日生マユ『放課後カルテ』


 「週刊プレイボーイ」2011年12月20日号で瀬川藤子『VIVO!』についての書評を書いた……ってどんだけ日にちがたってんだよ。すいません、ただのお知らせだけじゃなくて、なんかつけくわえて記事を書こうとしているので、こんな事態になっておるのです。これからも紙媒体への掲載のお知らせはボチボチやっていきますので、ご容赦を。


VIVO! 1 (マッグガーデンコミックス アヴァルスシリーズ) さて、『VIVO!』は突然高校教師になった男ナカムラが主人公であるが、冒頭にネットでの株の売買をやっているシーンが出てくるように、自分の趣味や好きなこと、快適なことに没頭している人間だという設定になっている。

「教育に関心がない教師」か、「裏熱血教師」か

 この種の設定で難しいのは、「教育に関心のない教師」という出発点であったにもかかわらず、「熱血や主流ではない形で実は教育に問題関心をもっている教師」になっちゃっているという場合があることだ。つまり教育方法は破天荒だが、その破天荒な方法で教育にあたるという「オルタナティブ教師」「カウンター教師」というのは、教育に無関心なのではない。たとえば左派系組合である全教に入って教育研究集会とかでカンカンガクガクやっているような教師というのは、文部科学省がやろうとする教育には批判的であるが、教育に無関心ではない。それどころか、大いに教育には関心をもっているのである。


 『GTO』とか『ごくせん』なども「教育に関心のない教師」的装いを初めはもちつつも、結局は「裏熱血教師」的なものになっていった。前も書いたが、この「教育に関心のない教師」を描こうとして破産した野心作が安田弘之『先生がいっぱい!』である。


 『VIVO!』は現在のところ微妙な線をいっている。
 ナカムラの基準は「自分の快適さ」のみのであるはずだが、同時にそれを基準にしたナカムラの行動が、正攻法教育の逆張りのような形になっているエピソードも多い。不登校になった女子生徒の読んでいた文庫本を「ハズレ」と大声で評価したことが、女子生徒が気持ちを通わせ「この先生ならラクにつきあえるのではないか」と感じるくだりは、まさにそれだ。


 まあ、無理に「教育に関心のない教師」に徹してそういうものを描く必要はない。漫画として面白ければそれでいいんだから。

表面は「反教師」だが、本質は「熱血」

放課後カルテ(1) (BE LOVE KC) この分類で教師漫画を見た場合、日生マユ『放課後カルテ』は、一見するとわかりにくい。『放課後カルテ』は小学校に赴任した「ほけんのせんせい」牧野の漫画である。
 保健室というのは、「保健室登校」があるくらいで、心理的なケアがある程度おこなえるような、居心地のいい場所であるイメージがあるから、そこにいる「先生」も当然居心地のいい存在であることが前提となる。
 ところが、牧野は無愛想なことこの上ない。保健室で寝ている子どもをいきなり放り出し、

オレが今日からここの担当だ
オレの許可なしにベッドで寝るな!
わかったな!!

ときわめて権威的・抑圧的に怒鳴り上げ、「ピシャッ」とドアを閉める有様である(同1巻p.8、下図参照)。どう見ても『VIVO!』のナカムラです(同1巻、下図参照)。本当にありがとうございました。


 このような出だしから見れば、『放課後カルテ』は「反熱血・反主流」であろうと思うのだが、実は牧野の「ほけんのせんせい」としての任務遂行ぶりは完全無比なほどに「ほけんのせんせい」然としているのであり、主流中の主流ともいえる働きぶりなのである。


 眠気がおそって授業がまともに受けられない「サボり魔」のように扱われている少女が突然教室で倒れる。牧野は倒れた現場にやってきてそれが「ナルコプレシー」、過眠症の発作であることを見抜く。「サボり魔」として排除されいじめられていた少女を、クラス全員がいるなかで「病気」であると力強く断定することの頼もしさはこの上ない。「居眠り・サボリの常習犯」という評価は、瞬時に不当なレッテルであったことが医学的・専門的・科学的に暴露され、崩壊するのだ
 もしここで牧野が「うーん……(過眠症かもしれないな、と心の中でつぶやく)……ひょっとしたら野咲さんは、えーとね、病気……かもしれないから、あのですね、えー、お医者さんでくわしくみてもらおうか。ね?」などとヌルい発言をしていたら、クラスの空気はこうも変わらなかっただろう。

「さっき校庭で倒れたときも
 オマエらが彼女をあおって騒ぎ立てたんだろう
 周囲の人間が病気を知らないことで
 知らず知らずのうちに当人を追い詰める
 どれだけ酷いことをしたか自覚しろ」


「先生! 子供にそんな言い方……」


「子供だからなんだ?
 その子供をここまで追い詰めたのは
 病気のせいだけじゃないはずだ」


 くーっ。これですよこれ。「専門家による診断」という伝家の宝刀が振り下ろされ、いじめっ子どものクビはスパッチョンである。ざまーみろ。


 そのような専門的かかわりの、いわば職人ともいうべき巧みさで、牧野はぼくらの前に現れる。
 このような演出のうえで、本作の冒頭に実は重要な設定が用意されている。それは牧野は「養護教諭ではなく、専門の医師、つまり「校医」であるということだ。


養護教諭」ではなく「常駐の校医」という「非現実的設定」

 牧野は、着任の自己紹介で、ボサボサ頭を掻きながら次のようにのべる。


本日より学校医として着任いたしました
えー 私は養護教諭ではなく医者です

 校医と養護教諭は違う。そして養護教諭は医者ではない。
 養護教諭は医療ではなく保健にかかわる存在である。保健師の資格をもっている人もいる(が、医者の資格を持っている人間はまずいない)。もともと養護教諭は戦後に国民が栄養不足や不衛生な生活環境で暮らしていたときに、健康を保持するためにその指導にあたった存在で、まさに「保健の先生」だったのである。
 これにたいして、「校医」という存在は、完全に医者である。しかし、よく健康診断などでときどき学校にやってくるだけ、というイメージのとおり、学校に常駐してはいない。

 牧野は医者である。医者であるくせに学校の保健室に常駐しているのだ。職員室で、他の教師が牧野の噂をして、

でもさ お医者さんが
常駐するなんて
聞いたことないよねー

と言っている通りである。いわば一種の「非現実的設定」、ファンタジーなのだ(確認していないが、「絶対いない」とは言えないだろう)。
 1巻ではこの奇妙な設定の秘密は明かされていない。あとがき漫画では、作者はもともとは「校医」の漫画を描くことから出発し、医者と養護教諭の両方から取材をして、試行錯誤のあげくにこうした形になったことだけを描いている。
 なので、推測する他ないのだが、養護教諭のような子どもの生活への密着性がほしいが、しかし、養護教諭が医療従事者としては「素人」にすぎない限界につきあたったのだと思う。


 子どもたちがかかえている医療・保健的な課題を、養護教諭の専門性だけでは解決できないとふんだのだろう。


 その意味では、牧野は本質的に破天荒な存在だといえる。
 制度の枠組みさえ突破してしまっているのだから。
 その「型破り」はまさに専門性をつきつめたところに現われる「型破り」なのである。

子どもを前にしたときに不可欠な「専門性」

 子どもという存在を前にして専門性が不可欠であるということは、まさしく「ほけんのせんせい」だけでなく、教員全般にいえることなのである。子どもという、矛盾に満ちた、豊かな、あまりにも躍動的で変化の激しい、生きた対象と格闘するとき、専門性は欠かすことができないのだ。
 「教育の仕事は、専門職とみなされるべきである」というILOユネスコの「教員の地位に関する勧告」の一文はこうした考えから生まれている。
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo8/gijiroku/020901hi.htm


 この問題にかかわって、橋下大阪市長が出している「教育条例案」と「公務員基本条例案」のことを言いたい。
 この両条例案は、二つがセットになって、橋下市長の持論である「公務員・市職員は、住民を代表して選ばれた政治家の忠実なロボットだ」という思想を体現している。教員は首長が立てた教育計画の達成を忠実にこなすロボットであり、計画の達成は命令への服従として執行され、できない者、それに背く者は懲罰を受け、クビを切られる。


 この問題にかかわって、2012年3月2日付の「赤旗」の次の記事が非常によかった。


 「教員*1の仕事は、専門職とみなされる」(ILOユネスコ「教員の地位に関する勧告」)というのが教員についての世界のルールです。
 目の前の子どもをどうやって教えていくのか。先生は専門家として、自分の頭で考え、自分の判断で対処していく以外ありません。医師が目の前の患者に対するように。また先生自身が、主体的な心をもった人間であってこそ、子どもと人格的にふれあえ、大切なことを伝えられます。
 教員に服従を求める条例案。その最大の被害者は、人間の顔を失った教育を受ける子どもたちです。


 国家政策の遂行の道具として、戦争に子どもを駆り出す道具となったのが戦前の教育であり、戦後教育は「国家の教育権」を否定し、「国民の教育権」を保障するところから出発した。
 それは当初、公選制であり、政治家・官僚からは独立し直接住民と専門性に立脚した教育委員会制度によって担保されたのだが、その制度が後退させられるなかでも、「国民の教育権」は教員組合運動に残り、教員の独立性=専門性はかろうじて維持されてきたのである。
 『二十四の瞳』や『人間の壁』ではないが、教員組合の組織率が異様に高かった戦後の一時期の教師像こそが保守派をふくめて「昔の先生はよかった」と懐古される。それが組合運動が徹底的に抑圧され、組織率も低下し、その一部が腐敗していくのとうらはらに、政治や官僚が立てた「計画」にふりまわされる時代になって、「ヒラメ教師」がふえ、ロボット化が進んでいったといえる。


 目の前の子どもをどうやって教えるかは、まさに専門家として自分で判断する意外にない。
 そのような意味で、教育は「正論」を子どもに伝える営為ではあるが、その正論はあらかじめ用意されたものを押しつけるわけにはいかないのである。正論は目の前の子どもたちの現実から創りだされ、子どもたちにあわせて提供されなくてはならない。
鈴木先生(11) (アクションコミックス) お仕着せの正論を拒否し、このようなクソ面倒くさい「正論」の生成過程を描き出したのが、武富健治鈴木先生』である。『鈴木先生』において、教員はあらかじめ正論を担保された存在ではなく、目の前の現実に翻弄されながら、自らの正当性を絶えず疑い、必死にそれを編み出そうとする苦悶に満ちた存在なのだ。

武富健治『鈴木先生』→『鈴木先生』3巻の「解説」を書きました 武富健治『鈴木先生』→『鈴木先生』3巻の「解説」を書きました

*1:原文は「Teaching should be regarded as a profession」。「teaching」は「教えること」とも「教職」とも訳せるので、和訳では「教員」「教職」「教育」と3つある。