教科書検定に見る竹島と尖閣諸島
文部科学省の教科書検定の結果が発表された。
竹島と尖閣諸島の扱いの「違い」によって施された修正は興味深い。
http://mainichi.jp/life/edu/news/20120328ddm002100067000c.html
下記は帝国書院の「地理A」の修正例である。
申請時の記述 | 修正後の記述 |
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島根県の竹島や沖縄県の尖閣諸島については、領有権をめぐり韓国や中国との間で主張が対立している。 | 日本固有の領土である島根県の竹島についても、領有権をめぐり韓国との間で主張が対立している。(注1)沖縄県の尖閣諸島は、日本固有の領土であるが、中国が領有権を主張している。 |
「竹島と尖閣諸島を同列に扱っており理解し難い表現である」という検定意見がついた。日本政府は竹島も尖閣諸島もどちらも「日本固有の領土」という扱いをしているが、同列ではないというのである。どう同列ではないのか。毎日新聞の記事では「韓国による竹島の占拠は不法占拠で、尖閣諸島に領土問題はない」という政府見解を紹介している。しかしこれだけでは扱いに違いが生じる理由がよくわからないだろう。そこで本書ですよ。
竹島は「優勢勝ち」、尖閣は「一本」
著者・松竹伸幸は、本書で竹島・尖閣諸島・「北方領土」という3つの領土問題を扱い、これに東シナ海のガス田問題をくわえて、4つのテーマを書いている。
松竹ははじめの3つについて基本的には日本の領土だという立場を持っているのだが、難易度でいうと竹島が一番難しいのだと松竹は言う。
松竹は竹島の領有について、どちらのものかをあまり言いたくない、はっきりと言える状況にはない、というふうに考えつつ、
柔道でいえば、「一本」どころか「技あり」でもなく、せいぜい「優勢勝ち」で、しかも審判の判断も二対一に分かれるというところでしょう。(松竹p.48)
とまあ実に難しさをにじませている。
これに対して、尖閣諸島の方は、きっぱりしている。「尖閣は疑いもなく日本の領土」という節タイトルをつけたうえで、さまざまな角度からみて中国側の主張に道理がないことを明らかにする。
やはり、どこをどうみても、尖閣が中国のものだという論理は成り立ちません。日本は、中国が何をいってきたとしても堂々としていればよいと思います。(松竹p.120)
竹島の扱いとくらべて実にはっきりしている。完全に「一本」である。
松竹の本を読むと、竹島の場合は、帰属をめぐる動きは大きく二つの時期があり、戦前に日本が領有をするときに韓国側が外交権を奪われていたということ、サンフランシスコ条約で竹島の帰属を決めるときに韓国はその会議に参加できず、朝鮮戦争の混乱のなかでまともな交渉代表を用意できなかった、などの事情があることがわかる。他方で、日本側にも言い分があり、ぼくが読んでも「うーん、杓子定規に検討すれば、そりゃ日本領だよな」と思える。しかし植民地支配と支配解体後の混乱という事情をくめば、そういう杓子定規なことを言っているだけでいいのかな、という気になってしまうのも事実なのである。
これにたいして、尖閣諸島は何よりも実効支配をしているのが日本であるうえに、それを補強するロジックもしっかりしていて、中国側は言い分としてはあまりにヘロヘロなのである。
排他的ナショナリズムから自由
松竹の本は、いわゆる排他的なナショナリズムからはかなり自由な本である。だからこそ、ひどく柔軟な結論と論考を示すことができる。日本の領土問題について書かれた本は多いが、この本の特徴はズバリ、日本と紛争相手国の主張(気持ち)がどちらもざっくりとわかって、そのうえでの解決の手だてをいろいろ考えているというものだ(あまり「ズバリ」ではない叙述になってしまったが)。
この本の特徴を理解するには、領土問題の本(勝手に「領土本」などと読んでおこう)をめぐる状況を理解しておくのが大事だろう。
本書を書いた松竹伸幸は、本書の「あとがき」で、国際法にはいろんな解釈が可能で、最終的には政治が決める要素が大きい、という国際法を巡る現実を紹介したあとで、
領土問題をめぐっては、いろいろな本が書店に並んでいます。私も、この本を書くにあたって、参考にさせていただいた本は少なくありません。でも、不思議なのは、ほとんどの本が、いま紹介したようなことにはほおかむりして、「間違いなく自国のものだ」と主張していることです(その「自国」が日本なのか相手国なのかは別にして)。
おそらく、そういう著者の方々は、本を書くほどの知識を持っておられるわけですから、国際法にも精通していて、国際法上一〇〇%自分が正しいということが有り得ないことは、よくよく理解しているはずなのです。でも、本というのは、ある特定の主張を証明するためのものですし、領土問題は主張が明確であればあるほど読者にも喜ばれますから、そんな本があふれかえることになるのでしょう。(松竹p.187-188)
と述べる。つまりロジック上、いかに矛盾がなく自分に理があるかを書いている「領土本」が書店にはあふれかえっているということだ。しかし、それは自分の論理に固執し、相手にいよいよ厳しい目をむける。それが世論のベースになり、「妥協」はありえないものとしてカードはますますやせ細っていく――これが松竹の危惧する現状というわけである。
しかし、領土問題というのは、戦争で解決した事例を見れば、一〇〇%奪ったり奪われたりしているのですが、交渉で解決した場合は、よく「フィフティフィフティの原則」といわれるように、お互いが譲歩しあっているように思います。その領土は自分だけのものであって、相手国の主張には何の道理もないという立場は、戦争では通用するけれども、外交交渉の言葉にはならないということです。(松竹p.188)
これはどういうことだろうか。
本書には、紛争相手国側の論理が登場する。相手の論理を紹介すること自体は領土本のなかでもそう珍しいものではないだろう。自国の領土であることを声高に主張するものであっても、とりあえず相手国の主張は紹介する。
しかし、松竹によれば、国際法には様々な解釈の余地があるうえ、紛争として残っているものは、何らかの「道理」がどちらにもあるために、原理原則だけでは「建前」と「建前」の衝突となってしまうという。そこで、お互いがどこまでなら譲れるし、どうしたら(国内世論に対して)体裁を保って譲歩をできるかという「本音」を知り、原理原則としての「建前」と、実利を得るための解決をはかる「本音」の間にどう折り合いをつけるのかを、外交担当者でなく、世論を担うぼくら自身がわかっていないといけない、というわけだ。
つまり、両国の「建前」としての原則をわかりやすく知り、同時に両国の「本音」もわかりやすくつかむ。これが本書のねらいだということになる。
ひとことでいえば、交渉と譲歩のための本だといえる。
そんなことを書くと目をむく人もいるだろう。
たとえば、「竹島の場合は複雑なものがからみあっているにしても、尖閣諸島の問題は日本固有の領土であることが明々白々だと、お前さっき言ったよね。そういう状況なのに交渉とか譲歩とかありえないだろ?」というような文句が。
そこで松竹がもち出す提案は、まあ本書を読んでみてのお楽しみとしてほしい。
「全千島返還」論をとらない松竹
ぼくが本書を読んで勉強になることは多かったのだが、他方で、びっくりしたといえるのは、「北方領土」問題である。
松竹は「全千島返還」論をとっていないのだ。
日本はサンフランシスコ条約で千島の放棄を明記してしまっている。常識的にこの条文を読めば、国後島・択捉島という千島列島に属するこの2島の返還をロシアに求めることは難しい。
日本政府が現在「北方領土」である南千島を返せ、と主張する根拠は、「この2島は実は千島ではないのでしたーっ、ジャジャーン!」というものだが、無理だと思うだろ? 道理の足場がないのである。
サンフランシスコ条約で決着がついたというロシアの立場からすれば、返すのは千島ではなく北海道の一部である歯舞・色丹だけということになる。
もう一つのロジックを貫く立場でいえば、そもそも戦勝国である連合国の原則は「領土不拡大」のはずで、戦争で強奪した土地以外は日本の領土であるべきであり、千島は平和裏に樺太と交換したのだから全千島が日本固有の領土である、それをふみにじって占領したスターリンはけしからん、だから千島全島を返すべきである、という主張を展開することができる。これは日本共産党が典型的な主張者である。
松竹は、サンフランシスコ条約で千島放棄を明記してあることにくわえ、その後の日ソ交渉、日ロ交渉で合意を重ねてきた到達を重く見る。それは少なくとも北方4島については議論しようという共通の声明をだしていることだ(イルクーツク声明)。60年にわたる積み重ねがあり、それを否定して全千島返還という道理だけをもち出すのは積み重ねをぶちこわすことになってしまうし、ロシア側の態度を硬化させてしまうのではないか、と危惧する。したがって、松竹の立場は「こういうやり方〔これまでの日ロでの合意などの到達を尊重して相手に迫るやり方――引用者注〕で交渉するということは、日本側が要求するのは、最大でも『四島返還』だということです」(松竹p.182)ということになる。「全千島返還」論をしりぞけている。
しかし、そうなると日本政府側の立場――「南千島は千島ではない」論はあまりにも交渉の道理の足場として弱いのではないか、そういう危惧が生じる。その危惧にたいして、松竹は、「領土不拡大の正論は引き続き大事である」と主張する。つまり、「領土不拡大という戦後原則をふみにじったままというのはマズいですよね?」という確認をきちんとおこなう、そういう正論の足場を持つことである。
すなわち、現実をふまえた交渉の方法と、正論の足場の両方を確保した、というわけである。
ぼくは、松竹のこの見解をわからないでもない。
まったくとんちんかんなことを言っているとは思えない。
松竹の考え方のキモは次の点だろう。
実際に合意ができてしまえば、その現実をふまえなければなりません。合意に不満があったとしても、「これまでのやり方は間違いでした。東京宣言も、イルクーツク声明も破棄します」として、ロシアに返還を求める島の数を増やすという手段に出ることは、外交交渉として適切ではないだろう。
もし日本がそんな態度に出れば、ロシアも、同様の態度をとることでしょう。これまでの合意を日本が破棄するというなら、ロシアも同様の態度をとるとして、四島はおろか日ソ共同宣言で引き渡すと約束した歯舞、色丹も「問題外」ということにしてくるでしょう。(松竹p.178-179)
これはやはり現実の合意を不動の前提とするもので、道理や正論をまず据えたうえで、そこからどれだけ譲歩や交渉が可能かと見極める立場と異なっているように思う。本書が「原則のみにこだわる教条主義的態度」を批判するあまり、あまりにも現実に追随しすぎ、譲歩や交渉ばかりが前面に立っていないかと心配になる。
しかし、それらの点もふくめて、本書は領土問題をわかりやすく解説するうえに、ともすればカタくなる頭をときほぐしてくれる絶好の本であると思う。*1
*1:初版で200海里を「3700キロメートル」だと解説つきで書いてしまっているのはご愛嬌であろうが……。