群れたゴキブ○に似る
『進撃の巨人』は何が「印象に残る」かといったら、それはもう巨人のフォルムのキモさだろう。特にだね、60m級とか、15m級とか、2〜3m級とかお願いだからやめてほしい。そういう大きさがバラバラな、しかし相似形の生き物が群がってなんか(人間だけど)漁ってる姿って、ほとんどゴキブ○なんだな。こ、これが。
よく隠れた生ゴミとかをうっかり開けると、そこには生まれたばっかりのゴキブ○の幼虫ちゃんとか、成虫になりたての新米ゴキブ○とか、もう草履かってくらいデカいゴキブ○とか、そういうのが大小いっぱい群れてもそもそやってるわけですよ。そういう感覚。
マンガにおける「不気味の谷」
それでもっと根本的に異世界の生物っぽい姿にしてくれたら逆にふーっと遠くなるのにだね、これくらい人間に近いと、人間とのちょっとの差がもう違和感醸し出しすぎになるのだ。ちょうどロボットにおける「不気味の谷」と同じだよ。だいたい、登場する人間の少年少女たちとデフォルメ(抽象化)の度数が全然違うだろ。巨人の方、中学生が「美術」の時間に書く似顔絵っぽくなっているから。マンガという抽象化をすすめたグラフィックの世界では、これくらいのリアルさが「不気味の谷」になるわけだ。
同じような気色の悪さというのは、花沢健吾『アイアムアヒーロー』に出てくる「感染者」たちのキモさにも通じるものがある。
こういう気持ち悪さというのは、まあ昔からあるわけだけど、ふつうここで泣くよね、というところでずっと無表情でいるとか、ずっと笑っているとか、自分と同じ人間に近いはずのものが、自分には理解できない表情や行動をしている不気味さなわけで、日常ときどき感じることのある、理解できない他者に感じるおぞましさが、思いっきり拡大されている感覚なのだろう。
『アイアムアヒーロー』の「感染者」たちも感染してからは、もう男であるとか女であるとかいう属性はほぼ消滅しているし、本作の巨人たちにも性とおぼしきものはない。逆にいえば、性があることや、性というフィルターを通じて相手を解釈できればずいぶん相手を理解したような気になれるし、場合によっては深い愛着さえ感じることができるんだろう。
不可視の「理由」と理解不能な「他者」
この前朝日新聞(2010年11月8日付)に「リアル漂う『絶望郷』漫画 SF・パニックものに新潮流 『ディストピア2.0』」という記事があって、ヨコタ村上孝之が「(過去のパニックマンガにおいて)世界が崩壊するのは、核戦争やら大地震やらの理由がはっきりある」が現在の『アイアムアヒーロー』や『自殺島』などは「日常の生活が、いつの間にか崩れていた」「何の前触れもないのに、気付いたら自分の生活が壊れていた。将来がなかった。職がない。だれがいつ負け組になってもおかしくない」ものだと述べている。
ぼくは『アイアムアヒーロー』と『自殺島』は別の系統の「絶望郷」マンガであり、『進撃の巨人』はそのどちらの要素も兼ね備えている、と思っている。
『アイアムアヒーロー』は、自分をおびやかすものが不可視であるとか、他者がまったく理解不能だという「見えない」不安を(少なくとも4巻までは)かかえているマンガだ。そしてその不安にたいして主体の抗力がきわめて小さい。『進撃の巨人』の巨人への不安もよく似ている。主人公たちが(少なくとも2巻までは)ほとんど無力に等しい存在であることも共通している。もちろん多少は抗える。しかし多少は反撃できることが、全体の狂奔ともいえる流れを押しとどめることはできそうにもないことを際立たせ、努力のちっぽけさを逆に浮き彫りにしてしまう。
生活が破壊されたり、将来が突然消えていたり、職がなくなったりする不安とともに、いきなり得体のしれない国が砲弾をぶっ放したりするような不安にさいなまれていることと重なる。
「自己責任」論へと最終的には「進化」していく、「強い個人」「個は輝き強くあらねば」という説教は、他者との共同や連帯を「依存」として否定し、他者を理解不能な存在として「モンスターペアレント」とか「ニート」とか「北朝鮮」とかいって塗りつぶしていく。
こうした不安を奇妙なまでにふくらませれば、『アイアムアヒーロー』のような「ディストピア2.0」は出来上がる。
『漂流教室』では厳しい環境に突如投げ込まれる小学生たちが出てくるが、小学生たちは厳しい環境のなかで共同する。つまり極限を描きながら、核になっているテーマはまさに人間の共同であって、非常に楽観的で明るいものだった。
『ドラゴンヘッド』では、逆に人間が手を組む、ということへの不信感が表明される。オウム事件の直前に描かれ始めた同作は、『漂流教室』みたいに簡単には人間は手なんか組めませんよ、という不信を表明しようとしていた。人間は簡単に共同できるものではないが、利害を介して極限的な一点であれば、ドライに手が組める可能性があるかもしれない、と言おうとしていた。ただ、そこではまだ他者は理解不能な存在ではなかった。
説教としての『自殺島』
もう一方の『自殺島』は、ひとことでいえば「説教マンガ」である。もちろんそれが面白くないわけではない。
前掲の朝日新聞の記事で、同作品を書いた森恒二は「今の若者世代にひとこと言いたくなって」自殺島を舞台にした、と述べている。
「夢なんかなくたっていい。とりあえず食っていく。生活に一喜一憂する。そこから始めよう」。そんなメッセージを作品に込める。
ただ、「説教調にならないよう、あくまで『透明な彼ら』から世界を見る」姿勢は揺るがさない。
いや、十分説教くさい(笑)。
死んでるみたいに生きているオマエらは、苛酷や死を意識することで覚醒するんだ、という思想は「自衛隊入って鍛え直せ」というオヤジ説教と本質的には差がない。
夏目房之介は『進撃の巨人』を読んだ時、かなり幾重にも慎重な留保をつけてではあるが、
たとえば、長く外界から閉ざされることで「平和」を維持してきた人類が、じつはいつでも、一見理由もなしに外から襲来する圧倒的な「現実」にむなしく破壊されるという主題は、見かたによって戦後日本が置かれた「平和」の危うさと「外」への恐怖(希求?)の隠喩にも見える。そう考えると、ここでの「身体」のイメージは、圧倒的な「外」の「現実」である力と出会うことに可能性を見出していることになるかもしれない。もちろん今後の展開にもよるわけだが、1〜2巻の兵士集団へのとらえ方を見ると、一種の戦後日本論として読めてしまうところが興味深いのだ。
http://executive.itmedia.co.jp/c_natsume/archive/378/0
と書いている。
もうね、1巻の冒頭にある、登場人物の一人のセリフを読んだら、戦後日本論かよって思っちゃったね。
確かにこの壁の中は
未来永劫安全だと信じきってる人は
どうかと思うよ100年 壁が壊されなかったといって
今日壊されない保証なんかどこにもないのに…
その中で見出す「解決」の方向は、登場人物の一人であるミカサが幼少期に、目の前で親を殺され、いままた誰か(エレン)が殺されるのを目の当たりにしたとき、この世界が弱肉強食の無数の連鎖からなる「残酷」なものだという思想に突如ミカサが思い当たり(なんでだよ)、
今…生きていることが奇跡のように感じた
…その瞬間
体の震えが止まったその時から私は自分を完璧に支配できた
何でもできると思った
として、エレンを殺そうとした男を刺し殺す反撃に出る「戦闘美少女」に変貌するのだ。*1
ぼくは、死や極限の苛酷を設定して、そこでこそ生の輝きが生まれる、とする思考様式が大嫌いである。そこには、「今を生きている人間が、ヌルい、現実ともいえないような現実を生きていて、生きる意思や気力に乏しい」という人間観が透けて見えるからである。
ここでは、たしかに「共同」も描かれるだろうが、メッセージとして残るものは、おそらく「強い個人」や「自己変革」の強調でしかない。行き着く先はやはり「自己責任」論となるはずだ。
*1:それにしてもここでも、ミカサは「変態の性奴隷として売り飛ばされようとする子ども」という最近の物語世界でよく見聞きする設定になっており、現代の若い人にとって、「性」をめぐる問題こそが一般的な殺人や暴力よりもはるかに生々しいものであるかを実に雄弁に語っている。