国際的大義を失う:吉田裕インタビューを読む

 「しんぶん赤旗」12月6日付の1面で吉田裕のインタビュー。

 非常に興味深く読んだ。

 日本が戦争にのめり込んで行った時、それが世界的大義を獲得できずに、その逆に、侵略戦争になっていった大きな流れが示されている。

 吉田は、当時国際社会で確立された二つの原則について指摘する。

 第1次世界大戦(1914〜18年)後の国際社会は新たな二つの原則を打ち立てました。

 一つは、国際紛争を解決するために戦争に訴えることを禁じる戦争の違法化、二つは民族自決権の一応の承認であり、その方向に大きく動き始めました。「一応の承認」というのは、列強が自国の植民地を放棄するところまではいかないという意味です。

 しかし、「原則を打ち立てた」というけど、これは実際にどんなものに法制化されたのだろうか? という疑問が起きる。吉田はそれを見越したように解説する。

 前者を象徴するのが、国際連盟規約(1919年)と不戦条約(28年)、後者が、中国の主権・独立の尊重を国際的に確認した「9カ国条約」(22年、日本も調印)でした。米国の対日政策は基本的にこの流れに沿ったものになっていました。日本はこうした国際的な両流に逆行して中国を侵略し領土を奪い、武力南進政策を続けました。「自衛」の戦争でも「アジア解放」の戦争でもなかったのです。

 アメリカの帝国主義的意図だけを突出して描き出すのは論外としても、「アメリカVS日本」を何の大義もない帝国主義的角遂とだけ見るのは、一面的である(しかし一面ではある)。すでに確立された「大義」を日本側は手にできず、外交上の敗北としてまず生じる。

 だからこそ、吉田は冒頭に次のように解説するのだ。

当時の日米交渉の最大の争点は、日本軍の中国からの撤兵問題でした。米国は、侵略戦争で日本が獲得した権益の放棄を要求し、それを日本が拒否、日米交渉は失敗に終わり戦争になりました。ここが大きなポイントです。

 国際的大義での敗北ということを日本は考えていなかった。戦闘で勝てば勝てると思っていたのである。

 これに対して、中国側はこの国際大義から事態を読み込んだ。

日米交渉の最大の争点が、日本の中国からの撤兵問題にあったように、対米戦は日中戦争の延長線上に生まれた、ということが重要です。

 軍事力で劣る中国は、欧米諸国の介入・支援という多国間の枠組みの中で日本の侵略を阻止しようとしました。連合国の有力な一員として中国が日本とたたかうという構図をつくりだしたという点でいえば、開戦は中国外交の勝利、日本外交の敗北でした。

 すでに自力では日中戦争を終えられないという段階に来ていて、日本が対米開戦に踏み切ったことは、まさに外交的敗北なのである。

 

 軍事力を過信し国際的な流れを読み誤る、というのは、例えば今日の核兵器禁止条約のものにも言えるだろうか。