鈴木みそ『僕と日本が震えた日』

 「民医連新聞」2012年2月6日号で、上野顕太郎さよならもいわずに』を紹介した。なぜなら。震災1周年にあたって、被災を直接していない人たちにも「身近な人たちが突然いなくなる」という感覚について考えてほしかったからだ。


上野顕太郎『さよならもいわずに』 - 紙屋研究所 上野顕太郎『さよならもいわずに』 - 紙屋研究所


 漫棚通信ブログ版が震災1周年にあたっての漫画をいろいろ紹介している。
http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/post-b816.html

僕と日本が震えた日 (リュウコミックス) 震災をどう漫画にするかということは、依然苦闘の中にある。
 『僕と日本が震えた日 東日本大震災ルポルタージュコミック』(徳間書店)のなかで鈴木みそは、その難しさをこう書いている。

うーん うーん…
ものすごく難しいですよ…
震災後
しばらくの間
何描いていいかわからなくなって
さっぱり仕事にならなかったくらいで


ギャグは笑えないし
まともに描くとヘビー過ぎるし

鈴木のこのルポで成功した部分と失敗した部分

 その結果、鈴木が最初に描いたのは自分の震災体験だった。目立つところにだけ注目がいきがちだが、大きい被害だけが震災じゃない、という編集者の言葉に励まされたかっこうである。
 この言葉はたしかに真理ではある。
 個別の特殊の体験のなかに普遍がある――というテーゼだろう。
 しかし、そうやって描き上がった鈴木の震災体験は、ぼくにはやはり「無数の体験の中の一つ」でしかなかった。それ以上の意味を見出せなかった。同じように本巻末に鈴木自身が被災地を車で訪れた体験を描いているが、これも「写真で載せたほうがよほどよい」というものでしかなかった。いや個人の体験にケチをつけるというのは野暮なことだって百も承知ですが。


 ところが、そうでない章のところは、鈴木ならではの視点が生きている。
 Report2.の出版における震災被害を描いた回は、カネとビジネスを取材し続けてきた鈴木の本領発揮というべきところだ。
 莫大な在庫が、ぐちゃぐちゃになり、スプリンクラーの誤作動で損害がまだらに発生し、売れ筋の本か否かによって明暗がわかれることに。倉庫は「ゴミと宝]
が混在する場所になっている。
 よく電力不足によって、自社発電に切り替わり、綱渡りをしている産業があると報じられているが、いずれにせよ、震災や原発の影響が産業ごとにどんなふうに出ているかを「微細に」見ていくことで、もっと見えるものがあるかもしれない、と感じさせてくれる回であった。

放射線量の測定――「何が測れないか」を明らかにする

 放射線量の測定についてコミカライズした部分はネットで話題になったという。いや、ぼくは知りませんけど。
 放射線量の測定で、鈴木が紹介した野尻美保子(KEK教授)の解説がわかりやすいのは、「何が測れないのか、それはなぜか」を述べているせいだ。「全ての規定は否定である」というスピノザの言葉のとおり、「どういうものか」を明らかにするために「どういうものではないのか」を明確にしている。


 食品の放射線量測定のところでは、科学者や専門家が集まって放射線量を測るという場に鈴木がやってきてその様子を活写している。
 たとえば菊池誠がリンゴをかじりながら登場する。世間話をするようにリンゴの味を評論しながら現れる菊池に、それ、20ベクレル出たリンゴですけど、と指摘する鈴木。「1キロ当たり20ベクレルでしょ?」と平然と返す菊池。
 当たり前のことではあるが、淡々と対処し、では銀杏のカラだけでなく中身だけだとどうなのか、実際に測ってみよう、とわらわらと他の学者が集まってくる。

「砕いて測ってみればいい」
「実だけだといくらだ?」
「面白い そんなデータないね」
「カラも計測してみよう」


「81ベクレル」
「何粒あった?」
「70粒でグラムをかけると」
「1粒あたり0.1ベクレル」

 鈴木は「先生たちはすぐに実験を始めるの法則」と感動している。たしかに半ば面白がりながら、ドライな調子で数値を出していくこの人たちの気質がよく描けていると思う。

 
と同時に、単位や数値の読み取り方で印象がまるでかわってしまう事実が描かれている。
 ぼくが学習会などにいって、こうした数値のことについてまともな読み取りもせずに、騒ぐ人にはもううんざりしている。もちろんぼくも知らない。知らないからよくわからないことも多いし、誤解していることも少なくないだろう。自分の恐怖感や安心感にはそういう脆弱さがいつも伴っていることを注意していないと、足下をすくわれる。

食品の放射能濃度を考える3つのモデル

 食品の放射線量測定のところで参考になると思ったのは、低線量被ばくについて、(1)現在の暫定規制値で許容する派、(2)国際基準であるLNT仮説にもとづいて年1mSv以下を望む派、(3)ECRRの厳しい仮説にもとづいて年0.1mSvしか許さない派、の3つにあわせて上限量を考えてはどうか、と提案している部分だ。
 (1)は流通しているものは食べていい、(2)はキロあたり50ベクレル以下、(3)はキロあたり5ベクレル以下である。
 ここで鈴木が「え?先生 ECRR含めちゃうんですか?」と驚いているように、しばしばネットなどで「気にしすぎ団体」扱いされているECRRであるが、応じた勝川俊雄(三重大学)が「リスクを最大限に見積もってもこの程度という参考にね」としている態度が好感がもてた。
 安斎育郎や野口邦和といった原発反対派のなかでも、放射線の影響については慎重に取り扱っている人々は、数字をきちんと計算してみせたうえで、年1mSv前後の低線量のような場合、それを気にするかどうかは「個人の問題」だと強調していた。逆にいえば、一方の態度をあざ笑ったり、感情的に非難するのは正しくないということである。安斎はさらに論をすすめて、それらが理性的に議論し合うことが民主主義にとって健全だろうと述べている。
 そうした立場からすると、勝川の態度は、よい。
 「ECRRを信じるような人はトンデモ」といって初めから排除してしまうのではなく、これらの人たちが共存しあえるモデルを提供しているのだから。
 勝川が、

「みそさん個人がそう考えることは問題ありません」
「最後は個人の価値観の問題です」

と繰り返し強調しているのは正しいのである。まあ、このモデルが実現するためには被災県だけでなくすべての食品の放射線量が測られることが必要なのだが……。


 あと、勝川は、セシウムをふくんだ食品を食べた時の内部被ばくの数字について述べていたが、いつも計算するのは面倒なので(←さっきと言っていることが違う)、メモ的にここに書いておく。

セシウムは134と137が同量あるとすると
大人の場合6万0606ベクレル
幼児8万8106ベクレル
乳児4万2553ベクレル
それが1ミリシーベルトに相当するベクレルです

 鈴木が「幼児の方が大人より強い?」と聞いて「セシウムはそうなんですね」と答えているのもメモっとく。
 他にも「もともと食品の中にある放射性カリウムって、測定のさいにどういうふうに扱われているんだろう?」という疑問をもっていたが、それも本書で解くことができた。


震災はまだぼくらにとって「終わっていない現実」だということ

 ぼくは鈴木のこのルポコミックを読んだとき、最初と最後の2つの編があまりよく出来ていないと感じ、中に挿入されている大部分が興味深かったのはなぜだろうと考えてみた。
 大ざっぱにいえることは、この最初と最後の2編には震災を受けての感傷を描くことが大きな部分を占めているが、間の大部分はそうした描写が小さくて、事実そのものを知的好奇心に応じて掘り進んでいるという違いがある。
 家族の喪失をはじめ、震災と原発を感傷的に表現することは、新聞記事をはじめとする文字の情報の中であふれている。そうした表現に対して、漫画はまったく打ち勝てていないと思う。深刻な体験をした人と、巧みな漫画表現ができる人が重なっていないことが基本だろうと思うのだが、たとえば他人の体験を読んだり聞いたりした人でも、取材をして漫画表現に変換することはできる。
 しかし、そういう作品がまだ生まれていないということは、まだ震災の体験がぼくらの中でうまく消化し切れていないということなのだろう。
 出版社から震災にからめたコミックを恵投していただくことがあるが、感傷が前面にでてしまう作品は、残念ながらぼくの心には響かない。
 これは、鈴木のルポの「中の部分」こそが、ぼくにはビビッドに響いたということを考えてもわかるが、放射線量測定をはじめ、震災・原発は「まだ続いている現実」なのである。だからこそ、ぼくらの中でこれらのテーマがまだ形にならず、表現者たちが苦悶しているというのは理由のあることであろう。