横山光輝『ウイグル無頼』

 中学校のときに、横山光輝の『三国志』にハマり、学校にもちこんでブームをつくったのは何を隠そうこの俺である。そのあと『横山光輝三国志事典 おもしろゼミナール』という困ったタイトルの本が出たくらいだから、自分の学校を起点として全国的ブームとなり、その火付け役はひそかにぼくだと思っていた。のは高2くらいまでかな。

 その中学時代に、とにかく横山の歴史系マンガを友人みんなで集めて持ち寄ったりしたわけだが、今みたいにAmazonがあるわけでなし、片田舎だから古本屋なんていう気のきいたものも利用できないし、カネもない。
戦国獅子伝 (1) (講談社漫画文庫―横山光輝中国時代傑作選) それでもけっこう集まったものだったが、中でも異色を放っていたのが『戦国獅子伝』だった。

 『戦国獅子伝』は中国の戦国時代が舞台の話。辻真先が原作なんだな。

 辻真先なんて田舎の中学生は知りゃあしないから、同じマンガを穴の空くほど読んでいた慣習上、名前だけは覚えてしまった。すると日曜日の晩、「サザエさん」を何げなく見ていたらそこの脚本家名に……そう、辻真先が出てきたではありませんか。

 ぎゃー。

 何が「ぎゃー」といって、『戦国獅子伝』は俺たちの仲間内で『戦国エロ伝』と呼ばれていたほどにセックス描写の連続だったんだわな。それも「ふつう」のセックスではなく、強姦とか近親相姦とか、宦官に「房術」を施されて口からヨダレを垂らして快感にまみれる老王妃とかそんなのばっかり。それだけではなく、料理人が猟奇を好む王のために自分の娘を料理するとか、まあ、エロ・グロの宝庫だったわけですよ。
 そんな、そんなですよ。そんな『エロ伝』とか男子中学生に言われるマンガ原作を書いていた辻先生が「サザエさん」だなんて……。セックスも死もないサザエさんの世界を描く人が『エロ伝』とは。おまけに辻センセイはよく「日本共産党に期待します」に名前とか出してらっしゃいますし……。

 清貧の代名詞のような日本共産党に期待しちゃっている辻センセイが『エロ伝』はないでしょう。

支配的で暴力的で権威的なセックスばかりの『ウイグル無頼』

ウイグル無頼 完全版 それで、『ウイグル無頼』である。ジュンク堂に平積みされていたので買った。数年前に文庫では復刻されていたらしいけども。
 まあ『戦国獅子伝』と似た時期に描かれたこの話にも、だいたい1話につき1回セックスがある。
 物語はウイグル、つまり中国の「西域」付近から中央アジアにかけての領域を旅するヘロデという男が、行く先々で出遭う暴力とセックスをめぐるものなのだ。

 解説を書いている中野晴行が、

当時、青年コミック誌の中心的な読者だった大学生をターゲットに魅力ある男として考えられたのがヘロデのキャラクターだ。「草食系」と呼ばれる今の時代の男性像からは想像もつかないかもしれないが、70年代前半の男性から見た男性の理想像は、〈強くて、孤独で、SEXで女を惚れさせる〉というものだったのだ。

と書いているように、ヘロデのセックスは、圧倒的な力をバックにした支配的・権威的なセックスであるか、ストレートに強姦である。だいたい第1話から、朽ち果てた宮殿に宝を探しに行こうとしてそこでヘロデを罠に陥れようとした盗賊の女首領を「犯って」しまい、女首領は逆にヘロデに惚れてしまうのである。
 他にも国を守るためにヘロデの助力を乞うた美しい女王が、ヘロデの出した交換条件で毎夜「なぐさみもの」にされるとか、そんなのばっかり
 しかも、まあだいたいはその「征服された女」というのは、ヘロデに惚れてしまうのである。まさに「SEXで女を惚れさせる」ということだろう。
 『戦国エロ伝』……じゃなくて『戦国獅子伝』であっても似たような状況でセックスが描かれる。ちなみに横山のセックス描写において、この「暴力や圧倒的な力によって女をいいなりにする」と双璧をなすのが「酒池肉林」描写であろう。『ウイグル無頼』でも「巫子の男」などでそうしたシーンが描かれている。

暴力で女をいいなりにすることに快楽を覚えるのは現代でも同じだが…

 「暴力や圧倒的な力によって女をいいなりにする」ことに性的快楽を覚える――というマッチョさは、決して「70年代前半の男性」の特殊性ではない。*1
 エロゲーエロマンガの世界で、強姦、調教、隷属モノが巨大なジャンルとなっているのを見てもそれはすぐに証明できる。

 ぼくだって、さっき書いた「なぐさみもの」とか「嬲る」という言葉を中学時代に知って辞書を引いてその字義だけで想像の翼たくましく無茶苦茶に興奮した記憶がある。それは女性を「性の対象」とするばかりでなくそれをつきつめて徹底して道具視、モノ化することに興奮を覚えたのである。
 この『ウイグル無頼』のあふれる暴力的セックスと強姦描写の嵐を読んで、あらためて自分の性意識について気づかされることは、そういうものに快楽を感じてる自分である。こんなものを喜ぶのは70年代前半のマッチョな男だけだ! などとは口が裂けてもいえない。
 婚礼前夜の資産家の花嫁を襲い、財宝を略奪し、男をすべて殺した後に、花嫁を輪姦するというシーンに興奮しなかった、とはいえないのだ。

 ただ、別に統計的な分析でモノを言っているわけじゃないけど、たとえば連合赤軍事件に見られるような、大学出の「インテリ」とよばれた層でさえ男尊女卑のマッチョを左翼運動にさえ持ち込んでいた。しかし、今の学生たちは家でいかに鬼畜なエロゲーをやっていようとも現実の性行動では実にマッチョさに乏しい。
 だから「70年代前半の男性」と「今の時代の男性」は同じなんじゃなくて大いに違いがある。


「70年代前半の男性」と「今の時代の男性」の違い

 そういう違いは結局何に起因しているんだろうかね。

 この種の性的ファンタジーを虚構の中に押し込めてしまう能力の高さなんじゃないか。というのは虫がよすぎるかな。

 ええっと、やっぱり女性が変わっている、強くなっている、というのもあるかもしれないよね。
 『ウイグル無頼』に出てくる女性というのは、盗賊の首領であったり女王であったり策略家であったりと、一見すると独立心あふれる強靭さを備えているように見えるんだけど、こういう女性像は「007」シリーズのボンド・ガールに似ていて結局男性依存的なんだよね。〈強くて、孤独で、SEXで女を惚れさせる〉ってまあ「007」「ゴルゴ13」的なわけだけど。

ドクター・ノオ (アルティメット・エディション) [DVD] そういう女性像の衰退というのは、女性が強くなってきたということの現れなんじゃないか。すごく俗なことを言っているようだけど。

 この種の女性像に似たものとして峰不二子がいて、それは現代にいたるまで人気を博しているんだが、峰不二子の場合は、ルパン依存的ではないから、この呪縛からは逃れているよね。

 とまあそんなとりとめのないことを、『ウイグル無頼』を読んで結構興奮している自分に「なぜこんなマッチョなものに俺は興奮を…」という疑問から、つらつらと書いてみた。

*1:誤解のないように言っておけば、中野が「特殊性がある」と言っているわけではない。