サンデルの問いを考えてみる

これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学 マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』をちょっとした読書会で読むために読了した。ちなみにサンデルのこの本、そこでも話題になってたんですが5月発売でもう68刷ですよ。まああんまり部数はないんでしょうけど。


 サンデルは日本での講義のなかでいくつか問いを出しているけど、その一つを考えてみる。

下記URLの記事のなかにある問いで、
http://book.asahi.com/clip/TKY201008300172.html

 「大災害が起きた自国と他国の国民、どちらを助けるか」というものがある。

 サンデルが「じゃあ2人のうち1人しか救えない状況だったらどっちを選ぶ?」とさらに問題をつきつめているが、たとえば犯罪者組織にぼくがつかまり、目の前にも他に2人が捕われていて(日本人と外国人各一名)そのうちお前がどちらかを選べば片方を殺さないでおく、というわれるような状況を考えたら、くじをひかせるだろう。日本人だからどうだということはない。片方が親しい人であれば申し訳ないがそちらを選ぶ。

 「大災害が起きた自国と他国の国民、どちらを助けるか」という元の問いに戻れば、すでにぼくらは「答え」を出し、日々実践している。
 飢餓や紛争で死にかけた第三世界の人々が確実に存在するが、そこに自分たちの資源を投入しようとはしていない。たとえば新潟県で起きた大震災に資源を投入する。そのような政治行動にぼく自身も日々承認を与え続けている。税金を新潟県にまずは使うことをぼく自身は主張している。

 もう少し微細にみれば、第三世界への日本国民の税金投入は、新潟県震災への投入規模よりも小さいけども、一応は行われている。だから完全無視ではないが、傾斜(優劣)をつけていることは間違いない。

 サンデルはこの問いの後、民族や国家の過去の過ちは未来の世代にどこまで責任があるかという問いをしているが、災害の問いはそのプレ質問的な位置にある。
 つまり参加者のコミュニティへの態度を確認させておくのだ。

 国家規模で災害対処を考えた時、自国を優先するという原則をおく。個人レベルでは自国民うんぬんは消え親密度が原則の前面に出る。両者は矛盾しているように見える。

 ぼくの場合、個人レベルの原則がまずある。
 つまり、個人レベルの場合、誰の命や利益を優先するか、という問いへのぼくの答えは、「自分の親密度順である」、ということだ。
 ここで「日本人としての一体感」うんぬんを議論しないぼくは、日本民族としての文化的一体感とかそういうものを信じていない。そのような意味でのコミュニティ全体への責任感も持たない。日本民族の一体性という議論を信じる人は、個人レベルでも迷わず自国民を助け、災害時でも自国民を優先することに迷いはないだろう。そういう意味では一貫している。

 ぼくが共産主義者として感じることは、本来国境は余計なものであり、世界の人々は平等に扱われなければならない、というものだ。
 しかし、現在国境はあり、主権国家がある。
 主権国家は「血」や「文化」にもとづくまとまり(エスニックなナショナリズム)ではなく、とりあえず管理のために設けられた区分であり、人々はその区分の中で政治をおこなっている(市民的ナショナリズム)。ゆえにその区分(国)にたいする責任をまずははっきりさせる。これは、ある市町村で集められた税金を他の市町村のために使わないのと同じ感覚なのである。

 まあ、ドライに「国境」をとらえるわけである。

 そうしたとき、戦争など過去の過ちにどう向き合うかという問題も、ドライに、しかもクリアになるのではないか。
 個人レベルで言えば仮に同じ世代が侵略戦争をおこしたとしても、ぼくは戦争に反対するだろうから、責任はない。
 しかし、たとえば福岡市が北九州市に対して犯した過ちは「市」としては永遠にのこる歴史であるから、「市長」はもちろん「市民(公民)」はそのことにたいしてその過ちの「責任」を永遠に持つことになる。論理的には。ただし、それは永遠に賠償金を払い続けるとか永遠に低姿勢で臨むという意味ではない。