東京都の青少年条例について思う

西日本新聞の投書

 先日(2010年12月9日付)の西日本新聞の投書欄に「過激な性表現 規制やむなし」という70歳の人の投書が載った。もちろん東京都の青少年条例の件だ。
 投書は、表現の自由という主張に一定の理解を示しつつも、規制はある程度はやむを得ないとする。

私には最近の性に対する感覚は異常に映る。一昔前なら非難された「できちゃった婚」や「援助交際」という名の売春。言葉にも意識にもモラルや罪の意識が薄い。それらが規律を乱していないか。

 性観念の紊乱や崩壊が起きている、という指摘である。この文章の後に、教師や知識人の性的頽廃を嘆くくだりが続く。社会の自浄作用として善導を期待されている人々がその体たらくだから、行政が乗り出すのもしょうがないじゃん、というロジック構成だ。
 この種の年配者の発言には、条例の内容などを早とちりするものが多いが、この投書は立法の内容を基本的に正確におさえ、性的刺戟などではなくて、青少年の健全な育成という立法趣旨の核心をついている。プロ並みである。プロじゃねえの?

 

都条例改定とは何なのかをぼくなりに押さえておく

 もう一度都の青少年条例の改定点の基本を押さえておく(マンガの部分だけ)。ぼくはこの問題、シロウトなので事実関係の間違いがあったら、コメント欄で指摘してほしい。直すので。

 都側の言い分をまとめる形になるが、何でそんなことを今さら書くのかといえば、ぼくと同じようにこの問題に疎い人が理解する助けになるんじゃないかという動機からだ。

 条例案反対派のサイトにいくと、問題点がまずいっぱい書いてあったり、よかれと思って条文や答申のようなものがわんさと書いてあり、何が問題かがよくわからなかった。
 ジャーナリズム系のサイトでわかりやすく解説しているところもあったが、今度は簡潔すぎてわからないところもあった。
 自分の知りあいに話すようなつもりで、賛成派と反対派の論点がわかりやすくかみ合うような基礎的なことを書いてみたらいいんじゃないかと思ったのである。もちろん、もうそんなサイトはとっくにあって、ぼくのネットを使う能力が低いだけなのかもしれないが、まあちょっとは役に立つだろう。


何が規制されるのか

 一つは、規制される表現対象だ。
 近親相姦や刑罰法規に触れる性行為を「不当に賛美・誇張する」マンガやアニメなどが規制の対象になっている。

 これまでも、都の青少年条例でマンガに対する規制はあった。
 それは、性欲とか暴力とか自殺を激しく煽るとされるようなものだ。「マンガを読んでいてセックスしたくなっちゃったあ」と煽情されるイメージである。
 今回はそのような性的刺戟をあおるものとは違う
 お父さんとセックスしている。強姦とか痴漢をされている。そのセックスをどちらも喜んでいる。あるいは、ものすごく自然なことのように描いている。とかいう類のことを規制したいのだ。そういうものがなぜいけないかといえば、お父さんとセックスをしたくてしたくてたまらんくなってしまうからではなくて、お父さんとセックスするのはそんなに変なことじゃないんだ、とか、強姦されても喜ぶっていうのがごく普通のこととしてあるんだ、という具合に、青少年の性観念を乱し、健全な育成を妨げるからである。

 この条例案(条例改定案)は、年初に似たもの(旧条例案)が都議会に出されたが、そのときは描かれているのが子どもであるということを規制対象にしようとしていた。少し前に国の法律で児童ポルノが規制されたように、子どもとセックスすることをことさらに描く表現を問題視しようとしていたのだ。
 だけど、マンガで描かれた子どもは実在しない。国の児童ポルノ規制法では、マンガに子どものセックスなどが描かれることを規制しようとしたが、具体的に被害を受ける子どもがいるわけではないので、その規制までは踏み込めなかった。
 ところが東京都の旧条例案ではこれを規制しようとしたのだ。そこに描かれる子どもを旧条例案は「非実在青少年」といったのである。
 これは大変な批判にさらされ、今度の条例案ではこの言葉はなくなってしまった。ある意味ですっきりした。

 そうすると大きく変わったように思える。「子どもとのセックス」という話はどこかへ行っちゃったのだろうか?
 そうではない。
 今度の条例案で規制しようとしている「刑罰法規に触れる性行為」は刑法にある強姦とかだけではない。他にも売買春や痴漢も含まれる。そして、たいていの都道府県ではそうであるように、18歳未満の子どもとのセックス自体も条例で禁止されているのだ。だから、未就学児、小学生、中学生、高校生などとのセックス自体もここにふくまれてくる。*1「子どもとのセックス」ということが形をかえて入っているのである。議会質疑でもそれは確認されている。

 でも、近親相姦や刑罰法規に触れる性行為をただ描いただけで規制の対象になるのだろうか。東京都はそれを否定し、そのなかでも「不当に賛美・誇張」した場合だけなのだ、と議会で答えた。では「不当に賛美・誇張」とはどういうことだろうか。
 それがさっきのように強姦の被害に遭った人がことさら喜んで性的悦楽にふけっているとか、あまりにも当たり前のことのように受け取られるお兄ちゃんとのセックスとか、そういう描写なのだ、と東京都は答えた。

 これが一点目の話。どんな描写が規制の対象になるのか、ということである。


どう規制されるのか

 二点目。それは規制の仕方についてだ。
 作品を検閲し、問題の描写のあったものは発禁処分にする……というわけではない
 不健全図書という指定をおこない、そういう指定をうけた作品は、売る時にはっきりと区分して陳列し、18歳未満には売ってはいけない、というふうにするのである。裏を返せば18歳以上なら「自由に」買うことができる。出版禁止ではなく販売規制だというわけである。
 だから表現そのものが禁止されているわけではないので、表現の自由が侵されているのではない、ということになる。

 条例案にはマンガに限らずもっと多くの問題点があるし、マンガに限ってもさらに多くの論点がある。ただ、ぼくはマンガに関して主要な問題をこの二つではないかと感じた。


反対派は何を問題としているのか——最大の問題は「表現の萎縮」

 これに対する反対派の反論は、実に様々な立場のものがある。
 あらゆる形で表現には規制を設けてはいけないとする立場のものや、規制そのものはやむを得ないこともあるが今回の条例案についてだけ納得がいかないという立場のもの、単純にエロが読めないのは困るという立場……いろいろである。
 まあ、そういういろんな思惑が合流して「現行条例案反対」という勢力が形づくられていることになる。

 冒頭に紹介した70歳の人が印象づけようとしているような、「とにかく表現の自由を少しでも浸食するようなものはダメ」という論点で押す人、というのはあまりいない。
 著名な漫画家集団、都議会の反対派、出版社側が強調する反対論のメインストリームというのは、「不当な賛美・誇張」というのがいくらでも拡大解釈できそうで、そうなると表現活動の萎縮が起きてしまい、文化的に貧しいことになってしまう、という危惧だ。この反対論の組み立ては、「規制そのものには反対しない(限定的な規制ならありうる)」という人でも「都の条例案の規制は限定的ではなさすぎる」という形で論立てに合流することができる。また、規制は一切設けない方がよい、という立場の人もやはりこの論立てに合流することができる。

 この論立てでみたとき、高校生とセックスする、というマンガ作品などはグレーゾーンに位置する典型だろう。
 高校生とかわされた愛情、高校生との人間関係を、セックスを通じた表現によって賛美したり誇張したりして描こうとする手法は厳しく制約を受けることになる。


 都は「賛美や誇張しても不当でなければよい」というだろう。しかし、「不当」とは一体どこまでなのか、都の解釈を聞いても画然としていない。そうなると、クリエイターや編集者は「とりあえず描かない方が無難だ」とか「先生、ここはちょっと…」というような萎縮が起きる、というわけである。
 竹宮恵子の名作『風と木の詩』は少年の性行為、強姦、近親相姦を題材としその心情を肯定的に描いている。朝日新聞社説(2010年12月3日付)が都条例案をまともに当てはめれば『風と木の詩』のような作品は青少年には届かなくなる、と批判する。

竹宮恵子さんは「風と木の詩」で、少年同士の性愛や父子の性関係を描いた。出版社は苦情を恐れたが、少女たちに性の問題を伝えたいと考えたからだ。文化庁長官を務めた心理学者の河合隼雄さんは「思春期の少女の内的世界を表現し切った」と絶賛。いまも広く読まれている。しかし改正案を額面通りに受け取れば、ずばり規制の対象だ。10代の読者に届かない。


 竹宮自身は次のようにのべている。

わたしの作品『風と木の詩(うた)』は対象になるだろう。都は『対象ではない』と言うかもしれないが、自分自身は対象だと感じてしまった

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1003/15/news074.html

 まさに竹宮は萎縮したのである。

 ぼくは共産党の都議団に電話して聞いてみたときに、この「萎縮」がどんな形でおきると思っているのかをもう少しロジカルに説明してほしいと言ったのだが(ぼくは出版や流通のメカニズムのような話を期待していた)、そのとき共産党の担当者は「漫画家自身が萎縮してしまうと言ってるんだからこれくらいわかりやすいことはないですよ」と述べていた。なるほど、ある意味そのとおりである。


「オトナに売ればいいんじゃないの?」

 仮に「不当」であっても青少年に売れなくなるだけで、区分された陳列コーナーで大人相手に売ればいいじゃん、と言うかもしれない。「ゾーンを分ければ(ゾーニングすれば)いいんじゃないの?」という意見はけっこうあるのではないか。ぼく自身もこの疑問はずっとあったし、今もないわけではない。

 これについては第一に、先ほどの『風と木の詩』のような子どもに届けるべき作品までもが子どもに届かなくなるという問題がある。

 第二に、単に子どもがダメなら大人に売ればいい、というような生やさしいものではなく、不健全図書に指定されたり、それに類するもの(表示図書:後述)にされたら震え上がって取扱をしない本屋が出たり、区分陳列や包装義務でコストがかさんでしまい、結局販売をあきらめたりせざるをえなくなる。
 出版社は必ずここを通して書店に卸すというような大手書籍流通(取次)は、こうした指定図書は取扱から外してしまう合意があるという。
 いずれにせよ、コストや売る場所が大幅に制限され、出版に根を上げてしまうのである。だからこそ、過剰な「自粛」という形で表現の萎縮が起きるのだ。

(追記:2010.12.17)
 もちろん、この規制のシステム自体は現在もある。
 「読んでいたらヤリたくなっちゃった」という具合に劣情をあおるようなマンガについては、これまでの都条例では「まず業界が自主規制にがんばれ」という条文がある。条例で書いてあるのに「自主」とはおかしな話だが、こういう努力規定が入っている。「強制ではない」けども、その努力規定にもとづいて、業界が「自主的」にもうけた場で、まず業界側が「成人向け」を指定するのだ。これを「表示図書」という。そして、その業界の指定では足らないものを行政が「不健全図書」に指定するのである。
 このシステムで今回も規制するのだ。規制システムの根本改変ではなく(まったく変わらないわけではない)、規制対象が拡大する、というわけである。

 「今すでに規制システムはあるから、それでいい」という主張は、この事実にもとづいている。「いま何の規制もなく町中にあふれている」という印象をふりまいて規制強化をしようとねらっている人はこの事実を意図的に隠しているのだ。

 よくテレビでこの問題を報じるときに「問題ありそうな本」をならべて親に「こういう本を規制することをどう思います?」と聞いて「そうですね、やっぱり規制は必要ですかね」と答えさせているものがあるが、たぶん答えている親は「エロいものの規制」くらいにしか思っていないだろうから、「エロいものへの規制はすでにある」とわかったら「それでいいんじゃないか」と思うだろう。

 ただ「今すでに規制システムはあるから、それでいい」という主張は、ある意味その通りだけども、「今ある規制で表現は萎縮していないの?」という疑問は当然に起きる。これは東京都が出したQ&Aにさえ書かれていることだが、性欲や暴力、自殺をあおるような作品を規制するとき、それがどういう作品なのかということについては、長い間業界と行政が話しあいと合意を積み重ねて「だいたいこんな感じ」というラインができあがっている。いわば予見可能なわけである。だから表現の萎縮が起きにくい、というのが業界側の主張だ。
 しかしこれは逆に、規制の対象とラインが固まっているので、新たに「性犯罪や近親相姦もダメ」という対象の拡大は、今の条文ではやりにくい、といううらみがある。都側は「新たな対象拡大が必要だから条文を変えるのだ」という理屈なのである。(でもまあ、さっきのテレビインタビューなんかでもわかるとおり、今の規制ではダメで近親相姦も取り締まれ、なんていう要求は親からは「自然」には出てこないだろうけどね。)

 しかも、条文に「自主規制」が書かれているような「おかしさ」をみても、こういう今のような規制システムでいいかどうかは考えねばならない。
(追記了)

 以上が基本的な論点ということになる。

 

「表現の萎縮をさせない」と「子どもを有害な性表現から守る」がせめぎあう民主主義のシステムは可能か

 この時点では「表現の萎縮をさせない」と「子どもを有害な性表現から守る」という二つの利益は対立したままとなっている。


 この対立を、「表現の萎縮をさせない」と「子どもを有害な性表現から守る」という両者を民主主義システム上、両立させるものとして考えるにはどうしたらいいのか。言葉を変えていえば、その両者がせめぎあい、民主主義システムとしてきちんと解決をつけるためにはどうしたらいいか、ということである。

 いま一度、冒頭の70歳の投書に立ち返ろう。
 「有害な性情報」を垂れ流すコミックについて、そのような表現から子どもを守りたい市民、あるいは、女性の性を商品化しストレスをふりまくと感じている市民たちは、どうすればいいのか。
 長岡義幸『マンガはなぜ規制されるのか 「有害」をめぐる半世紀の攻防』(平凡社新書)では、長岡本人もかかわった「『有害』コミック問題を考える会」の見解で出しているように、

個々人の取り組みは、自らが表現物によって被害を受けたと感じたならば、自らの主体を行政などの他者に預けるのではなく、直接、出版社や表現者との対話を求める作業を重ねるべきです。そして、対する出版社や表現者は、いかなる言説であれ、真摯に耳を傾け、主体的に対応すべきです。(同書p.250)

というのが基本になるだろう。早い話が、徒党を組んで出版社に押しかけて話してみてはどうか、というものである。本来的には対等な対話によって解決策が開かれる「熟議民主主義」が理想であるが、交渉の現場はそれほどきれいごとだけではいくまい。「世論圧力」対「商業的思惑」の衝突になることが少なくないはずだ。
 たとえば次のようなつぶやきがある。

Togetter - 「編集者から見た現場の表現萎縮」 Togetter - 「編集者から見た現場の表現萎縮」

 言葉の暴力ともいうべき狂気の圧力を加えたり、ただただ時間を奪って消耗させるだけのやり方は論外であるにせよ、たとえ穏健なものであっても交渉自体が出版側にとってストレスフルなものであることは否めない。しかし、それは、送り手や出版側が甘受すべき精神的コストではないか。そういうことさえ一切言ってくれるな、静かに表現をさせてくれ、というのはやはり通らないと思う。

 つまり行政を介さずに、市民対市民の対話によって問題を解決することが基本になるのだ。


行政は絶対に手を出したらいけないか?

 ただ、次のような誘惑はどうしてもあるだろう。
 対話すらしないアウトロー出版社がある、そういうときに、行政の手を借りることは絶対にいけないのか、というものだ。
 対話をせず平然と作品を送り出すだけの送り手や出版社は確かにいる。だが、そのときでも、販売場所、つまり書店側と話し合いを重ねることでこうした出版物の売場を徐々に締め上げていくことはできる。そうしても依然として売り続ける売場というものはやはり残るだろう。だが、そのとき青少年に渡される機会や、不快に感じる女性たちの目にふれる機会は一定程度減っているはずだ。ここまではいずれも市民間の対話によって実現させることができる。

 にもかかわらず、行政側や政治家側の立場で考えてみたとき、さらに次のような感覚にとらわれる。有害な性情報を満載したとされるコミックがあふれていて、市民があれこれ「そういうことはやめてほしい」と頼んで回っている。そのときに、行政や政治は「表現の自由だから何もできない」と一切動かないというスタンスをとれるのか、ということだ。

 理想としては、行政(政治)と出版側がまったく対等な立場にあり、行政側は出版側と「対等な対話」を重ね、熟議によって出版社が自主的に結論を得る、ということが考えられる。健全な問題提起機能を行政が有するべきではないか、と。


マンガはなぜ規制されるのか - 「有害」をめぐる半世紀の攻防 (平凡社新書) だが、長岡の『マンガはなぜ規制されるのか』を読み、その規制の半世紀の歴史を読めばすぐにわかるが、行政側は警察的な介入や取締がふえ、半世紀前には主流であった「市民の運動や世論から行政の介入へ」という流れすら消えて、市民の運動や世論などなくていきなり行政(とくに警察サイド)から介入が先行するということが前面に出てきている。

今回の条例案は保護者らの声に促された側面より、児童ポルノ対策の機運を独自に高めたいとする都が政策的に先導した面がある。(日経新聞2010年12月9日付)

という指摘はそのとおりなのだ。
 しかも『マンガはなぜ規制されるのか』にあるように、指定をかけてコストをあげさせて苦しめたり、出版という文化を保護するためにもうけられたさまざまな税制上の措置を外すことをチラつかせたり(それをやったのが「オタクの味方」である麻生ローゼン閣下)と、権力を使っての締め上げをしてくるのだから、雰囲気としてはおよそ「対等な対話」などは望めない。少なくとも現状はそうなっている。

 
 だから、(1)世論圧力を使って出版側を追い込むこともふくめ、市民運動が出版側に対話をすることを基本とし、(2)緊急の場合は、行政が問題提起者として対話する形で(行政処分的な形ではなく)「介入」する機能へと変えるようにすることをめざすべきだ。

 「表現の萎縮をさせない」と「子どもを有害な性表現から守る」はぼくは、どちらかが絶対的に主張されうる、というふうには思えない。どちらかにスッキリした理があり、他方に断罪されるべき悪があれば別だが、今後両者はせめぎあうしかない。行政の介入もある条件をクリアするなら絶対ダメというふうには思えない。そのせめぎあいの原則を打ち立てておくことが今後にとって必要なことではないだろうか。


 以上は民主主義システムの機能として、どこまでが許されるか、ということを考えてみた。
 だが、この条例案がうたっているもともとの目的、「青少年の健全育成」ということについては、どうなのか。


「有害」な性情報コミックの排除というやり方で「健全」は達成されるか

 そのことについていえば、「有害」な性情報をあたえるコミックを選び出し、排除や自粛を要請していく、という市民運動は、やってもいいとは思うが、それほど意味があるとは思えない。ポルノに過大なストレスを感じる女性が「見たくないものを見ない自由」を行使するうえでは意味があるとは思うが、「健全育成」についていえば、かなり疑問だ。完全に無意味とまでは言い切る自信は今ないが。

 『マンガはなぜ規制されるのか』において、宮台真司が都議会や裁判でおこなった参考人質疑のポイントが書いてある。

  • 暴力的・性的メディアが受け手を暴力的・性的にするという「強力効果説」は否定され、「限定効果説」が学会の主流。性的メディアが青少年に悪影響を及ぼすという理由で規制するのは科学的根拠がない。もともと暴力的素因をもつがゆえに、暴力的メディアに接触し、実際に暴力を振るうと解釈する必要がある。
  • 米政府の諮問機関は、性的メディアに繰り返し接すると性的関心の飽和により性欲が減少し、性的メディアの解禁で性犯罪が減少したとの報告を行った。……
  • 性表現であれ暴力表現であれ、一人で見るのか、家族や友人と見るのか、他人と見るのかによって、効果が変わる。表現規制よりもむしろメディアの受容環境を制御することこそが重要だ。(同書p.243〜244)

むしろ普通のマンガの方が「有害」じゃねえのか

 ぼく自身の実感としていえば、たとえば「不当に誇張」したようなエロマンガなどよりも、一般の青年マンガ誌や女性マンガ誌に載っているマンガの男性観・女性観の方がはるかに自然に子どもの中に入り込む。そしてそれは親からすれば「どうなのか」と思えるような男性観や女性観である場合が少なくない。

 たとえば稚野鳥子。お前だ。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/chiya.html
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/clover16.html

 それから、矢沢あい。『パラダイス・キス』で、どうしてオトコのために進路をあきらめんだよ。おかしいだろ。

 こういうマンガこそ不健全図書に指定すべきだ!

 と言うわけがない。
 ぼくは虚構は現実に影響を与えると考える。マンガやゲームだけでなく、映画やテレビはもちろん小説や詩だって子どもに何らかの影響を与える。

 ぼくらの日常のリアル生活において、稚野鳥子的な媚びは瀰漫しており、そうした態度をとる女性が男性から高い価値を与えられるという瞬間を繰り返し見聞きする。そうした方がトクなのだ、そういう生き方こそ社会で認められた生き方なのだ、というメッセージがリアル社会そのものからくり返し発信される。
 その現実を著しく補強し、強化し、権威づけてくれるのが、メディアであり、コミックはその一つになりうる。

 逆にいえば、たとえば強姦があちらこちらで日常茶飯事として起きていれば(まあ起きていると言えなくもないが、そういう頻度のことを言っているのではない)、たとえば毎日クラスの男が放課後どこかで女子を強姦し、ベルトを締め直しながら、「ふう。やっぱりムリヤリやると違うわ」と満足げに言っているのを見聞きすれば、ひょっとしたら強姦マンガはその現実を補強・強化することになるだろうが、強姦は圧倒的に多くの人にとって非日常であり、現実に与える影響というものはかなり限定的だ。

 ではぼくから見て苦々しく影響大なところの「稚野鳥子」的マンガをゾーニングすべきかというとぼくはまったくそうは思わない。
 そもそも膨大なコンテンツにすべて目を通し、子どもへの影響を一つひとつ峻別していくなどという行為ができもしないことだし、それへの対処は、どう考えても当の子どもにそうしたマンガへの批判力を育てることだし、それをとりまく現実を変えるということでしかない。それは親を含めた社会の責任である。



「自分の娘に見せられるのか?」という問いへの答

 なおも、こう食い下がる人がいるだろう。
「あなたは自分の娘や息子にこういうマンガを読ませるのか」と。

 自分の娘が思春期に入ったとして、女子中学生を痴漢(というか強制わいせつと強姦)し最後はその痴漢を待ち望むようになる月吉ヒロキ『夏蟲』を無造作に家の食卓に放り出しておけるのか? 

 おけないよ。だいいち、発見されたらかなり慌てるよ
 で、その慌てているぼくを指して「ほらみろ。自分の娘ならそれくらい切実なんだよ」とかドヤ顔でいう人もいるかもしれないが、全然ちがうから。

 慌てているのは、父親であるぼくの性的嗜好が、いま娘の目の前で『夏蟲』という形で可視化され、父親であるぼくがきわめて具体的なイメージをしうる性的存在であるという構図が、もうモロに展開されてしまっているからであって、セックスしているところ見られたのと同じ羞恥である。『夏蟲』の「不健全性」とは何も関係がない。たとえそれが都条例で規制をうけていないアダルトDVDであってもまったく同じだ。

 俺、小学生だったころに、兄貴の部屋でエロ本見つけた時、そのままフラフラと外に出て1日中大ショックだった。兄貴が性的存在であることを具体的なエロ本によってまざまざと知ってしまったんだもん。自分の親がセックスをして自分を生んだということを知ったときも衝撃的だったけど、兄貴のときほどじゃなかったね。親のセックスを見たわけじゃなかったから。

*1:厳密には性行為一般ではなく「淫行」だが。これはコメント欄にもあるように、結婚を前提にしたような関係ならいいが、逆にいえばそうでない関係は問題視される。たとえば榎本ナリコセンチメントの季節』に出てくるような女子高生たちとのセックスは「淫行」扱いされるのではないか。