あずまきよひこ『よつばと!』9巻

 5歳児のよつばと、そのとうちゃん、近所の3姉妹が繰り広げるただの日常の物語も9巻に入った訳ですが。

 いやー、久々に1巻からずーっと読み直したんですがね。
 いいですか、当たり前のこと言って? 

 『よつばと!』って本当に「子ども」の話なんですよ。

よつばと! 9 (電撃コミックス) ぼくが子どもを持って、その子どもが2歳になって、そうして日々その言動につきあわされて、そうやってあらためてじっくり読み直してみると、2歳児くらいで出てくる言葉の勘違いや物事の理解の倒錯ぶりが、よつばの行動原理になっているんですよ。

 え? そんなこと、知ってるよって?
 ぼくは知らなかったですね。

 前に「子育てしている人がこれ読んだらどう思うのかな」って、ぼくが書いたことありますけど、よく新聞や子育て雑誌に、自分の子どものかわいい勘違いや言い間違いなんかが投稿されているじゃないですか。ぼくの保育園のおたよりにも他の家の子どものそんなエピソードがときどき紹介されていて、ひどく可笑しいときがあります。
 『よつばと!』っていうのは、あの子どももっている世界解釈のストレートさ、ひねくれぶり、逆転を実にうまく抽出して作品にしあげているんですよ。だから子育て層がもっと読んでもいいと思うんですけどね。

 たとえば、1巻でよつばととうちゃんがデパートいったとき、よつばがいきなり売場の自転車に乗ってとうちゃんの方にイノセントな顔で突進してくるシーンがありますよね。
 挙げ句に、とうちゃんにぶつかって無茶苦茶痛い思いをさせときながら、「あぶなかったー」と冷や汗をよつばがかいているわけですが、「あぶなかったー」じゃねっつーのw お前、もうぶつかってるw 

 うちの娘も棒で父親のお尻を思いっきりつきさしておきながら、「おとうさん、だいじょうぶ?」とか真剣に聞いてくるわけですよ。

 3巻で、風香(よつばの隣家の高校生の次女)が、ジャンボ(とうちゃんの知り合い)の家の花屋によつばと行って、「ジャンボさん お花屋さんだったの!?」とびっくりするシーンがありますよね。
 あそこでよつばが、

「あー! いっちゃだめー! よつばがあてるのー!」

と風香に抗議して、ものすごく考えるふりをする数コマがあって、まるで推論に推論を重ねてたどりついたかのようにして「…おはなやさん…?」とよつばが答えを出すので、当時子どもがいなかったぼくは大笑いしたものです。

 ところが自分の子どもができてみると、子どもはこれ、やるんですね。
 この前、うちの娘が絵本を読んでいて、ぼくが「これ何かわかる?」とクルミを指して娘に聞いたら、「…わからん」と小声で言うので「これはクルミっていうのよ」と教えると、「おとうさん、クルミっていっちゃだめよ! おとうさん、『これなに?』ってきいて!」と興奮して続けるわけですよ。

「……これなに?」
「これはね、ね、ね、ね、ね、ね、ね、クルミ

と得意顔で叫ぶんです。

 そういう目でみると、このネタは、「あるある!」ネタになって別の面白さとして迫ってくるんですよね。
 もちろん、そのまま「あるある!」ネタにしてしまえば、それはよくある子育てエッセイコミックです。それを全然別のフィクションとしてあげているところがこの漫画の独自の価値でしょう。たとえばこのシーンであれば、考えるコマの演出をちゃんとやっていて、「はっ、そうだ、わかった!」的な感じを強調している。わかったじゃねーだろw 今風香が言ったんだろーがw

 こういうのがもう全巻にてんこもりで、こんな当たり前のことを、今さらになって「ああそうだったのか!」と改めて確認しているわけですよ。

 もちろん、5歳児の日常そのままじゃ当然ないわけで、まあぼくは5歳児を持ったことがないのでまだよくわからないのですが、よつばの世界解釈や行動原理って、2歳児の娘とすごくよく似ている部分が多いわけです。たぶん、どの年齢の子ども(乳幼児)にもすべてに共通する部分もあるんだろうけど、いろんな年齢の子どもの価値観・行動基準を「いいとこどり」して組成されているのが「よつば」なんでしょうね。

 ぼくが保育園ですすめられて読んでいる雑誌「ちいさいなかま」にも、子どものこうした価値の転倒や独自の世界観を、日記風に漫画にしたものが載っていて大変愉しみにしているのですが(やまだりょうこ「育児いとをかし…」)、そうしたものと『よつばと!』が明らかに違うのは、その「価値の転倒や独自の世界観」だけを抜き出して、別の言い方をすれば、新聞や雑誌に載る「うちのコの面白い言動」的投稿の選りすぐりのものだけを抽出して、それに創作としてのデフォルメと心地よさを与えて、まったく見事な作品に仕上げているというのが『よつばと!』なわけです。

 2巻に、よつばがテレビでみたハードボイルド映画に影響されて、水鉄砲で隣家に乗り込んでいく話があります。
 とうちゃんとジャンボを「殺した」あと、突然「だれにころされたー!!」と被害者目線になったかと思うと、「死にかけた」ジャンボが「かならず生きて帰れ…」と虫の息で諭すのに対して「わかった しんでも…いきてかえる」と絶対矛盾の返答をするのがたまらなく可笑しいエピソードです。
 隣家を「皆殺し」にして、あとは携帯電話をかけている長女のあさぎを残すのみとなったところで、「残弾」(水)が切れ、あさぎは危機を免れます。緊迫が一瞬ほどけるのですが、よつばはすぐに「弾丸」を補填(給水)し、ふたたびあさぎに危機がおとずれます。
 しかし、あさぎは携帯での会話をゆっくりと終えながら、余裕の表情でよつばの手をたたいて、水鉄砲をはたき落とします。
 そして銃を拾うや、よつばにつきつけながら、

「バイバイ 小さな殺し屋さん

と映画さながらのセリフでよつばを「殺す」のです。
 子どもの日常であることを離れず、あたかもアクション映画であるかのような小さな緊張感と雰囲気を画面に残すという意味で、みごとな完成度になっています。

 子育て世代のなかで、というかぼくの保育園の父母の間では、この漫画はまったく知られていません(まあ、漫画自体読まない父母が多いのですが)。「子育て層が読む漫画」としてもっとそこに浸透してもいいと思うのになあと改めて思った今日この頃です。

 こうした「読み」自体はそれほど珍しいものではないかもしれません。アマゾンのカスタマーズレビューを拝見すると、この漫画を「子育て漫画」だというふうに受け取っている層は、一定数たしかに存在します。しかし、ぼくはつい最近までその視点でこの漫画を読めなかったのです。

 自分の「読み」が数年前、いや1年前とは大きく変わっていることを実感しました(ヒマな人は、下記のぼくのレビューと比べてみてください)。それはこの漫画の味わい深さかもしれませんが、同時に読み手の成長によって大きな変化をこうむる、一つの典型的なケースだということができるかもしれません。