ヤマザキマリ『テルマエ・ロマエ』

 『ドラえもん』の「ホラふき御先祖」は、小学生だったぼくらの間で登下校のときに何度も話題にのぼったエピソードだった。
 どこがそんなに気に入ったのかといえば、のび太がタイムマシンで自分の先祖を現代につれてきたとき、自動車を「鉄のイノシシ」だと言ったり、ガスを魔法だと騒いだりするのが子ども心をくすぐるのだ。
 それは多分「未開人を文明社会に連れてきて面白がる」という心性もあったんだろうと思うけども、「現代の技術を、客観的かつプリミティブに言い表すとどうなるか」という視線が刺激的だったんだろうと今になって考える。やはり子どもに届く、見事なSFである。

 『テルマエ・ロマエ』は古代ローマの浴場設計技師のルシウスが、現代日本の風呂へタイムスリップしてしまう物語である。

 

 


 公衆浴場、個別の浴場、露天風呂……とエピソードごとにルシウスは設計にゆきづまり、そのたびに現代日本のふさわしい場所へタイムスリップするのである。

 オビに〈古代ローマの男、現代日本の風呂へタイムスリップ!!〉とあるので、風呂の設計をかなり専門技術的な立場から比較文化論的に考えるような話かなと思ったのだが、全然ちがった。いい意味で裏切られたかっこうである。

 第1話では、マンネリで古臭いと批判されたルシウスは公衆浴場の設計に悩み、日本の先頭にタイムスリップする。
 そこで銭湯の広さとか、設計についてのウンチクでも語られるのかなと思って読むのだが、ルシウス(=作者)が注目したのは「ペンキ絵」と「フルーツ牛乳」「脱衣籠」なのであった。

 たしかに銭湯文化の粋を抜き出すとするとこんなふうになるかもしれない。
 フルーツ牛乳を「果汁入り牛の乳飲料」として再現している様子が、下校時に、「ホラふき御先祖」を話題にしながら「テレビは昔の人が見たらどうみえる?」「箱に人が入ってしゃべっていると思うだろう」とか話しながら帰った感覚によく似ている。
 馬鹿馬鹿しく思えるのは、わざわざフルーツ牛乳の「紙のフタ」や「透明な牛乳瓶」までも再現しようとしているルシウスの態度だ。しかも十分に再現できずに悩むというのは二重に馬鹿馬鹿しい。
 そういえば古代ローマにはガラス技術があったのかなと余計なことを思ったりもしたが、「ローマングラス」としてかなり有名なものだったらしい。

 

 「今日は暑いな… これもう少しだけ冷えてたら最高なのになァ」と風呂上がりに「果汁入り牛の乳飲料」を飲む、ルシウスの友人。ルシウスは「一応地下水で冷やしてはいるのだが…」と悔しそうにつぶやきつつ「なぜあの世界ではこの飲み物はあんなに冷えていたのか…」と内語する様が「ホラふき御先祖」的で愉快である。
 「馬鹿馬鹿しく思える」と今書いたものの、フルーツ牛乳フルーツ牛乳たらしめているものは、やはりあの透明な瓶に、乳白色に濁った果汁の色が冷たそうに提示されている、あの感覚だろう。それこそが「風呂上がりのフルーツ牛乳」の本質だといえる。
 そう考えるとルシウスが、「果汁入り牛の乳飲料」の容器を陶器にせず、あくまでガラスにこだわり(その結果うまくつくれず)、冷たさに固執した(その結果うまく冷えなかった)のは、技術的本質を追究したといえるのかもしれない。

 「家の風呂に入りながらテレビが見られる」という技術をどうやって古代ローマ風に変換するのかというのは、興味深いところであるが、そのときルシウスが偶然見た「クラゲの泳いでいる様子を伝える番組」を「ガラスの水槽にクラゲを泳がせている」と“翻訳”したのは上手いと思った(しかもテレビの音が偶然出ていないことにしてある)。
 技術思想を変換するのではなく、番組内容そのものを変換してしまうというわけで、たしかにテレビがまったく理解できない人にはこういうふうに見てしまうだろうという説得力があった。それに「風呂に入りながらクラゲを眺める」というのは何だかリラックスできそうではないか。

 このように、現代日本の風呂場にみられる、セコい現代技術(シャンプーハットとか折りたたみ式風呂フタ)や浴場文化(フルーツ牛乳や温泉卵)をどう原始的技術で置き換えるか? と考える「ホラふき御先祖」的楽しさが、この作品にはある。

 ちなみに、「テルマエ」とはラテン語で「浴場」のことらしく、「ロマエ」はローマのことだから「ローマの風呂」という意味のタイトルになる。「ローマの風呂」と聞けば「ローマ風呂」を思い出すのがぼくらの世代というもので、高度経済成長センス=西洋への憧憬とキャッチアップを追求するセンスがなつかしい。

 

 本書には作者ヤマザキの「ローマ&風呂、わが愛」というコラムが5本載っている。どれも日本文化としての風呂の心地よさと、古代ローマ人の風呂好きのウンチクが書かれているのだが、「ローマ風呂」というものは、こうした日本人の風呂好き文化に「古代ローマ」をとりこみ「豪奢」なものとして独自解釈をほどこしたといえるから、まさに本作の「テルマエ・ロマエ」というタイトルは高度経済成長センスとしての「ローマ風呂」と訳すのが正しいといえよう。