川上弘美・谷口ジロー『センセイの鞄』

 「しんぶん赤旗」の連載「こんなマンガもあるんですか」の3回目(2011年9月23日付)で西炯子娚の一生』をとりあげ、「枯れ専」のことを書いた。

センセイの鞄 1 (アクションコミックス)
 そのとき、つれあいからツッコミがあったのは、「主人公のつぐみ(35歳)が恋をする海江田は51歳で、『年の差婚』は当てはまるが、『枯れ専』というほどの年ではないのでは」と言われた。ぐぬぬ

 「赤旗」連載の3回目のとき、ぼくは、『娚の一生』ともう一つ、芥川賞作家・川上弘美の小説原作で谷口ジローがマンガ化した『センセイの鞄』について書こうと思っていた。字数がないので断念してしまったのだが。
 37歳の独身女性・ツキコが、居酒屋で、年が30も離れた高校時代の「センセイ」に偶然出会う物語。ツキコはこのセンセイに、恋愛か何か、自分でもよくわからない感情を抱いていく。


 この二つの作品を比べてみたときに、同世代の男性にたいする描き方が、表面的には正反対であることに気づく。

同世代男性は「コドモ」なのか「オトナ」なのか

 『娚の一生』は、電機メーカーで原発を売り込む仕事をしていた堂薗つぐみが田舎に在宅勤務になって、そのとき哲学教授の海江田に出会う話だ。

 つぐみは美しいうえに才媛。田舎で言い寄る同世代の男たちがコドモっぽく描かれている。(右図参照。西炯子娚の一生』1巻、小学館、p.118より)

 これにたいして、『センセイの鞄』では、ツキコが同級生だった小島と会うときの感情について、オサレなバーで会話をしなければならない雰囲気を中心に、自分がオトナにならねばならない息苦しさを描く。

小島孝と会っているときに いつも
わたしは「大人」という言葉を思い浮かべる


年齢とそれにあいふさわしい言動
小島孝の時間は均等に流れ
からだも心も均等に成長した


そして小島孝は
きちんとした大人になった


たしかにそうにちがいない


いっぽうのわたしは
たぶんいまだにきちんと「大人」に
なっていない


小学校のころ
わたしはずいぶん大人だった


けれど中学 高校と時間が進むにつれて
はんたいに大人でなくなっていった


さらに時間がたつと
すっかり子供じみた人間になってしまった


時間と仲よくできない
質かもしれない


 この感情は、センセイに会うとき自分がコドモのようになれる居心地のよさとの対比で描かれる。酔っぱらったツキコが先生の家に担ぎこまれ、目が覚めたときに先生と2人でどこかへ行きたいと駄々をこねるのである。


「どこかに二人だけで行きましょう」
「どこにも行きません」
「いやだ!
 センセイと二人で行きたい!」
「ツキコさんと二人して
 いったいどこに行けるというんですか」
「どこにでも行けます
 センセイとなら」
「落ちつきなさい ツキコさん」
「じゅうぶん落ちついてます」
「もう家に帰って寝なさい」
「家になんか帰りません」
「ききわけのないことを言うんじゃありません」
「ききわけなんかぜんぜんないです
 だってわたしセンセイが好きなんだもの」

センセイの鞄 2 (アクションコミックス) 完全にコドモである。40に手が届こうという女の言い草ではない。ではないが、酒の勢いにもまかせてそんなことを放言しているツキコの様子は切羽詰まっているようでもあるが、どこかしら楽しそうでもある。


 これは『娚の一生』と正反対の感じ方のように思える。
 しかし、実は結論は同じなのだ。

 『娚の一生』にも『センセイの鞄』にも共通しているのは、主人公の三十代の働く女性がいずれも疲れ果てていること。そんな疲労困憊の彼女たちの前で、同世代の男たちは『娚の一生』にでてくる男たちのようにまるでコドモ同然に手がかかるかと思えば、『センセイの鞄』に出てくる小島孝に接するときのように、オトナとしてしっかりした振る舞いをしないといけなかったりする。

 要するに、コミュニケーションにコストがかかる面倒な存在なのだ。
 近い世代というのは、お互いの言動がかみあっていなければいないでイライラさせられるし、かみあっていればいるでいちいちグサグサ来るところがある。それを手応えのあるやりとりとして喜びとするのか、それとも生々しくて面倒くさいとするかは本人の嗜好の問題だし、あるいは本人の疲れ具合次第なのだろう。

「枯れ専」と「年の差婚」は同じか

 ところで、「枯れ専」と「年の差婚」は同じだろうか。

 朝日新聞で「年の差婚」の記事を読んだ(2011年10月12日付)。「年の差婚」の背景を、『【年の差婚】の正体 なぜ同世代に惹かれないのか』の共著者の一人・牛窪恵が語り、記者は次のようにまとめている。

「今の若い女の子は就職難のうえ労働環境も悪く、なんとかしたいという渇望感が強い」。だが、同年代の男性は恋愛意欲が低い「草食系」のうえ、雇用も不安定なことが多い。そのため、安定した収入があり、知識や経験もある年上男性に目を向け始めた、というのだ。
 キャリアによって結婚が後回しになった「負け犬」世代を反面教師に、次世代は「婚活」に励んだ。さらに下の世代は、将来への不安と、格差社会の現実を反映して「年の差婚」へ向かう、ということなのか。

http://digital.asahi.com/articles/TKY201110110530.html

 これを読むと重なる面も多いのだが、「同年代の男性は恋愛意欲が低い「草食系」のうえ、雇用も不安定なことが多い。そのため、安定した収入があり、知識や経験もある年上男性に目を向け始めた、というのだ」という点がギラギラとしすぎている感がある。


 「枯れ専」は、やはりその字のごとく、恋愛対象たる男性側が「枯れ」ている感覚が重要なのではないか、と感じるがどうなのか。


 たとえば『センセイの鞄』のセンセイは結局ツキコとセックスするんだけども全然ギラついていない。はじめに読むと、この描写はいらないのではないかと思う人もいるだろうが、セックス描写があることでこの感情はやはり恋愛を基軸とした感情なのだときっぱりと決着をつけられるのである。
 ヤマシタトモコの『Love,Hate,Love』でも大学教授の縫原はセックスにはどちらかといえば淡白そうに描かれている。
 オノ・ナツメリストランテ・パラディーゾ』ではセックスはまったく出てこないなあ。


 『娚の一生』の海江田だけは、すぐにつぐみとセックスをしたがるな。そしてつぐみとセックスするときには、足の指をなめてからはじめるんだから、かなりいやらしいというか、その瞬間だけは濃厚な感じする。


 だが、やはり、年輩者たる海江田に求められているものは、つぐみを救う豊かな経験であり、言動における滋味だろう。
 つぐみが死にたいと言った時に、70リットルのゴミ袋を用意して死ぬならこの中に入って飛び下りろ、面倒がない、と応じた海江田は、暗に人生は70リットルのゴミ袋に収まるのだという暗い諧謔を示し、つぐみはそれに反応して苦笑する。まさに哲学者としても面目躍如といったところだが(現実にこんな対応していいのかどうか知らんけど)、こうした達観こそ枯淡の境地にある男性に求められているものではないか。同世代の脂ぎった男(俺を含む)には言えんわー。

 というわけで、「枯れ専」と「年の差婚」はそのギラギラ度合いが根本的に違うので別のものである、と言っておこう。

不破と枯れ専

 ところで、せっかく「赤旗」の連載なんだから、「枯れ専」と共産党といえば、3年前の「毎日新聞」(2008年10月3日付夕刊)に出た不破哲三のインタビューあたりを記事の出だしに持ってきたかった。

柔らかな笑顔につられ、思わず「枯れ専ってご存じですか」と聞いたら、きょとんとされた。「何それ?」。「枯れた男性を好きな女性のこと」と説明はしたが、さすがに「プリンス」に向かって「すてきな枯れオヤジですよ」とは言えなかった。【小松やしほ

http://www.asyura2.com/08/senkyo54/msg/395.html

 これを出だしに持って来たら、たぶんデスクを通らなかっただろうがw