パチンコ屋の前を通り過ぎると確かにやたらアニメとのタイアップが目に入り、気になっていた。だけど一番気になり出したのは、やっぱりテレビCMでこのタイアップが激増したことだ。
参考:ヲチモノ- アニメのパチンコ・スロットがどれだけあるのか集めてみた
http://watchmonoblog.blog71.fc2.com/blog-entry-479.html
ただし、それはアニメに限らない。「加山雄三」であったり「ウルトラセブン」であったり。
この現象に注目した最初はやはり「冬のソナタ」とのタイアップだった。*1パチンコという、サラ金と似たようなダークイメージのものに、こんなメジャーな作品がよくタイアップを許したものだという驚愕を覚えたし、「はあー、すると中高年のオバサンたちがずいぶんパチンコにハマっているわけね」という、そこから「読み取れる」情報があったからだ。
いま、「冬のソナタ」というパチンコ→中高年女性を引きつけるための道具立て、という思考をおこなった。
パチンコとアニメがタイアップをはかるのは、「そのアニメを視聴していた世代を取り込むためのものだ」というふうに考えるのが常識的な思考の流れというものだ。だから「エヴァ」のパチンコができたというのを聞いて、「1990年代後半のアニメを見ていた中高生くらいが、今は30歳前後だから、まあパチンコに来るよね」みたいな感じである。
実際、たとえば仮面ライダーや昔のドラマの映像がテレビで流れて、ぼくとしてはかなり目を引いた。そして「パチンコ」だということがわかると、ぼくのようなパチンコと無縁の男でさえ、パチンコ屋のことを考えたくなるのだから、これで「パチンコに行ってみようか」というきっかけになる人は少なくないだろう、と思ったのである。
ところが、そうではなかった。
本書、安藤健二の『パチンコがアニメだらけになった理由(わけ)』では、その謎解きをしていく。
以前ぼくは、安藤の『封印作品の謎』について書評を書いたとき、次のようなことを書いた。
本書のもう一つの面白さは、取材ガードの固さ、壁の厚さに悩まされている様子を安藤がそのまま出していて、それが文章としても興味をいだかせると同時に、「封印」のメカニズムにまつわる「暗さ」そのものをよく表しているということだ。
「何十人もの関係者に聞いたのだが、そもそも取材に応じない。たとえ取材には快く応じてくれたとしても、肝心の『ジャングル黒べえ』の封印の理由となると、奇妙なことに誰も覚えていないというのだ」(『2』p.91)
取材してモノを書くことの苦労は、多少はぼくも知っているつもりなのだが、問題が問題なだけに、その労苦たるや想像を絶するものがある。いや、封印作品にまつわる客観資料を集めること一つにしても大変な時間を要するだろうと想像する。そういう同情も混じって、こうした取材の困難さのプロセスの叙述は「泣き言」ではなくて、本書に魅力を添えている。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/fuuinsakuhin.html
今回の安藤の著作では、この長所が前面に来ている。いわば「謎解き」になっていて、「著者と一緒に謎解きをしていく」という感じが与えられるのだ。
安藤もやはりぼくと同じような推測をして取材を初めていくのだけども、アニメファンとパチンコ層はほとんど重なっていない事実をつきとめる。
つまり「いまパチンコをやっていなくて、しかしアニメが好きな層が、アニメに惹かれてパチンコ屋にやってくる」という想定はあまりなされていないのである。
ハードルが高すぎるパチンコという遊技
安藤は取材の最初で、現在のパチンコの「わけのわからなさ」に困惑する様子を率直に書いている。
コンビニでパチンコ攻略雑誌を何冊も買って勉強しようとした。しかし、そこには「時短」「潜確」「電サポ」など、専門用語が羅列されているばかり。外国の軍隊の暗号文書みたいで、全く解読できない。初心者のために書かれたガイドブックが、見当たらないのだ。
結局、パチンコの基本ルールを把握するだけで何ヶ月もかかってしまった。(本書p.29-30)
安藤は実際にパチンコ屋にいってパチンコをしてみるのだが、初心者には非常に不親切であることが次のように描かれている。
しばらくは、人が打っている台を背後から覗いていたが、パチンコのやり方がどうにも分からない。ついに実際に打ってみることにした。台で遊ぶためのパチンコ玉を買うことにしたが、どうやって買えばいいのか分からなかった。……店内を三周くらいするが、どこにもそれらしき物はなかった。(p.26)
空いている台を探して、左にある差込口に千円札を入れたが何も起きない。不思議に思って、再び店員を呼んだ。店員の男性が無言で、台の脇にあるボタンを押した。ジャラジャラと玉が出てきて、台に備え付けられた皿が埋まった。これでやっとプレイが可能になるようだ。ゲームを始める前に、こんなに苦労するとは思わなかった。(p.27)
モノ書きである安藤でさえ、パチンコの基本的なしくみを文献から得ようとして、そういう適当な入門書がないことを嘆く。実は安藤によればパチンコに「入門」する黄金パターンは、知り合いに誘われて、知り合いに教えられながらパチンコを「学ぶ」というものだそうで、これはゲームセンターのゲームなどよりもはるかにハードルが高い。しかも安藤はわずか5分で1000円をスッてしまい、その早さに恐怖する。
オタクでもある安藤は、こんなふうに何の味わいもなく短時間でカネを費消してしまうくらいなら、マンガやフィギュアを買った方がはるかにいい、と痛感するのだ。たとえば風俗であれば、高価格であっても、そこに明確な快楽があるから、費用対効果ということを考える人もいるだろう。しかし、パチンコは初心者にとってはその快楽さえもないのだ。
つまり、アニメに関心のあるオタク層は、こんなハードルを乗り越えてまでパチンコを新たにしようとはまったく思わないのである。
「壁」にぶちあたることをウリにして
このように、本書は、パチンコの素人である安藤が体験を重ねながら、そして常人がしていくような思考の軌跡をたどりながら、一歩一歩謎を解いていく。むろんそれは取材の時系列そのままではなく、再構成されているのであろうが、読者はまさしく謎解きの旅に連れ出されるのだ。
そして、「壁」にぶちあたる。
第4章で、パチンコ台メーカーにアタックするのだが、軒並み取材拒否をくらう。その様子を安藤は、つぶさに載せている。そして11章ではアニメ会社の方にアタック。ここでも取材拒否の連続である。安藤はそれを「ジェリコの壁」と呼ぶ。そう、『エヴァ』でアスカがシンジに言うあのセリフである(つうかさらにそのもとは聖書だが)。ふつうの読み物なら省略すべきところを、一社一社ていねいに断りの文面を載せていく。
なかでも株式会社ゴンゾの対応に頭にくる安藤。
ゴンゾは、取材をするならライセンス料=ロイヤリティを払え、と言うのである。宣伝や販促ではなく、社会現象を報道するものだから、そんなことはできない、取材の申し出を取り下げます、という安藤に、了解しました、と答えながらも、使用料の予算化を提案しとけよ、
「単行本の場合は報道目的という理屈は通りません」
などと、おせっかいにもほどがあるメールを寄越すのである。怒った安藤は畳み掛けるメールで返信するが、その対応はちょっと大人げないなあとぼくは思いつつも、そのあたりのやりとりまでの生々しさが、安藤に同行して一緒に謎解きをしている気分を味わわせる。
タイトルの「パチンコがアニメだらけになった理由」は、本書の半ばくらいで基本点は解明される。あとは、その背景にふみこんでいくのだが、それまで紹介してしまうと、さすがにまずいだろうから、ここでは書かない。
思ったこと2つ
思ったことはいくつかある。
一つは、「パチンコがアニメだらけになった理由は、当該アニメを見ていた世代をパチンコに引き込むため」という思考の流れは非常にわかりやすいのだが、一歩踏み込んでみればそんな単純なものではない、ということについて。
ものごとを「わかりやすく」「最短ルート」で理解してしまうことの危険さというものは、おそらくこの世には満ち満ちているんだろうなあと自戒した。
たとえばマンガの評論なんかもそうなんだろうなと思いを馳せた。
読者である高校生や大学生に対する理解、30代女性に対する理解、そういうものを俗な解釈でつなぎあわせて理解してしまおうとすることの危険である。ついぼくなんかもやってしまいがちだよな、と。
こうしたときに、たとえば本書で言えば、パチンコをやっている人にアンケートやインタビューをとってみるという方式もあるだろうけど、本書ではその方式をとっていない。周辺部の事情通の話を固めていくうちに、本質に迫っていくのだ。こういうやり方もあるんだなと思わされた。
二つ目は、パチンコ業界の今後のことだ。
結論だけ書くけど、安藤は、「アニメだらけ」になってしまったパチンコは、一種の平板化の結果であるという感触を得ていて、パチンコの醍醐味が後退してしまっているのだ、という専門家の声を紹介している。昔の方がよかった、と。それを警察による規制を受け入れていった結果こうなってしまったと嘆く声を肯定的に紹介する。
しかし、実際に当たる確率が斉一に管理され、賭博性が削減されたからこそ、遊技人口が激減しているわけで、警察としては目論み通りということになる。それに反抗するなら、ギャンブル性が高くて何故悪い、射幸心をもっと煽るのは正当だ、というところから議論をたてないといけないはずだ。それがない。
あらためて、パチンコの敷居の高さに驚いたが、そうであれば、これはこのままゆっくりと緩慢死していくのではないか。別にそうなってかまわないような気がしたのだが、どうだろうか。
あと、小さなことだけど、活字がちょっと気持ち悪いなあ。
なんて言う活字かしらないけど、「ごんべん」の一番上の点が句点みたいになっているとか、「糸」みたいな「ム」の要素が入るとき、曲がり方が気持ち悪いとか。いちいち目に入ってきた時にイライラする自分がいて驚いた。
『封印作品の憂鬱』も読んだが紹介できずに今日まで来てしまった。
いずれにしてもタブーを取材して歩く安藤の本を、気がつけばぼくはかなりの数読んでいる。宮部みゆきの小説以上に種類を読んでいることになる。傍からみたら、完全にファンである。
面白いのだ。
そのことは間違いない。
何本も取材拒否に遭って苦労しただけのことはある。
今回も本書をつよくおすすめする。