている。
原発事故対策における確率論的安全評価は、簡単にいうと、ここ30年くらいの世界中の原発のデータを集め、事故の確率を見極めるものである。そこではさっきのべた確率の乗法原理が使われている。(細管の破断の起こる確率)×(緊急装置が働かない確率)×……などと事象ごとに確率を分けて考えていく(イベント・ツリー)。
この考えは国際原子力機関(IAEA)も採用しているものだ。
もともと日本の原発行政は、このIAEA基準さえ無視して、日本で大事故なんか起きないし、おきても8〜10kmくらいの対策範囲(EPZ)をもうければそれでいいじゃん、という考え方に染め抜かれていた。福島原発事故でこれは劇的に破綻し、原子力安全委員会自身がEPZの考えは間違っていたと認めている。日本の原発批判派も、「せめてIAEAの基準くらいはやれよ」と言ってきた。それで、日本もIAEA基準並みとなる政策決断をしそうなのだ。そうなると、急性障害を避けるための予防措置をとる区域は5kmなのだが、晩発性のガンを避けるための緊急措置の範囲はぐっとひろがり、概ね30kmの範囲に拡大する。そういう意味では、EPZのような考え方を抜け出したのは前進である。
IAEA基準をふまえてつくられるであろう新しい国の方針は、福島原発事故がすっぽりとおさまる形になる。まあ、ぶっちゃけていえば、「国際基準をふまえた」という体裁をとりながら、福島原発事故規模のものには対応できますよ、というふうにするということなのだ。さらに言い方を変えよう。国と自治体の原発事故の防災計画は今後「福島原発事故のクラスにとどまる」ということだ。*1
事故想定は「福島の事故クラス」でいいのか?
だが、素朴な疑問がここで浮かぶ。
「今後起きる事故は福島原発事故程度におさまるのか? さらに最悪のケースを想定しないのか?」ということだ。
たとえば、原子炉が完全に破裂してしまうような大事故がありうる。佐賀県の玄海原発の3号機(プルサーマル運転)が破裂した場合の学生の試算があるが、この試算では玄海原発から50km離れた福岡市で500人近い急性死(確定的影響による死亡者)が生じることになっている。
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/genpatu/GotoYoko.pdf
では、確率論的手法にもとづき、IAEA基準をふまえてつくられようとしている国の新しい指針では「確定的影響」(一定量の放射線を受けると、必ず影響が現れる現象のことで、しきい値がある。脱毛や白内障など)をあらかじめ避ける手だてを講じておくべき地域は、どの範囲に定められているだろうか。
大事故が起きる前に、あらかじめ手だてを講じておくべき地域として「予防的防護措置を準備する区域」(PAZ=Precautionary Action Zone)をさだめ、原子炉にヤバい兆候(EALという指標で判断)がおきたら、避難などを事前にしておくようにしている。先述のとおり、その範囲は「原子力施設から概ね5km」とされている。えっ、これでは50kmで確定的影響のために死ぬ人が数百人も出る事故には対応しておらんではないか、と叫びたくなる。
原子力発電所に係る防災対策を重点的に充実すべき地域に関する考え方
http://www.nsc.go.jp/senmon/shidai/sisetubo/sisetubo023/siryo1.pdf
国の担当者に電話で聞いてみたら「その『考え方』の中の資料10ページにありますけど、『最も重大な緊急事態を除いて』とあるでしょう(右参照)。つまり、確定的影響がおよんで死亡者が出てしまう範囲が5kmにとどまらない、もっと重大な事故っていうことはありうるわけです」と答えた。
にもかかわらず、国があたらしい指針として定めようとしている確定的影響を予防するゾーン(PAZ)は5kmに限定される。つまり、確率論的な考え方にもとづけば、炉が破裂するような大事故への備えはとりあえずしないことになる。*2事実上、自治体の地域防災計画も大ざっぱにいえば、「福島原発事故レベルの事故に備える」という考え方で進んでいくことになるだろう。実際に、福岡市の地域防災計画の見直しの「方向性(案)」のなかには、「玄海原子力発電所で〔福島原発事故と──引用者注〕同様の原子力災害が万が一発生した場合に備え」とある。他の自治体の新たな防災計画や暫定計画でも「福島並み」というような表現が随所に出てくる。
http://www.city.fukuoka.lg.jp/data/open/cnt/3/28670/1/vol3-siryou.pdf
また、国は「UPZ=緊急時防護措置を準備する区域 Urgent Protective action Planning Zone」は30kmをもうけている。国は「固定的な境界線ではない」というだろうが*3、NHK番組「島根原発 46万人の避難計画 〜見えてきた課題〜」をみると島根県安来市では30kmできっかり対策が区別されてしまう傾向はすでにあらわれている。(12分52秒あたりから)
http://cgi4.nhk.or.jp/eco-channel/jp/movie/play.cgi?movie=j_face_20111125_1478
「最悪に備えよ」vs「極小確率には備えない」
“起きる確率があまりにも小さいとされている事故は、考えなくてもいい”という考えに対する素朴な批判は、「いや大事故が起きるかもしれないでしょ」というものである。加藤の本書は、この論争にどういう論理がひそんでいるのかを解剖していく。
原子力発電所の安全の設計原理(PSA)の中には、確率の基礎概念として「期待値」が使われている。「期待値」は「低い確率で大きな損害=高い確率で小さな損害」という等式に基づいている(加藤前掲書iii)
ここでいう「期待」というのは「予測」と置き換えてもらえばいいだろう。この場合の「期待値」というのは、
期待(予測)損失=損失×損失の発生確率
という公式で表されるものになる。
ルイス的乗法法則の世界では、「一億円の損害が一〇年に一回=一〇億円の損害が一〇〇年に一回で、その両者に違いはない。ルイスは、たとえ大きな事故がありえても確率が低いなら構わないはずだ、確率を度外視して、「大惨事の可能性があるから原発は反対だ」と主張する人は間違っている、と言いたいのだ。(加藤p.49)
この確率論的安全評価にたいする、加藤の批判は、本書第3章「確率論的合理性の吟味」で約4点にわたっておこなわれているが、それを端的にまとめているのは、「まえがき」にある次のパラグラフだろう。
「異常な危険」(abnormal danger)には無過失責任を適用するという法律論は、過度の損失はそれを反復すると人間の生活が成り立たなくなるので、「事実上リスク・ゼロ」にしなさいという含意である。原子力発電所の事故は、当然、無過失責任の適用を受ける。ところが、原子力発電所の安全の設計原理(PSA)の中には、確率の基礎概念として「期待値」が使われている。「期待値」は「低い確率で大きな損害=高い確率で小さな損害」という等式に基づいているから、「異常な危険は、事実上リスク・ゼロにせよ」という条件を吸収できない。無過失責任の原理には、「低い確率で大きな損害≠高い確率で小さな損害」という前提があるからである。この点が福島原発事故の制度的な原因である。(加藤iii、強調は引用者)
過失責任とは過失があったことが証明された場合だけ責任をとる、ということで、無過失責任とは過失があろうがなかろうがとにかく責任をとる、ということだ。
加藤によれば、日本の原子力賠償法(原子力損害の賠償に関する法律)は、この無過失責任に立っている。つまり、東電が「つくったの当時の水準では想定外のことばかり起きましたから」といって、賠償の責任を逃れることはできないということだ。想定外であっても、結果として起こってしまったものには責任をとって賠償せねばならないのである。そして東電も賠償については、今後そういう論理での主張はしないはずである。
無過失責任は厳格責任ともいい、製造物責任の問題でよく議論される。使っていたテレビが火をふいたとき、製造者がその当時のルールや想定できる危険回避を常識的にやって製品を生産していたら、過失がないから火をふいたことには責任がないというのが過失責任である。これに対して無過失責任は、製造者の過失の有無にかかわりなく、普通に使って火をふいたら責任は製造者がとるというものだ。
原子力賠償法が1961年に制定され、その時代に無過失責任を採用していることは、加藤によれば「先駆的」なことである。それは国民を説き伏せようという政治の意図もあったのだろうと加藤はみる。
原発事故と自動車事故の違いの見事な解明
無過失責任をとるのはなぜか。
引用にもあるとおり、「それを反復すると人間の生活が成り立たなくなる」「異常な危険」(abnormal danger)だからである。
別の言い方をすると、過失責任は反復しうるものである。典型的には自動車事故がまさにそれだ。加藤によれば刑法において「自動車事故の増大によって、故意よりも過失のほうが社会的な重要度をもつようなった」(加藤p.91)とされる。しばしば原発事故にたいしてそれを軽く見せるためにもち出される自動車事故のたとえであるが、両者の違いについて加藤は見事な解明を加えている。
どうしてそのような過失責任制と無過失責任制という区別が必要なのか。過失責任制は、行為が反復されることを想定している。たとえば、自動車のスピード違反はあとを絶たないので、サンクション(罰金、刑罰)となる罰金額を増やすことで、スピード違反の件数を減らすようにする。近代の法体系では、違法行為に対してサンクションを科すことで、違法行為の発生件数を一定の確率以下にしようとする。違法行為を根絶しようとすれば、個人に対する干渉(自由の侵害)を避けられなくなるが、警察官の数を限りなく増やすことはできないなどの理由で、犯罪を一定限度以下に保つという原則が維持されている。
自動車事故による交通事故の場合は、「異常な危険」ではなく、通常の過失責任として扱われてきた。それは、個々の災害の規模がタンカーや原子炉の事故に比べて小さく、個人にとっては立ち直りが不可能になるような不幸な事故が起こっても、社会全体としては、事故予防のためのきめ細かい努力を積み重ねることによって、立ち直りが可能な限度内に抑えられてきたからである。
大型タンカーの事故、油田の事故、原子力発電所の事故は、偶発的に発生する多数の事例をサンクション等によって一定の水準以下に抑えていくという政策では対処できない。
一回の事故の実質的な被害(人命、個人の財産、自然環境の被害)がたとえ法的に賠償を受けたとしても、永続的な影響が残り、人間社会はそういう事故の反復に耐えられない。ランダムに発生する多数の犯罪や事故に対し、サンクションによってその被害を一定以下に保つという確率論的安全確保政策の有効範囲をこれらの大事故は超えているからである。(加藤p.102〜103、強調は引用者)
一度でも起きてしまえば社会が立ち直り難い打撃をうける「異常な危険」(abnormal danger)には無過失責任制がふさわしいはずで、原子力賠償法はそのようになっているのに、肝心の原発の安全思想・安全設計は「確率論的安全評価」、大量の現象が反復されるなかでその割合を一定数以下に抑える過失責任にもとづいているという、制度的矛盾がここには的確に表現されている。*4
まさに原発の安全工学をひきうけてきたルイス主義者たちが、「そんな大事故は起きない=大事故がおきても低い確率であるから、それは甘受するしかない」という思想を論理的には持っており、それこそが、「想定外」が積み重なるような安全工学を生み出して今回の福島原発の事故を準備してしまったことが、実に見事に暴かれている。
この解明は、いま国と自治体で進んでいる危険な動きの根源を明らかにする。
確率論的手法に立つ限り、「原子炉が破裂するような大事故」に備える必要はなくなってしまう。それがいま国と全国の自治体で「せいぜい福島原発事故規模の事故想定に備えれば良い」という、「事実上のリスク・ゼロ(への努力)」を放棄した「地域防災計画」を大量生産している思想的背景になっているのである。
素朴さに論理を与える
「異常な危険」。この言い方、どこかで聞いたことがある、と思ったあなたは「赤旗」読者じゃないのか(笑)。そのとおり、日本共産党の最近の原発政策に登場した「異質の危険」だ。
原発からのすみやかな撤退、自然エネルギーの本格的導入を/国民的討論と合意をよびかけます/2011年6月13日 日本共産党
原発事故とは、ひとたびおきたら、被害を「空間的」「時間的」「社会的」に限定することが不可能な事故であり、このような事故は他に類をみることができません。これは、飛行機事故にもみられない、自動車事故にもみられない、まさに「異質の危険」といわねばなりません。
http://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2011-07-22/2011072204_01_0.html
これが加藤の指摘する「異常な危険」(abnormal danger)という概念をふまえたものなのかどうかはぼくはよく知らない。
ただ、過失責任とか無過失責任とか確率論的合理性とか、そういう込み入った話をしなくても、「原発事故は起きてしまえば社会があぼーんしちゃうんだから、自動車事故とは違ってとりかえしがつかないよね」「だから最悪の事故を想定して防災計画も立てなよ」ということが、素朴に・素直に導き出せるものだろう。
問題は、それにたいして「確率論的安全評価」というものをもち出して「いやいや確率が低すぎるものには備えなくてもいいんですよ」「なにせ過去の世界中の原発の確率データをふまえたものですから」というような行政側の論理がもち出された時に、きちんと筋道だって考えておいた方がいいとぼくは思うのだ。本書はそれに役立つ。哲学者の面目躍如である。
加藤の本書のなかには、「最悪に備える」ことへのルイスによる批判が引用として登場する。
原子炉事故(そして他の緊急時でも)の管理で最初の原則(the first axiom)は、決してその解決のために最悪の場合を考えないことである。想像可能な最悪の場面についての計画を基礎にしてはならない(We shouldn't base all our planning on the worst things we can image.)。最も起こりにくい、最悪の事態に対する計画は、われわれを現実に対して何の準備もない状態に放置することになりかねない。(ルイス 1997:212)
このような主張は行政側および行政側の学者によっていかにも口にされそうなことである。加藤が皮肉っているように、そうした人々かコーヒーブレイクのときに「気のきいた」話題としてもち出すのは、ルイスをネタ本としたものだからである。そうした問題に対してどう向き合うのか、本書をヒントにして考えるとよいと思う。
本書は昨年(2011年)読んだ本のなかで、おそらくぼくが最も衝撃を受けた本の一つである。多くの人が読むべきだ。
*1:国や自治体は「事故・被害規模の想定はしない」とおそらく今後答弁するだろう。しかし、以下にぼくが展開して懸念していることは、現実には福島クラスのものを想定しその範囲をほとんど出ない、ということなのだ。
*2:この点について行政側にも言い分はある。まず確定的影響を事前に予防的に避ける手だてをうつゾーンはあまりに広ければ、避難などが事実上できなくなってしまう、と言うだろう。しかし、確定的影響を避けるPAZは最悪の事故に備えて最大限にとり、そのためのありとあらゆる資源を動員すべきであるし、それが不可能なら原発立地はあきらめるしかない。
*3:また、確率的影響をふせぐための区域=UPZについては、30kmという区分は目安でしかなく、実際には、被曝線量の基準値であるOIL(運用上の介入レベル Operatinal Intervention Level)というものを設けて、OILに線量が達した地点が刻々と変わっていけばそれに応じてUPZを広げていくのだ、と国は主張するだろう。しかしいくらOILが可動的だといっても、現場の自治体では結局福島レベルの事故しか想定していないなら何の備えもないことになる。たとえば福岡市は2011年12月の市議会での答弁をみると福岡市自体には深刻な放射能汚染がおきる心配はしておらず、主には佐賀周辺自治体からの避難民の受け入れに関心がいっており、せいぜい念のためごく一部の住民が避難することを想定するにとどまっている。
*4:先ほど、確率論的合理性の吟味を、加藤は4つの問題点をあげて批判していると書いたが、確率論的合理性は、「大量の現象の反復によって確率が一定の値に近づく」という「大数の法則」を前提にしており、現象の一つひとつの個別事例をとってみれば確率は1か0でしかなく、「大数の法則」は現れてこない問題にも加藤はふみこんでいる(いわゆる「単独事例問題」single case problem)。