花津ハナヨ『情熱のアレ』

セックスレスは結婚カップルでズレがあった場合に深刻

 セックスレスが深刻な問題であるのは、未婚カップルの場合じゃないよな。
 別れりゃいいんだから。
 やっぱりした結婚したカップルにとって重大な問題なんだよなあ。
 結婚したらおいそれと別れるわけにはいかない。でも、子どもがいなければ最悪、別れてもいい。子どもがいたら、まあこれだって別れることも選択肢だけど、セックスレスを理由として別れるというのはいかにも難しい。家族やパートナーとしては他に申し分ないというような場合はいっそう深刻だ。
 でも、どっちももうセックスする気が失せていれば、セックスレスではあっても、まったく問題化しない。
 問題は、片方がセックスする気まんまんなのに、他方がセックスする気ゼロというようなときだろう。
 どうするんだ。


セックスレスはどう解決するのか?

(1)あきらめる。オナニーとかでがまんする。
(2)パートナーをその気にさせる。
(3)外部でセックスすることを承認してもらう。


 不倫とか「浮気」とか、いわば姦通を認めず、合法的に解決しようとすればこの3つしかない。


 エンゲルスは『家族・私有財産・国家の起源』で、「愛情がなくなりゃ別れりゃいいじゃん」というむねのことを言った。経済不安から解放されている社会ならね、という前提つきで。経済を営む単位として個別家族を維持しないといけない、という縛りがなくなれば、純粋に愛情によってだけ結ばれた夫婦になるから、愛情が消えれば別れるってことになるだろ、というわけだ。

愛にもとづく婚姻だけが道徳的であるならば、愛がつづいている婚姻だけがまた道徳的である。……愛情がはっきりなくなるか、あるいは新しい情熱的な恋愛によって駆逐される場合は、離婚が双方にとっても善事となる。(エンゲルス前掲p.112、新日本出版社古典選書)

 (3)は過去に描かれてきたマンガ作品では、割りきった夫婦関係にしようと双方がドライな契約を結ぶものの、たいていは家庭としては崩壊した調子で描かれる。この選択肢は社会実験の域を出ず、まだうまく操れていないのである。


 そこで(2)ということになる。


 しかし、セックスがイヤだという相手、もしくはセックスが面倒くさいという相手にどうソノ気になってもらうか、などという問題設定はいかにも義務の臭いがする。


 「セックスをしたい」という気持ち、「セックスをすると気持ちがいい」という感覚は、とても繊細なものだ。別の言い方をすると、セックスにまつわる感情は、異常なまでに増幅されて個々人を支配する
 パートナーに言われた一言がずっと自分に刺さって、不能になるとか、それ以来嫌悪してしまうとか、あるいは、性行為の最中にちょっとだけ強い力で与えられた刺激が自分にとってはとてつもない苦痛として現れ、もう二度としたくないと思ってしまうとか、日常生活ではそれほど大きな問題にならないような言動が、拡大され増幅されてその人の感情を支配するのである。逆にいえば、ちょっとしたことでとてつもない快楽を得られるということでもあるけど。


 そういう繊細きわまる分野に義務臭の強い「したくないセックスをさせたい」とか「セックスしなければならない」という「課題」をもちこむことがいかにセックスという営みを破壊するか。カンタンに想像できる。



 (2)を考えるためには、相手をどう操作するか、相手の養成にどう応えるか、という義務感をまずは忘れる必要がある。自分の性欲とか、体の声・悲鳴というものを、まずは素直に耳を傾けてみるといいのだろう。つまりその人にとって気持ちいいこと、不快なことを、思い出すことだ。


情熱のアレ 1 (クイーンズコミックス) セックスレスが深刻な問題であるのは、結婚した夫婦の場合じゃね? と冒頭にぼくは言ったのだが、そういう角度からいえば、今回紹介する花津ハナヨ『情熱のアレ』(集英社)は問題を考えるうえで、不向きなように思える。
 この漫画の主人公のマキは、28歳の独身女性で、同じ会社の同僚男性(「類」=ルイという名前)が恋人であり、同棲している。マキと類は恋仲ではあるが、セックスレスである。同棲は3年間続いているが、セックスレスはそのうち2年間。
 ルイはセックスレスであることに何の悩みも持っていない。
 他方で、マキは自分の性欲をどう扱っていいかわからない。「女が欲望をむき出しにするのが嫌いみたい」というのが類のスタンスだとマキはふんでいる。だからこそセックスしたいと迫ることはもちろん、そのことをカップルの間の話題にすることさえためらわれる空気なのだ。


 こういう設定だから、「そんなら別れたら?」というふうにすぐに思ってしまうところである。実際、女性が性的欲望を表出することを嫌悪し、一方的にパートナーにそれを押しつけるルイという男はおよそ魅力的にはみえず、「こんなヤツ早く別れろ」とか思ってしまう。


夫婦の体温 (オフィスユーコミックス) それにくらべると、結婚した夫婦におけるセックスレスを扱った短編集、幸田育子『夫婦の体温』(集英社)の方が、いかにもこの課題を考えていく上ではふさわしいように思える。


 しかし、『夫婦の体温』は、それが結ばれるにせよ別れるにせよ、愛情を問題の核においていることに違和感をおぼえた。愛情があるかないか、愛情を復活できるかどうか、そこにセックスレス問題を解決するカギがある、と言っているように見える。


 これに対して、『情熱のアレ』は、もっとカラダが叫ぶ性的な欲望に忠実だ。
 マキの実家が玩具を扱う会社だったのが、マキが知らない間にセックスグッズを扱う会社――「大人のオモチャ」を扱う会社になっていたことを知り、マキは仰天する。それをきっかけに、マキは、自分の性的欲望をさまざまに眺め回し、観察する契機になっていく。やがて自分が勤めている会社をやめて、母親の事業を手伝うようになるのである。
 アダルトグッズを中心にすえたということは、先ほどぼくが言った、

自分の性欲とか、体の声・悲鳴というものを、まずは素直に耳を傾けてみるといいのだろう。つまりその人にとって気持ちいいこと、不快なことを、思い出すことだ。

というテーマに焦点をあてようとしていることがわかる。

北原みのりと本作

セックスという迷路―セクシュアリティ文化の社会学 『情熱のアレ』は、作品の終わりに取材先を書いているが、そこには、フェミニストである北原みのりが経営するセックスグッズの会社「ラブピースクラブ」も出ている。北原は『セックスという迷路』(長崎出版)という論集のなかで、次のようにのべている。

仕事をするときにまず選んだのが、自分の欲望をきちんと表現できるような場所です。(北原「オンナを楽しく生きる――ラブピースクラブを作ったわけ」、井上芳保『セックスという迷路』所収、長崎出版、p.93、強調は引用者=以下同じ)

〔セックスグッズで――引用者注〕女用とか女物とか女性向けとして与えられているものとは何だろう、そこに並べられている大きなチンコとかが自分のものでないならば、何か違うものを作りたいなと思い、バイブを作ることにしました。まずチンコではない指型のバイブをと思って作りました。……今までのセックスの形って女の体にチンコを入れるというイメージが固まっていますが、インターネットで女性がやっているセックスグッズショップに出会ったんです。そのお店はアメリカのフェミニストがやっているショップでした。フェミニストがセックスグッズを売ること自体が私にはとても新鮮だったし、彼女たちのメッセージは自分が入れたいもの、自分が気持ちいいものを作るということです。(前掲p.94〜95)


 北原は、そういう店をやりはじめて、フェミニズム内の別の潮流から批判をうけたときのこともこう書いている。


が、今度は“やっかいな”フェミニストの方々にもたくさん出会いました。例えば、「ペニス型のバイブを売るなんて、結局は異性愛主義と全く同じではないか」とか。……原理にこだわるフェミの方は、「クリトリスに刺激するだけでいい。膣の刺激なんて、ない」とか言ったりする。本当ですか? 私はむしろ思想に縛られて体の感覚を失うことが怖いな、と思いました。気持ちのいい形を自分が決めて自分で選ぶ。入れたって入れなくったって、それは自分で決めること、でいいじゃないの? と。女の欲望に関して、それは間違っているみたいな言い方はしたくない。自分自身がフェミニズムに傾倒していたときに「あんたはそうすべきではない」と言われて辛かったわけで、禁止しないようにしたら自分が楽になった。(前掲p.97)

 北原にとってフェミニズムは自分らしさを失わせるものとたたかう道具として存在している。自分の欲望や快楽を体の感覚を通して確認し、それを抑圧するものをとりはらって自らを解放するという思想はシンプルで、強い。

『情熱のアレ』におけるテーマ――カラダの欲望に忠実に耳を傾ける

 この命題は、『情熱のアレ』においても中心テーマである。
 マキは、いま勤めている会社と母親の会社を手伝うダブルワークをするうちに、疲れてしまい、本業のほうでとんでもないミスをやらかしてしまう。そのとき、本業の仕事をこのまま続けることの空しさを感じながら、すでに別れているルイを呪うかのように、ひとり夜の土手で片手に叫ぶ。

どうしてあなたに誘われるのを待ってなきゃいけなかったの
あたしから動いて何がいけないの
あなたが終わったらそれで終わり?
あたしは射精の手伝いをしているだけ?
セックスってこんなつらいものじゃないでしょ
もっと楽しくしたいよ
(花津前掲2巻p.149〜150)

 しかし、不意にマキは気づく。

どれくらいの人が性生活に満足しているんだろうか
セックスレス大国だもん
抑圧されている人はいっぱいいるよね



一人でも多くの人が性生活を楽しめるようなものが作れないかな
もっと自由になれる手伝いをしたい
(前掲p.150〜151)


 そして、その場から本業の会社をやめ、母親の会社の仕事に本腰を入れる決心を母親に告げるのである。


 マキは、新しい恋人の女性同僚(清水)にしばしば揶揄され、いじめられる。そのときにいじめられる材料の一つが、マキがセックスグッズ業界にとびこんだ動機についてである。マキが自分のセックスレスがきっかけだった、と「自分語り」をしたあと、清水が「くす」と笑いながら、こうつっこむ。

なんか自分の悩みを解決したかっただけみたい
(前掲p.172)

 その通りであろう。
 しかし、そういうマキの「純粋」な気持ちが無前提には肯定されず、たえず検証されたり、客観的に見られるというのが、この作品の面白いところだ。

 花津自身はこう述べている。

花津 セックスしたいならしたいでいいし、したくないならしないでいい。なのにどちらも他方から責められてるような気がしたり、自分で自分を責めちゃったりして苦しんでる人が多いと思うんです。何かに縛られてるわけじゃなく、自分で自分を縛ったりしちゃう。それから解放できればいいなと。

http://www.cyzowoman.com/2011/10/post_4490.html

 別にセックスのハウツー本じゃないんだけど、本作にはよくベッドの上での会話が描かれる。マキの新しい恋人(「王子」というあだ名)が従来のマキの縛られたセックスを解きほぐしていくわけだが、その一つとして、「自分の気持ちいいところ、気持ちのいいケアのされかたを、相手の体にやってみることで、相手にそれを伝える」というのがある。

王子は?
脇の下やひざのウラのあたり?
えっ こんなに強く?
もしかしていつも物足りなかった?


前に「どういうセックスがしたい?」って
聞かれて答えられなかったのは
それまで相手がしてくれること
受け入れてただけだったからだ


きもちいいこと
自分で探って
相手に示して
相手から教えてもらって……
こんなふうに体で会話できるなんて
知らなかった
(前掲3巻p.187〜188)


 へー、とか思った。純技術的に。
 そう書くと、すぐ俺のセックスライフを想像するお前らのエロたくましさに脱帽ですわ。


30歳の保健体育  恋のステップアップ編(2) (4コマKINGSぱれっとコミックス) 妄想の解放としての「レディースコミック」は昔からあるけども、現実のカラダの快楽、そこからつながっている感覚やココロの解放としてセックスを描いているのが本作である。
 カラダの解放が、性的妄想ではなく、具体的・物理的な技術として提示されるのは、宋美玄『女医が教える 本当に気持ちのいいセックス』(ブックマン社)や三葉『30歳の保健体育』(一迅社)シリーズのように最近ふえてきたが、物語として一つの完成をみせていることに本書の意義がある。ぼくも先週、出張先でずっと読み直していた。いい作品である。いつか書評を書きたいと思い、年月がたってしまった。



 こうした試みをしたといってそのままストレートにセックスレス解消になるわけではない。しかし、

自分の性欲とか、体の声・悲鳴というものを、まずは素直に耳を傾けてみるといいのだろう。つまりその人にとって気持ちいいこと、不快なことを、思い出すことだ。

という思想を、もしカップルの中に築き、共有できるとすれば、それはセックスレス解消の一つの道を示せるのかもしれない。そのうちそういう学校もできるんじゃねーの。技術なんてやっぱり具体的に指導する場所がいるんだよ。
スローセックス実践入門――真実の愛を育むために (講談社+α新書) とか思っていた矢先、こうしたハウツー系のひとつで、アダム徳永『スローセックス実践入門』(講談社α新書)を読んでいるさいに、著者のアダム徳永がすでにセックス学校(セックススクールadam)を開いていることを知り、やっぱりそういうものができてくるのか、と思わずにはいられなかった。

清水ファンクラブ

 ちなみに、『情熱のアレ』に出てくる清水ってものすごくぼくのツボにくる女性。

 主人公のマキを徹底していじめぬいている(皮肉を言う、からむ、という意味)んだけど、海外ぐらいが長くズケズケものを言うという設定で、クールでデキるというのがなぜかぼくの心をとらえて放さない。マキにからんでいるのも、嫉妬からじゃなくて、マキ(及びマキの恋人の「王子」)という対象を冷徹に観察して、あびせる一言ひとことがいちいち鋭いというのが、もうたまんねえな!

 上記の図版*1をみてもらうとわかるが、好奇に満ちた目で対象を観察し、しかし冷たくて頭のよそうな印象が、グラフィックからこぼれている! すばらしい。清水ファンクラブ作りたい。

治療対象としてのセックスレス

セックスレスの精神医学 (ちくま新書) ところで、セックスレスを「治療の対象」として扱う立場もある。阿部輝夫『セックスレスの精神医学』(ちくま新書)はまさにそれで、

セックスの問題は、従来医療の対象とはされなかった。好きな異性とセックスできない、性的に興奮することがない、勃起しない、感じない、セックスが怖い、異性に性的な興味がわかない……という訴えは、長く医学の世界から無視されつづけてきた。
 こうした心とからだの性的なトラブルを医療の対象としてとらえ、カウンセリングや治療の方法をうちたてたのは、アメリカのマスターズ(William H. Masters)とジョンソン夫妻(Virginia E. Johnson)、カプラン(Helen S. Kaplan)らの真摯な研究の積み重ねと啓発活動によるところが大きい。(阿部前掲p.12)

とある。ここに書かれているように、この立場はけっこう長い歴史をもっており、阿部自身もすでに一定の「実績」をもった権威である。
 これはまさにダイレクトにセックスレスを「治す」という試みだ。こういう立場はフーコーの議論のように、批判されるべきものがあるのかもしれないが、読んでみると、すべてのセックスレスではないだろうが、たしかに一定以上はこうした「患者」がいるのだろうな、という説得力がある。

測定してみると、一〇キログラム以上の握力マスターベーションをする人は、女性の膣内では射精しにくい。(阿部前掲p.100)

というのは興味深かった。あと、性欲相障害(性欲が起きないという訴え)にたいして、性欲の起こし方やオナニーの方法を段階的に指南し、感覚をどういうふうに集中させていくか訓練させる様は、朔ユキ蔵『セルフ』(小学館)を地で行く世界だよね! と思った。バイアグラにつきまとっていた負のイメージも本書で消えた。


 なお、ぼくがセックスレスかどうかは、むろんここでは書かない。

*1:花津ハナヨ『情熱のアレ』2巻、p.167