(映画のネタバレが少しあります)
リモート読書会の題材となったので、石牟礼道子『苦海浄土』を初めて読んだ。恥ずかしながらそれまで一度も読んだことはなかったのである。
なんの知識もなく読んだが、途中から違和感を抱いた。
これは本当に誰かがしゃべったことなんだろうか? そしてその「聞き書き」なんだろうか?
江津野杢太郞という9歳の水俣病患者の家族を記したところで、その祖父、爺さまが妻とともに漁をすることを語る次のような言葉を読んだ時にそう感じた。
あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。
これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい。
寒うもなか、まだ灼け焦げるように暑うもなか夏のはじめの朝の、海の上でござすで。水俣の方も島原の方もまだモヤにつつまれて、そのモヤを七色に押しひろげて陽様の昇らす。ああよんべはえらい働きをしたが、よかあ気色になってきた。
かかさまよい、こうしてみれば空ちゅうもんは、つくづく広かもんじゃある。
空は唐天竺までにも広がっとるげな。この舟も流されるままにゆけば、南洋までも、ルソンまでも、流されてゆくげなが、唐じゃろと天竺じゃろと流れてゆけばよい。いまは我が舟一艘の上だけが、極楽世界じゃのい。(石牟礼道子『苦海浄土 わが水俣病』講談社、KindlNo.2372-2381)
方言で書かれながら、整い過ぎているのである。地方の老漁師がまるで、物語や詩の一片のような、そんな言葉を紡ぎ出すものなんだろうか?
講談社文庫の新装版で解説を書いている渡辺京二は、この江津野老人の独白は、「聞きとりノートにもとづいて再構成されたものなのだろうか。つまり文飾は当然あるにせよ…これに近い独白を実際彼女に語り聞かせたのであろうか」(p.370)と不審を起こし、こう続ける。
以前は私はそうだと考えていた。ところがあることから私はおそるべき事実に気づいた。仮にE家としておくが、その家のことを書いた彼女の短文について私はいくつか質問をした。事実を知りたかったからであるが、例によってあいまいきわまる彼女の答をつきつめて行くと、そのE家の老婆は彼女が書いているような言葉を語ってはいないということが明らかになった。瞬間的にひらめいた疑惑は私をほとんど驚愕させた。「じゃあ、あなたは『苦海浄土』でも……」。すると彼女はいたずらを見つけられた女の子みたいな顔になった。しかし、すぐこう言った。「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんですもの」。
この言葉に『苦海浄土』の方法的秘密のすべてが語られている。(同p.370〜371)
もちろん、これは文庫版の解説につけられているほどの中身であるから、すっかり有名なことなのであろう。知っている人にとっては「何を今さら」というべきほどのものである。渡辺はこうも記している。
患者の言い表していない思いを言葉として書く資格を持っているというのは、実におそるべき自信である。石牟礼道子巫女説などはこういうところから出て来るのかもしれない。この自信、というより彼らの沈黙へかぎりなく近づきたいという使命感なのかもしれないが、それはどこから生れるのであろう。(同p.371)
若松英輔は、石牟礼が第1回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しながらそれを辞退した理由について、これがノンフィクションでないことと、この物語の本当の作者が自分(石牟礼)ではないと考えていることを挙げている。
『苦海浄土』は水俣病の患者たちが本当の語り手であって、自分はその言葉を預かっただけなのだ、という強い自覚が彼女にはある。表現を変えながら彼女はさまざまなところで、水俣病の患者たちは、言葉を奪われて書くことができない、自分はその秘められた言葉の通路になっただけだと語っています。(若松英輔『NHK「100分de名著」ブックス 石牟礼道子 苦海浄土 悲しみのなかの真実』NHK出版、KindleNo.17-19)
対象に強い共感を覚え、その人そのものになってしまうような一体感とともに言葉を紡ぎ始める——これはある種の文学が誕生する瞬間でもあるのだろう。
映画『82年生まれ、キム・ジヨン』を見て、主人公ジヨンの人格が分裂する、というか、母親や祖母がまるで憑依したかのように語り出したとき、それは「文学」が誕生する瞬間でもあった。
一緒に映画を観たつれあいは、「自分だけでなく、母親や祖母たちの女性としての生きづらさに強く同情・共感し、自分の中に煮こごりのようになっていき、まるで憑依したかのようにその言葉を語り出した。だから、まさにジヨンは小説や文学を書くべき人であった。最終的に彼女が小説を書き始めたのはとてもよくわかる」と言った。
ぼくも映画を観ていて、嗚咽しそうなほどに涙が止まらなくなったのは、ジヨンの人格が消え、ジヨンが祖母の言葉を語り出したシーンだった。それはジヨンの口を借りて、祖母が自分の娘(つまりジヨンの母)のつらさを語り出したものであった。女性が人生で背負わなければならなかった困難が歴史の地層のように積み重なって言葉になり、それを当のジヨンの母親が聞くのである。
女性の三代の歴史と困難が凝縮され、それを孤独の中ではなく、母親の号泣と抱擁のうちに解放させるこのシーンは名場面というほかなかった。
原作も少し前に読んだ。原作はもっとジヨンが生きてきた中で出遭わねばならなかった困難が数多く描かれていて、その一つひとつに共感もし、驚かされもし、反省もした。そして結末は、女性の現状に対する暗澹たる閉塞で終わるものだった。その救いのなさが、現状の告発としてとてもよく効いていた。
だから、今度の映画の日本版のコピー「大丈夫、あなたは一人じゃない。」は原作のテイストを知っている者からすれば、違和感、というかむしろ眉をひそめると言っていいほどのものだった。
しかし、観終わってみれば、原作のエピソードなどを生かしつつも、映画は原作とは別の作品なのだと改めて思った。「大丈夫、あなたは一人じゃない。」というコピーは、映画のラストの展望とも関わって、それなりにうなずけるものだと考え直すに至った(ただし、女性の困難な人生を支える人たちの多くが「家族」にとどまっている点がとても気になるのではあるが)。
観ていない人は、ぜひ観に行くべきだ。
付け加え
冒頭の夫の実家の様子が、もうね、「ぼくの実家」の雰囲気にそっくりで、言葉がなかった。息子ファーストで嫁に仕事をさせる。そして、現代では必要とは思えないような盆・正月の家事をさせるあたり。男が食器を洗うことすら「場違い」になり、そこに抗しきれない夫の様子もぼくそっくりで、隣でつれあいが観ていたが、どうしようとか思ってしまった。いたたまれないとはこのことだ。