「コクリコ坂から」感想


 お盆で帰省したのをこれ幸いと、娘を寝かせ、母に添い寝を頼み夫婦で「コクリコ坂から」を観に、車で1時間半ほどの深夜ドライブをしてオールナイト映画館にたどりつく。


 終わった後、帰りの車の中で夫婦で感想交流をした。


もうね、メル大好き

 「コクリコ坂から」のストーリーは、映画の公式サイトが基本筋をバラしているのでそちらを参照してほしい。
http://kokurikozaka.jp/story.html


 主人公の少女・海(メル)の造形があまりに優等生かつ真っすぐで美しく「萌えた」(ぼく)、「ストレートすぎた」(つれあい)。長澤まさみが声をすると知り、「ずっと『あー、長澤まさみがしゃべってるなあ』と思ったらどうしよう」(ぼく)とか「またコビコビの声でやられたら絶望的」(つれあい)などと危惧していたが、これがなかなか上手かった。長澤まさみは消え、たしかにそこには海という少女がきちんとたちあがっていた。
 「そんなにあの主人公が好みなら、いっそ実写で美少女がやれば?」というつれあいの意見だが、とんでもない話だ。ジブリの造形でこんなに真っすぐな美少女を描いたからこそ萌えられたのであって、これが実写にされたら、顔の端にどうしても止められない「現代」が姿を見せてしまい、こちらの妄想をあれこれ邪魔し、完全に破滅である。
 「それならいっそ、人間じゃなくてタヌキとかで擬人化した話にしたらどうか」などと皮肉るつれあい。うるさい。しっしっ、あっちいけ。


 この美少女をずっと観ていたい、という気持ちにさせられ、その気持ちを駆動輪にしながら映画を観続けた。メルが出るだびに脳内で甘い汁がダラダラとよだれのように流れていくのがわかったので、心地よいことこの上ない。

満ち満ちる近代の上昇ムード

 真っすぐな美少女を支えているのは、真っすぐな近代草創期(ここでは戦後日本がやり直した近代)の上昇のムードである。
 海がかいがいしく家事をすることを軸にしながら、掃除の描写をふくめて「労働」が賛美される空気が流れている。
 カルチェ・ラタンを残したいという学生たちには、社会は変えられるのだという近代草創期の楽観がほとばしっている。
 理事長を迎えて歌われる唄にも「近代」が立ちこめている。
 原爆投下から朝鮮戦争の惨禍を背景として、それを乗り越えようとする力強さもまた「近代」である。


 「こんなに真っすぐに作ってしまっていいのか?」という怯えが感じられず、あまりにストレートにつくり上げたこの「近代讃歌」ともいうべき作品の空気を象徴しているのが、凛として美しい少女・海である。


 つれあいの同僚(男性・50代以上)は3度観に行ったと言っていた。そうした世代にとっては、この映画は完全にノスタルジーとして機能している。そうなのだ。海のような少女を描くことは、もはや完全にノスタルジーへの退行としか思われない。とっても後ろ向きの映画だ、ということもできる
 ぼくはポスト・モダンという考えを支持しない。現在も形を変えてこうした青春と時代がワークしていると考えているので、これを「昔話」としては観たくないのだが、それでも「いまこんなに直截には書けないよな」という戸惑いがあることも確かであり、にもかかわらず、こんなにもばっさり海のような少女を描いてしまうことに、拍手のようなものを送りたい。

 

 だが、ひるがえって、「これは一体誰にむけてつくられた作品なのか」と戸惑う。今言ったように、結局この作品を支持する人は、ノスタルジーとしてしか支持しないのではないか、という危惧がある。すでに失われた近代の上昇や楽観をなつかしむ気持ちでこれを観るのだとしたら、それはずいぶん寂しすぎるし、若い世代は鼻白んでこれを観るのではないか。


 素人にはお薦め出来ない。
 まあお前らド素人は、「劇場版 仮面ライダーオーズ WONDERFUL 将軍と21のコアメダル」でも観てなさいってこった。



余談:つれあいの「コクリコ坂から」感想

 つれあいは、宮崎駿だったらもっと幾重にも複雑さを折り込んだところをあまりにも単純に押し出しすぎたところが大きな違いだとシニカルに語るとともに、炊事や掃除といえば女性たちとか、そういう女性観を何で今頃観させられるのかという角度からも不満があったようだが、放っておくことにする。


 好きあった2人が兄妹かもしれない、という設定の解決をハラハラしながら観ていたというぼくを、つれあいはゲラゲラと笑った。


「あんたがそんなに少女漫画とアフィニティが高かったとはね! 四半世紀若かったら、少女漫画誌に『高橋千鶴先生へ 海と俊を引き裂くのは絶対にやめてください!』とか手紙を書いて送るタイプだよ」などと!


追記 説教臭くはないが

 作家の冷泉彰彦が「コクリコ坂から」評を残している。


『コクリコ坂から』に見る「60年代回帰願望」、日米の違いとは? (ニューズウィーク日本版) - Yahoo!ニュース 『コクリコ坂から』に見る「60年代回帰願望」、日米の違いとは? (ニューズウィーク日本版) - Yahoo!ニュース

 冷泉は、


この作品の最大の問題点、あるいは危険性というのは、60年代前半という時代の青春像を描くことで、それが「あの頃は良かった」とか「今の若者はダメだ」という押しつけがましさになってしまうという可能性です。

と書いているが、たしかにそういう説教臭さはない。だが、この作品は、冷泉自身が「抑制的な表現」といっているように、誰かの考えに介入しようという強引さがないということは明らかであり、そういう他者の説得=説教をしようというのではないだろう。むしろ他者を放っておいて、自分だけの懐古趣味に陥ることこそ「問題点」として浮かび上がるのではないのか。



今回の『コクリコ坂から』は、そうした「世代間の想いのすれ違い」という危険を十分に覚悟しながら、それを抑制された表現で救済することに成功していると思います。そうした思想的な自制、抑制そのものも、セリフやストーリー展開などの「ベタ」な表現ではなく、映像面での抑制やバランス感覚によって実現しているわけで、そこにアニメ表現の成熟を見る思いがしました。

 そうかなあ。
 冷泉自身が1959年生まれ、つまり(昔風の)学生運動の華の残滓を知っている部分だからこそ、この作品を受け入れられたのであって、世代にとって果たして開かれた表現になっているのか、甚だ疑問。「自制」や「抑制」は他者を説得しないかわりに、「あ、今から、俺、メランコリックな気分になるので、何も言わないでね」という機能としてしか作用してないと思うよ。