ひぐちアサ『おおきく振りかぶって』vol.14

※以下のエントリにはネタバレがあります





 野球、ではなく、野球マンガにとって「点差」は自然な差ではない。当たり前だが。それはドラマツルギーに徹底的に奉仕するもので、たとえばギリギリの点差を使ってデッドヒートを演じさせようとしたり、圧倒的な点差を用いて両者の差を見せつけようとしたりする。あるいは、極端な点差をひっくり返すことで、主人公チームがもっている能力を劇的に演出し、読者にカタルシスを与えようとする。

 高校野球マンガである、ひぐちアサおおきく振りかぶって』のvol.14で、主人公たちのチーム・県立西浦高校は美丞大狭山戦において11対6で敗れる。
 結果としての点差はダブルスコアをどうにか免れたほどの圧倒的なものであり、西浦側は9回の裏で満塁にして点を返すものの、劇的な逆転や点差の縮まりはなかった。

 現実の高校野球のトーナメントはこんなふうにして敗れるのだろうな、というひどくリアルな感覚が残る。

 にもかかわらず、美丞戦における敗北は、自然さを感じさせない。あるいは無為の自然さを感じさせない、といってもよい。つまり状況にずるずると引きずられてこういう点差がついてしまう、というような、現実の勝負にありがちな、客観的な状況が持っている圧倒感がない。

 西浦側が試合終了後に総括しているように、チームメイトたちは、持てる力のすべてを出し尽くして美丞側にあたり、それで敗れた、その結果がまさしく11対6という差なのだ、という奇妙な説得力がある。総力をあげたという達成感はあるものの、点差がダブルスコアに近い=実力がダブルスコアに近い、ということの悔しさや打ちのめされ感が、試合後半の一つひとつの描写によってきちんと積み重ねられている。

 美丞側の監督は、最終回、点差がぐんぐん開いていくことを正確に予見する。

さあてこの回 何点入っちまうかな

こりゃあこのまま行っちまうな

 美丞の選手陣は点差が開くにしたがって勝者の気楽さが出てくる。

ダイジョブ オレ打たれっから

あと3人スパッと切って 監督の機嫌よくしとこーぜ

だけど今はお前のとの勝負はどーでもいい
中1日で準々決だ
1球でも少なく終わらせんのが優先!

 もちろんこれらは美丞内の言葉であったり内語であったりするので、それがそのまま西浦側に伝わることはない。しかし読者であるぼくらにはダダ漏れで伝わってくる。もう勝った気でいるよ、軽侮さえしてるんじゃないか、何もう次の試合のことまで考えてるんだよ――などなどという感情が湧いてくるのだ。だが、それは悪意のあるキャラクターを相手方に配置してそれを憎悪させるというのではなく、リードしている側が自然に抱く感情や表情ですべて構成されている。それが負けている側に身を置いている読者にいらだちを覚えさせるのである。
 読者であるぼくは悔しい。何か逆転のドラマ、あるいは逆転はしなくても相手の心胆を寒からしめる演出が用意されているのではないか、という儚い期待を抱いてしまう。
 しかし、そんな劇的なものはやってこない
 力の差を思い知らされ――西浦もぼくも――試合は終わるのである。

今日はこのチームの総力戦だったね
そして負けた!
もっと打てれば
もっと走れれば
自分にもっと力が!
技があれば!
全員がそう思ったよね!

 という西浦側監督のモモカンの叱咤はまさしくこの状況をまとめるにふさわしい言葉だ。

 試合に負けることはどちらが強くどちらが弱いかを白日のもとにさらけだすものだとこの間書いてきたが、加えて「点差」はその実力差がどれほどのものであったかを数値で計測して暴きだす、容赦のないものだ。9回に敵方(美丞)にスリーランを打たせるなどという筋は、「9回裏の逆転」の演出のためでなければ一体何であるのか、と古典的な野球ドラマに慣れ切ったぼくは思ったりする。しかし、先述の通り、「9回裏の逆転」などやってきはしない。「11対6」が美丞大狭山と西浦の冷徹な実力差であることを思い知らせるためにこのスリーランは用意されたのだろう。
 西浦が1回戦で優勝候補の桐青に「4対5」で勝ったのも「まぐれ」や「運」ではなく、それこそが一つの実力の結果であったのと同じように、美丞との「11対6」の結果も一つの冷厳な実力の結果である。

 そしてvol.14は一つひとつの描写を丁寧に積み重ねていくことでこの点差=実力差による敗北を見事に描き切った。




ひぐちアサおおきく振りかぶって』1巻感想 - (旧)紙屋研究所
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