木暮太一『僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?』

 昨日の朝日新聞の書評欄で大きくとりあげられていた。
http://www.matomabooks.jp/news/archives/1153.html

 マルクスを使った自己啓発本である。その発想がすごい。
 著者は『マルクスる?』で知られた木暮太一である。


僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか? (星海社新書) 本書の特徴は、

大学時代にわたしが資本論』と『金持ち父さん貧乏父さん』の2冊から「気づき」を得て、その後、サラリーマン生活の10年をかけて追究・実践してきた知見を1冊に凝縮しました。(p.14、強調は引用者、以下特に断りがないかぎり同じ)

というもので、

前半では、マルクスの『資本論』をベースに、資本主義経済の構造・仕組みと、労働者の置かれている状況について順番に述べていきます。(p.14〜15)

後半では、資本主義経済で働くわたしたち労働者がどのような働き方、そして生き方を目指していくべきかを具体的に説明していきます。/この部分は、『資本論』と『金持ち父さん貧乏父さん』の両方の視点を取り入れた、わたしなりのアイデアになります。(p.15)

という中身になっている。


 前半(1〜3章)はマルクスの労働力論をもとに、現代の賃金のしくみの本質を説く。この部分の基本点はマルキストのぼくからみて、だいたい正しい。
 簡単に言えば、給料は報酬なのか、必要経費(コスト対価)なのか、という議論で、古典的にも労働への対価か、労働力の対価かとして争われてきた議論を、今日風に言い直しているものだ。木暮はマルクスの立場にたって、ズバリ後者、すなわち必要経費であるという視点を提供する。報酬という体裁は幻想なのである。
 みんなそこをダマされて「ラットレース」(木暮の比喩だけど、これは「回し車」が正確ではないのか)に参加させられている、というわけである。

賃金=労働力の再生産コスト

 賃金とは労働力の再生産コストであり、早い話が生計費ということだ。


 そこから、マルクス出来高賃金批判を応用しながら成果主義の虚妄を批判し、途上国との賃金格差の生まれる理由、年功賃金の成立などを見事に説明していく。


 さらに、使用価値と価値の説明によって、需給による価格決定とその現象の奥底に価値による規定が潜んでいることを語る。価格は上下するけど、鉛筆はだいたい100円、ビルはだいたい10億円……というような差は効用からは説明できないということだ。好況・不況による労働力価格の上下は基本的には需給による上下であることを読者は理解する。医者の労働力価値とパートの労働力価値は、再生産費用の差(端的には修業費)によって決まる。


 後半は処方箋だ。「ゆえに、賃金奴隷制=資本主義とたたかおう!」とは呼びかけない。木暮は自己啓発、つまり個人主義的な「解決」をはかろうとするのだ。

後半部分の大混乱

 4章からいきなり、「売上−経費=利益」というさっきまで価値レベルでの説明をしていたはずなのに、突如商品経済のもっとも上澄みの現象面の用語を使った解説をしはじめる。

(売上)−(経費)=(利益)

は、さっきまで木暮がやっていた価値レベルでいえば、c(不変資本、機械や原料)、v(可変資本、人件費)、m(剰余価値、利益)とすると、本当は

(c+v+m)-(c+v)=m

ということにほかならない。そしてマルクス的にいえば、これは社会全体でみると動かし難い


 さらに木暮は、p.187で突如「満足感」という概念をもち出す。
 木暮は、

(売上)−(経費)=(利益)

を労働力商品にあてはめると、

(年収・昇進から得られる満足感)−(必要経費〔肉体的・時間的労力や精神的苦痛〕)=(自己内利益)

となるというのだ。労働力の消尽を賄うものが必要経費であるというのはまだいいとしても、それと対比されるものが「満足感」だというのは実におかしな理屈である。


 木暮は以後の議論を、この概念上の途方もない混乱を持ち込んだまま、すすめていく。そして、利益をふやすには、経費を削るか、売上を増やすしかない、という議論をするのだ。


 本書を読み終えたときに、木暮の言いたかったことは、仕事上のライフハックであると気づく。それをマルクスの体裁で述べているだけなのだ。だが、ぼくには、概念的な混乱をさせたまま、無茶なマルクスへのこじつけをやっているだけに映った。

木暮になりかわってマルクスチックに言うと

 木暮の言いたかったことを、概念上の混乱なく、マルクスに結びつけていえば、次のようになるかもしれない。


 木暮が労働力において「経費を削る」と言っているのは、第一に「平均以下の経費で生活する」ということになるだろうか。すなわち「貯金する」ということになる。
医療保険なんていりません! (新書y 224) 何を今さらwwww と思うかもしれないが、木暮が書いた新書のシリーズ(星海社新書)が20代くらいを想定した本だということであれば、貯金は大事だ。

夫と妻の2人だけであれば、それほど大型の死亡保障は必要ないということです。結婚後の人生設計の中で、夫婦2人の時は唯一の“貯めるチャンス”なのです。少しでも貯蓄することが大切な時期だけに、高い保険料を払っている場合ではありません。(荻原博子医療保険なんていりません!』洋泉社新書p.38〜39)

将来の経済的生活不安問題は、健康に依存する問題を除くと、生涯を通じて消費をいかに平準化するのか、ということにほぼ尽きる。……仮に「働いていた時期の平均的な経済生活レベルを老後も維持すること」を条件として考えると、手取り収入の3分の1を貯蓄運用に回して、手取り収入の3分の2の生活費で暮らすなら、老後に生活レベルを落とす必要はない。/1つ目は、老後の生活費がおおむね現役時代ほどかからないことだ。……2つ目の余裕は、物質的生産性の進歩が見込めることだ。……3つ目は、先に収入も貯蓄も「手取り」をベースに計算し、年金の支給などの社会保障給付の受け取りを一切計算に入れていないことだ。つまり、「3分の2生活方式」にあって、年金は丸々「余裕」なのだ。(山崎元「『鉄板!生活』のマネー・プランニング」)

http://diamond.jp/articles/-/17061?page=3

 そのために、固定費を削ること。家賃の低い粗末なアパートに住み、民間保険にはできるだけ入らず、自動車など持たぬことだ。自動車の私有が必要な地域と職業は選択しない(できない人がいる! というツッコミは後で考えるので、いまは黙っていてくれ)。必要ならタクシーを躊躇なく使え。


 話を元に戻すけど、自分が余力をもって仕事できるな、という仕事を選ぶ(まあ初めからはなかなか選べないよな)、もしくは仕事の中でそういう余力を獲得していく。そうすることで、労働力の回復コストが低くなる、ということもできる。
 つまりストレスが少なくなるので、気持ちに余裕を持てる、ということだ。好きな仕事だとか、やりがいのある仕事、とかじゃなくて、余力が持てる仕事を選ぶ、余力がもてる仕事にする、ということ。
 一番単純な指標は労働時間として現われる。10時間でやっていたのが8時間でできるようになると、労働力としての寿命が長い。


よろしい! 私は、分別ある倹約な一家のあるじのように、私の唯一の財産である労働力を管理し、そのばかげた浪費はいっさい節制することにしよう。私は毎日、労働力の正常な持続と健全な発達とに合致する限りでのみ労働力を流動させ、運動に、すなわち労働に転換しよう。……もし一人の平均労働者が合理的な労働基準のともで生きることができる平均期間が三〇年であるとすれば、……もしあなたが私の労働力を一〇年間で消費するとすれば……私の商品の価値の2/3を日々私から盗むのである。……これはわれわれの契約および商品交換の法則に反する。したがって、私は標準的な長さの労働日を要求するのであり、しかもあなたの情に訴えてそれを要求するのではない。というのは金銭取引に温情はないからである。(マルクス資本論』第1部第8章、新日本新書版2分冊p.397〜398)

 この一文はマルクスが標準的な労働日を求める正当性について書いたものだが、別の言い方をすれば、標準労働日であってもこっそりとそれを下回る労働エネルギー投下で仕事ができるようになれば、労働力寿命は長いということになる。


 木暮があげているもう一つの点、「売上を増やす」にあたるものは、労働力商品の価値もしくは価格を上昇させるということになる。
 労働力価値の上昇は、修業費の増大によって生み出される。わかりやすくいうと、資格をとったり、留学したり、学校にいったり、新しいスキルを身につけることだ。
 本田良一『ルポ 生活保護』(中公新書)に、母子家庭になった30歳の母親が、子持ちのひとり親ではなかなか職がなく、看護資格をとろうとしてまず看護助手になり、次に看護師をめざすが、仕事をし、子育てをしながら、本人にとっては難しい勉強をこなす苦労を書いている。それでもようやく正看護師になって給料と安定が得られるという話が出てくる。資格取得は役に立たないかのように言われるが、有効なケースは依然として多い。
 しかし、もちろん、そんなに資格取得でスキルアップ、収入も安定もゲット、というようなことが簡単でないのも事実である。
 木暮の本に戻って言えば、仕事を自分にとっての研修にみたてて、無料でスキルアップしてしまえばいい。仕事している間、将来に自分にとって必要な技術や要領を学びとってしまい、それによって「必要とされる人材」「余人をもって代え難い人間」としてしまうのである。抽象的スキルアップではなく、その企業のなかで「なくてはならない」存在になるためのスキルアップをやってしまう。


 20代ではこの視点、なかなかないだろ。つまり自分が30代、40代になったときの企業内でのポジションを考えて、仕事の中でスキルを蓄積せよ、というのだ。


 これと、木暮がすすめる「技術が陳腐化しにくい業種を選べ」という推奨とあわせると、面白い。

 たとえば、下記のまとめでは、

8年以内に大失業時代がやってくる!? - NAVER まとめ 8年以内に大失業時代がやってくる!? - NAVER まとめ

「求められる専門性」とかいうことで「コンピューターサイエンス」とかいっているわけだが、ITほど技術の陳腐化が早い分野はない。そうではなくて、木暮が例示しているように建設業や農業のようなものの方が陳腐化が遅い。

 つまり、陳腐化が遅い産業に入って、意識的にスキルを蓄積すれば「なくてはならない存在」になることができやすい。労働力商品としての需要が高くなるのである。実際に修業費(養成費)として価値があがっている可能性もある。


 以上が、ぼくがマルクスに整合的に木暮の結論を修正したものである。

「僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?」の本当の答え

 しかし。
 やはり、これはできない人が多数だろう。
 たとえば、そもそも貯金なんかは、もしみんなが貯金できるのであれば、そういう生活水準が平均生計費になってしまい、労働力価値が下がってしまうからだ。ごく一部の人しか実践できない「抜け道」だと考えた方がよい。

わたしと一緒に「新しい働き方・生き方」を目指してみますか?
(木暮p.180)

 いやー、それ、一部の人だけが通れる道ですから。あとは死屍累々。


 「じゃあ、お前は対案だとかいって資本主義との闘争をめざすんだろ」と鼻白む人もいるだろう。
 社会改革を提案することは間違いないんだけど、「資本主義との闘争」みたいな抽象的な文言ではない。


 マルクスの労働力論で大事な視点は、たしかに木暮のいうように、労賃とは労働力商品の再生産費用であり、経費であり、生計費+修業費である。そこまではいいんだが、マルクスが死んでから重要な現実の発展がある。
 それは社会保障の発達である。
 この生計費+修業費が、公的な保障によってまかなわれるようになってきているということだ。住宅、教育、医療、年金、失業……こうしたことにたいする保障はほとんどがマルクス以後である。
 最低生計費が再分配によって公的な支給を受けるようになれば、企業にしがみつく生き方はその分だけ少なくなる。失業給付がよくなればなるほど、ブラック企業が人を使い捨てにすることはできなくなるのと同じである。


 労働者は、どうなるべきだろうか?


 第一に、さまざまな社会保障を組み合わせることで、公的な最低生活保障をつくりだすことだ。
 第二に、労働組合を媒介にして、企業にモノがいえる存在になること。
 企業という存在に対して、対等でモノがいえる存在になることこそ、『僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか?』というタイトルへの回答になる。

マルクスの使い方はやられた

 それにしても、マルクス自己啓発に結び付けるというその発想はなかった。前半部分だけでも、木暮の論じ方は見習うべきものがあって、前半部分の労働力・賃金論は、労賃とは畢竟必要経費でしかない、というふうに常識をまず覆す爽快感を読者に与えようとしており、労働組合の「経済学教室」などで同じことを説いているにもかかわらず、新鮮にうつる切り口になっている。
 結論や途中の命題には違和感を持ちつつも、こういう論じ方は大いに学ばされる。