松竹伸幸『日韓が和解する日』

 本書にある、

日本は法的に立派に責任を果たした。韓国との間で日韓基本条約と請求権協定を結び、これまで忠実にそれを守ってきたというのは、法的責任を果たしたということである。「法的に解決済み」という日本政府の言い分にはいささかの間違いもない。(本書p.156、強調は引用者、以下同じ)

という一文を読んで、あなたは「あっ、これは右派の本だな」と思うに違いない。

 

日韓が和解する日

日韓が和解する日

 

 

 しかも本書には次のような文章もある。

日韓基本条約の締結過程で徴用工問題は議論され〔…中略…〕韓国側が「被徴用韓国人の……請求権」を求め、それをふまえた議論の末、日本側が三億ドル(残り二億ドルは円借款でありインフラ整備に使われた)を支払うことになったということだ。それを韓国側も認めているのである。大法院判決はさらに、日本が過去に支払った三億ドルについて、「請求権、強制動員被害補償問題解決の性格の資金等が包括的に勘案されたと見なければならない」として、個人の請求権問題を「包括的に勘案」したものだと率直に認めている。事実上、請求権協定が想定する個人の請求権は果たされたというに等しい。(本書p.23)

〔韓国の大法院〕判決のあと、「それでも個人の請求権は残っている」とする議論があったが、判決は事実上、そういう議論を否定したようなものだ。(本書p.25)

 もういよいよあなたは確信を深めるだろう。

 さらに著者・松竹が日本の中の論議状況について、

徴用工を支援する側の人々の間でも、「国家が請求権を放棄しても個人の請求権は残っている」という、過去の常識的な論理の枠内で議論する人が多かった。(本書p.186)

と書いているのとあわせて考えると、もうこれはどこから見ても右派系の本ではないかと思う人は多かろう。

 

 しかし、本書は「右派の本」だなどという単純な本ではない。松竹は、次の2種類の人は本書を読まなくて・買わなくていい、と初めに断り書きをしている。

 一つは、「日韓関係がこじれている原因は全て日本のかつての植民地支配を反省しない現在の日本政府にあり、被害国である韓国に対する批判はどんなものでも許されず、日本は韓国の主張に全面的に従うべきだ」という人。

 もう一つは、「日本の植民地支配も戦後の責任の取り方も非の打ち所のないものであって、韓国の主張はすべて間違っており、日韓関係の断然も辞さない」という人。

 一見松竹は後者に肩入れしているかのように見えるが、そうではない。「すべて間違っており」などと考えるのは、相当ガチガチな人で、実はあんまりいないだろう。

 他方で、前者も左派やリベラルに多そうな気もするが、「どんなものでも許されず」「全面的に従うべき」とまで言う人はほとんどおるまい。

 本書のタイトルが『日韓が和解する日 両国が共に歩める道がある』とあるように、日韓両者の主張に道理がある(正しいところがある)と前提して、その解決策を探るというのが本書のスタンスである。帯の裏表紙側には「安倍晋三首相にも文在寅大統領にも受け入れ可能な解決策を提示する」と大言壮語(?)しているように、本書の構成は日韓両政府がどういう行動をとればいいかという角度から書かれていて、そのプラグマティックな書きぶりが本書に独特のわかりやすさを生んでいる。本書の帯で内田樹が「面白かったです。一気に読んでしまいました」「これほどわかりやすい解説ははじめてでした」と書いているのは、伊達や酔狂ではない。

 しかも、両政府のうち、特に韓国政府に対して突っ込んだ提案をしている。

 韓国政府が、大法院の「正しさ」と日本政府の「正しさ」の間で迷走しており、自分たちが提起した問題の重さに気づいていないと、著者(松竹)は考えているようなのだ。だからこそ、韓国政府、とりわけ文在寅にどう行動すべきかを指南する内容になっている。

 

 ぼくも「国家が請求権を放棄しても個人の請求権は残っている」という議論に接してきて、その種の論考や記事も読んだのだが、一言で言って非常に難解で、わからないところが多いというのが率直なところだった。それが本書を読んでスッキリしたのである。

 松竹は大法院判決を読んで、冒頭に紹介したように、すでに徴用工問題で個人請求権は果たされていると大法院自体が判断していることを確認しているとして、判決がそれとは全く別の論理から構成されていることに「最大の驚き」を感じたのだという。

 しかし、その「別の論理」によって目指されているものは、大変なイバラの道であることが本書を読むとわかる。ほとんど世界的な歴史をこじ開ける作業だと言ってもいい。文在寅と韓国政府にはその自覚と行動がたりないというのだ。

 

 ぼくにとっての本書の特徴をまとめれば次のようになるだろう。

  1. 細かい論点に入り込まないで、問題が世界史的な中心点から、スッキリと理解できる。
  2. 長期にわたって交渉で解決すればいいという楽観が得られる。しかもそれを「日本政府にとってのメリット」という立場から書いていて興味深い。
  3. 個々のエピソードや事実についても、「『賠償』に限ると、日本は賠償をしてきたが、ドイツは賠償をしていないとも言える」(本書p.152)などといった認識の転覆があったりして、読んでいて爽快感を覚える。

 

 中身はとにかく読んでみて知ってほしい。

 ぼくは、ぼくのような専門家でもない人間がこうした本を書く意味について最近よく考えている。ジャーナリスト・ポジションの人間がそういう悩み方をするのかもしれない(ぼく個人の場合はさらに微妙で、いわば一介の「ネット論客」でしかない。そしてだいたいぼくレベルの書き手など「ネット論客」なんてその後ろに「(笑)」とか「()」とか「(察し)」とかついてしまいそうなものだ)。

 トム・ニコルズ『専門知は、もういらないのか』(みすず書房)を読むと、基本的に専門知は要りますよ、民主主義の健全な基礎ですよ、ということが書かれているのだが、逆に言えば、専門知でないものは不要だと言われている気になってしまう。

 

専門知は、もういらないのか

専門知は、もういらないのか

 

  

 あえて、専門知でないもの、「ネット論客(笑)」レベルのぼくができることとしては、問題をわかりやすく整理することではないかと思う。

 池上彰のような人間が新たに必要とされている背景にはそれがあるし、ジャーナリストであり、日韓関係の専門家ではない松竹が本書で発揮したのもそういう役割ではなかったかと感じた。