GWに「未来少年コナン」を観た

 NHK総合で「未来少年コナン」の第一話を観た。

 つれあいと2人で、まるで昔、楽しみなテレビ番組が始まるのを待っていそいそと「ブラウン管」の前に座っていた子どものように。wktk

 つれあいはリアルタイムで観ていて、「アニメ=漫画」のようなものはふだんは見せてもらえない「教育者」の家庭で育ったものの「NHKのアニメは観てよい」との家庭方針のもと、その時間を圧倒的に楽しみにしていたという。*1*2

 ぼくの家はそんなことはまったくなく「見放題」だったのだが、小さかったぼくはつれあいとは対照的にNHKのアニメ(「ニルスのふしぎな旅」「スプーンおばさん」など)や子ども向けドラマ(「大草原の小さな家」)は「つまらない」と思っていたので当時ほとんど関心を寄せていないかった。

 観る機会があったのは、学生の終わり頃にレンタルビデオでいろんな名画やアニメを集中的に観ていた時期があって、そのときに初めて「未来少年コナン」に接し、「なんて面白いんだ!」とびっくりしたのである。典型的な「食わず嫌い」だったのだ。

 ただしぼくが観たのはその一度きりである。今回、ほとんど予備知識もなく、断然うろ覚えの記憶の中で再度観ることになった。 

 つれあいは観終わるなり「小さいときに観て感動したものだったから、アラフィフになって観なおしてつまらなかったらどうしよと思っていたが、あまりにも面白くてびっくりした!」と述べた。

 ぼくもまったく同じ感想である。だからなぜそう思ったのかをここに、素朴な感想をつれづれなるままに書いておく。

 設定のディティールやデフォルメが、少なくとも「1970年代の元・子ども」の冒険心をくすぐった。

 つれあいは「廃棄された宇宙船で暮らしているというのがロマンを感じる!」と言った。その窓から足を出して寝ているなんていうのは、なんて素敵なの! と。小さい頃、家の近くの空き地や畑には廃車になったバスとか乗用車が捨ててあり、ぼくもその中に入って遊んでいたが、そこで生活することを一再ならず妄想した。「朽ち果てていくものの中で暮らす」というのは「1970年代の元・子ども」の「ロマン」であった。

 そのロマンを支えるディティールとして、コナンがおじいに言われてラナのために水を汲みにいくシーンが映る。

 あんなのは汲んできた水をラナに渡せばそれでいいはずなのに、わざわざコナンがコックピットであろうか、水が溜まっている場所にまですばやく降りていって水を汲むシーンを忍び込ませている。

 「ああ! 水は雨水か何かをためておくんだ!」と小さく感じる。(絶海の孤島において)「朽ち果てていくものの中で暮らす」ことの、何か「リアル」なものを感じてしまう。

 そして、海に潜って「ハナジロ(鼻白)」というサメをコナンが狩るシークエンス。息を止めて長時間潜る様子も、罠として仕掛けられた無数の岩石が落下する様子も、サメがまるで「不審な大人の尾行者」のようにゆっくり追ってくる様子も、そして、狩ったサメをまるでぬいぐるみのように担ぎ回る様子も、今度は一転して全く「リアル」ではない。

 むしろ「1970年代の元・子ども」の冒険的な想像=妄想のロマンであった。

 しかしむしろそのような「リアル」さを排除した、妄想に奉仕する動きの方が、「1970年代の元・子ども」としてはここは断然楽しめるのである。

 もちろん、どう考えても間に合わない時間なのに、間一髪でコナンが飛行艇に飛び乗り、そのまま翼の上にしがみついているのは第1話の妄想の圧巻でありこれが「引き」というのも、なんともしびれる演出ではないか。どうしたって次回を見たくなってしまう。

 

 そして、これは知らなかったが、初登場のラナの描き方に対して宮崎駿が死ぬほど後悔しているという話。

 

 

 一般的に宮崎の「美少女」への欲望はすでに周知のことだ。

これほどあからさまなペドファイル(幼児性愛者)保因者の排泄物を、それにもかかわらず見事な物語として食べさせられ続けること。それは果たして不幸なのか幸福なのか。…最新作『千と千尋の神隠し』はどのように好意的に見ても「少女のセクシュアリティ」をライトモチーフにしている。それは自覚されないものだけに、いっそう効果的に表現され得るだろう。…宮崎駿ペドファイルだ。…しかも彼は不能ペドファイルだ。もちろん彼の欲望は、これまでも一度も実現されたことはない筈だし、おそらくこれからもないだろう。そのおかげでわれわれは、現代にはほかに類例のないような欲望の昇華物、すなわち彼の作品群を享受することができる(斎藤環「倒錯王の倫理的出立」/「ユリイカ」2001年8月臨時増刊号所収)

 

 その上で、当時もそうだったし、今見てもぼくもラナの「顔」にばかり見入ってしまう。「女の子は神秘的だ」という歪みも含めて、ぼくはラナを見続け「ラナってきれいな・かわいい女の子だなあ」とぼんやり思いつづけるのである。視線がそこに釘付けでも誰にも邪魔されない。

 明らかにぼくはラナという「美少女」を見にきているのである。

 

 そして最後に倫理観。

 モンスリーとおじいが論争するシーン。

「お前たちはまだこんなことをやっているのか。あの大変動から何も学ばなかったのか」

「戦争を引き起こしたのはあの時大人だった、あんたたち。私たちはまだ子どもだった。子どもが生き残るのにどんな苦しい思いをしたのか、あんたに分かる?」

  「コナン」が放映されたのは第二次世界大戦終戦から33年後。ちょうど「コナン」の物語世界で「破局」(2008年ですよ!)が起きた後の時間(20年後)と似た尺度であり、今からいえばバブルを振り返るような時間感覚だ。

 制作者たちは後者だが、どちらの倫理観にも身を置いてきたに違いない。モンスリーのセリフは反論として胸に迫るものがあるのだが、論理的には成り立っていない。

 戦争の破局を反省して再軍備を否定する論理とともに、戦後の苦しい中を必死で生きてきて「軽武装・日米同盟」という「ハームリダクション」をやってきた論理との対立を見るかのようである。

 おじいが正当防衛とはいえ兵器という軍事力によってモンスリーたちに反撃をし、失敗することに一つの古い思想を見る気もする。

 そして、「娘が小さい頃いっしょに観ていたアニメでこんな感動は味わえなかったよな…」という感慨もよぎった。単純な世代論、「昔はよかった」語りのような気もするのだが、まあそういう感傷も許してくれよ!

*1:義母は左派系の教員「活動家」であった。当時新日本婦人の会などの女性団体が「低俗」なアニメや番組を批判する運動を展開していて「健全」で大人も子どもも共有できるようなアニメの制作を提案していた。その成果としてNHKのアニメの枠があり、「コナン」がある…と1990年代後半に、ある新日本婦人の会の大物幹部を取材した時に聞き、資料を見せてもらったことがある。

*2:追記:これこれ。「しんぶん赤旗」1998年5月23日・24日付に掲載された「子どもとテレビ」。これであります。

https://engeishamrock.hatenablog.com/entry/2020/05/09/042556 「井上 コマーシャリズムに走らない、よいアニメを放送してほしいとNHKに要望して、78年にNHKで初めてのアニメ「未来少年コナン」が誕生しました。/有原 こちらの「コナン」は、未来の地球を舞台に主人公のコナンが仲間と出会い、さまざまな冒険をしていきます。宮崎駿さんらが演出しました。」