太田垣章子『家賃滞納という貧困』

 司法書士として家賃滞納の処理にあたってきた筆者が、18のケースを紹介している。

 

家賃滞納という貧困 (ポプラ新書)

家賃滞納という貧困 (ポプラ新書)

 

 

 230ページの本なのに200ページまで事例紹介が食い込んでくるのは、いくらなんでも多すぎないか……? とは思ったけど、個別事例の中にわかりやすく普遍性を見出そうという手法なのだろう。滞納の中にあるドラマのようなものを読み取ってしまった。

 

 忘れられないのは、大阪の生野区にある部屋の家賃を滞納し続けた20歳の男性のケースです。本人とまったく連絡が取れなくなったため、四国に住む親御さんに連絡すると、「2、3年連絡を取り合っていないが、便りがないのは良い知らせ」だと言い切り、まったく関わろうとしないのです。

 しかしその若者は、部屋の中で餓死していました。

 慣れない土地で思うような生活ができず、友達もおらず、そして親にも助けを求められずに力尽きた、そんな残酷な結果だったかもしれません。

 その後警察から連絡を受けた父親は、「金がないから大阪になんて行けない。好きに処理してくれ」と、息子の亡骸を引き取りに行くことすら渋っていました。さすがに最後は説得されて、夜行バスでなんとか来てはくれましたが、息子の亡骸を前にしてもなお、お金がかかってしまうことを最後まで愚痴っていました。(本書p.123-124)

 

 唖然というか慄然とするケースである。

 まず餓死をどう解釈すべきか。

 筆者・太田垣は「慣れない土地で思うような生活ができず、友達もおらず、そして親にも助けを求められずに力尽きた」と推測する。

 ぼくなどは「いやー、それでも餓死するかね」とちょっとだけ思ってしまう。

 大学時代、ぼくの先輩が家の中で病に倒れて動けなくなり、一週間近くして訪問して間一髪のところで発見されたことがあったが、そういう病気じゃないのか…と一瞬思ったりした。

 しかし、である。

 この若者の親の対応を見ると驚くほど淡白だ。冷たいといってもいい。また、遺体引き取りの旅費を渋ったように「親世帯も経済的に困窮」(p.124)していたようである。

 

 親に助けを求めてもどうしようもない。無駄である。という前提がそもそも「親に助けを求める」という発想にさえ至らないのかもしれない、と思ってみる。

 そして、まったく知らない土地でまわりに知り合いが誰もいなければ、言い出せずにゆっくりと衰弱していくのだろうか。ゆっくりと衰弱していくうちに、動けなくなる。そしてやがて餓死する……というようなプロセスだろうか。

 太田垣は次のようにまとめている。

 

人が頑張れる原動力は、誰かから「愛されている、必要とされている」という揺るぎない基盤ではないでしょうか。そこが欠けていると、前を向く力を生み出せないこともあるように感じてしまいます。もしかしたらなくなったこの若者には、その基盤が欠落していたのかもしれません。(p.124)

 

 「基盤」という言葉を使っているように、この若者の主観の問題ではなく、若者が客観的におかれている現実が「助けを呼ぶ行動」を奪ったと太田垣は見ているのだろう。

 こうしたケースは、短い定型的な原因分析に落とし込みにくい。「なんで助けを求めなかったの?」という具合に、「自己責任」も混ざっているので理解もされにくい。

 それでも、このケースは、ぼくたちが北九州の「おにぎり食べたい」と書いて餓死した事件や、湯浅誠の「溜め」論などを経験しているから、これらが金銭不足と人間関係の希薄さという貧困の絡み合いによって起きたことなのだとまだ理解はできる。

 

 別のケースでは、夫と離婚し子どものいる妻が「突然」100万円、10カ月分の家賃滞納を督促され、追い出しをくらった事例。

 大家は(元)夫と連絡を取り続けたが、のらりくらりとはぐらかされた上に「子どもがいる」という事実から温情的に強い態度に出られなかった。しかも妻は養育費として家賃が払われる約束になっていたためにまったく滞納に気づかなかった。「狼狽ぶりから察するに、本当に今まで滞納のことを知らなかったのは、間違いなさそうです」(p.163-164)。そして夫とは連絡が取れなくなり、強制執行となる。

 

勝手に女つくって、別れたいって言ってきたんです。私は専業主婦で、家事をして子育てもしてきました。……45歳を過ぎた私が、いきなり仕事なんてできると思いますか? 20年以上専業主婦をやってきてパソコンさえ使えないのに、親子3人で生活していけるだけの収入を得られるはずないじゃないですか! ……私は妻の役目をちゃんと果たしていましたよ。だけど浮気されたんです。じゃあ、どうすればよかったんですか。(p.166-167)

 

 そうだなと思う半面で、そのリスク(ある日突然放り出される恐れ)を背負っていたことに気づかなかったのは自分だろ、という批判も聞こえてきそうだ。離婚に際して、養育費の公正証書もつくっていない(まあそもそも連絡が取れないわけだが)。つまりここでも「自己責任」が入り込む。

 

 太田垣が紹介するケースには、このように、どこかに「自己責任」が入り込んでいる。「お前のそこにスキがあったんだろ」と言えてしまうケースがほとんどなのだ。

 だからこそ、ドラマなのである。

 そして、だからこそ、「普通の人」のケースなのである。

 メディアに登場するような被害者はそういうツッコミを入れられないように、できるだけ「きれいな被害者」が登場する。そいつが悪いんだろ、と言えない・言いにくい人を探すのである。まあそれは仕方がないとは思う。

 しかし、世の中のほとんどはどこかしらにツッコミどころがあるケースばかりなのだ。自分のこともふくめて。「自己責任」が混じらない方がおかしい。

 

 札幌餓死事件のときに私が非常に疑問に思ったことは、「お母さんがこんなにがんばっているのに、こんなにいい人なのに、ケースワーカーが申請を断った」という運動の風潮でした。
 おかしいと思ったんです。たとえそのお母さんが悪い人だって、がんばらない人だって構わないじゃないかと思いました。そんな運動のキャンペーンっていたら、絶対足元すくわれるよって思っていたら、案の定すくわれましたよね。週刊誌が母親の問題点を書いたら、いっぺんに運動がトーンダウンしました。大した問題ではなかったのですが、運動の側も「聖人君子」を求め精神主義です。(都留民子『失業しても幸せでいられる国 フランスが教えてくれること』p.68)

https://kamiyakenkyujo.hatenablog.com/entry/20171112/1510422731

 

 どんなにそいつが「悪い」人でも、あるいはそいつに多少の「自己責任」があっても、そこに社会の反映を見てその歪みを正すというのが、第三者のできることではないのか。

 この本が紹介する18の事例を読んでそう思う。それはまとめてみればやはり「貧困」ということになるのだろう。だからこそこのタイトル「家賃滞納という貧困」なのだ。

 

 もちろん本書は事例ばかりではなく、構造的な問題を論じ、提言を述べている部分が間に挿入されている。

 家賃は収入の3分の1と言われるが、それでは危ない、理想は4分の1以下だとのべる。18万円の収入なら4万5000円の家賃ということになる。しかしそういう物件は見当たらない。

 

その要因としては、建物の建替えでしょう。昭和40年代に建った木造アパートが老朽化のため建替えられ、高収益を生む建物に移行しています。空室となるのが怖い家主が、人気物件となることを目指して高スペックの建物を建築しているのです。(本書p.121)

 

 福岡市では単身世帯が世帯全体の半数を占めるようになり、年収300万円未満を市は「低額所得世帯」と定義しているが、これも半数を占めるようになっている。

 さらに、高齢者が増えているから、単身高齢者の年金暮らしとなると、持ち家がない場合はそもそも借りられないということになる。

 本書で紹介されている事例では、500万円も滞納してしかし高齢者であるということで追い出しもできず、ヘトヘトになって転居先を確保し、ようやく出て行ってもらったというケースがある。「この家主が『もう高齢者には部屋は貸したくない』と言っても、誰も責めることはできないと思います」(p.211)。

 

高齢者が滞納していようがいまいが、世帯主が70歳以上ともなると、賃貸物件を借りようと50件問い合わせても、了解してくれる家主は1件あるかないかです。(p.212)

 

 福岡市の高島市長が選挙の時に、“これからは土地も家も余る時代だからそんな時に公営住宅なんて新しく建てる必要なんて全然ないよ”とうそぶいていた。

 だけど、当の福岡市では、住宅セーフティネットの登録はゼロだ。

 なぜなら、家主が高齢者に家を貸したくないからである。

 だとすれば、単身の高齢者が増え、しかも年金暮らしの資力のない世帯はどうなってしまうのか。

 結局、公的な住宅をつくるか、民間を公が借り上げるかしなければ、単身の貧しい高齢者は住むところがなくなってしまう。*1

 本書を読みながらそういうことを考えた。

*1:当然だが、公的住宅にするにしても、借り上げて公的住宅にするにしても、保証がなく身寄りもないような単身高齢者でも入れるようにし、仮に不慮の死亡の際の「片付け」は公の責任で行うことが前提にすべきである。現在福岡市はNPOと連携してこの「後片付け」を機能させようとしているが、それでもセーフティネット登録はゼロなのだ。今のところ、公が責任を持つ以外に解決の道は見当たらない。