『難解な本を読む技術』

難解な本を読む技術 (光文社新書)
 挫折したあの本も、この本も、きっとこれを読めば秘伝的な技術が会得できるにちがないない! と思わしめるタイトルだ。何しろ『難解な本を読む技術』というのであるから。

 しかし、そのような秘伝的テクニックが本書を読んでも得られるわけではない

 本書では、読書を「登山」にたとえている。その顰にならえば、渋谷に散歩にでもいくような恰好で冬の乗鞍に登山しようとしている人に、「もしもし。冬山に登るには、こういう装備とこういう基礎トレーニングが必要なんですよ」と教えるような本である。

 著者=高田明典は、その冬山登山に必要な装備をいちいちあげていく。冬山ではどんな困難があるのかをいちいち挙げていくのだ。同時に、それに耐えるには、平地でまずこんなトレーニングが必要ですよとも教えてくれる。
 それを読んで、渋谷に行くような恰好で冬の乗鞍に行こうとしていた人はびっくりするのだ。ああ、なんと私たちは軽率だったのだろう。遭難必至ではないか、などと。まあ、半分くらいこれで振り落とされるんじゃないかとぼくなどは勝手に思う。特に「読書ノートをつくれ」という本書のポイントは、かなりハードルが高いだろう。ぼくは読書人生のなかでこれをやったのは、学生時代の一時期だけで(今でもそのノートが残っているのは『資本論』第一部のみだ)、結局習慣として定着しなかった。今やれといわれたら、かなりの覚悟を必要とする難解本に対してといっても、とてもつくる気にはなれない。

 そして、冬山登山にはかくかくしかじかの装備が必要で、基礎トレが要る、とわかったとする。しかし、装備を実際に買いそろえ、基礎トレを実際にこなし、登山におもむくまでにいたるにはかなりのハードルと覚悟が要る。
 それは本書の本体部分ではおこなわれていない。

 本書本体は5章からなる。うち、最後の第5章は「さらに高度な本読み」というタイトルにあるとおり、「上級者」編である。つまり1〜4章までが本体部分になるのだが、これはすべてのページ数280ページ近くあるうちの、100ページほどでしかない。あとの部分はこの上級者編と、「付録」にあてられれている。「付録2」では実際に難解本を読み説いてみているのだが、これがかなりのスペースを使っているのである。

 冬山登山の実際の基礎トレにあたるものをやってみているのは、この「付録2」の部分である。とくに、ラカンの『エクリ』を読む部分は難解きわまる。この難しさを解きほぐすはずの高田の解説をていねいに読んでいっても、わかる気がしないのである。そして「何のためにこんな難しい本を読まねばならぬのか」という問いを絶えず引き起こし、難解な本の読破をあきらめさせるには十分ハードな基礎トレであろうとぼくは考える。

 第1章「基本的な考え方」では、本の種類を分ける。たとえば「登山型」の本と「ハイキング型」の本を分け、一つひとつ積み重ねて結論にいたる前者だと思って後者を読むとえらい目にあいますよ、として、まずその見極めを教える。といってもそういう違いがありますよ、というだけで、一体今から自分が読もうと思っている本がどちらにあたるのかは簡単にわかるものではない。

 第2章「準備」では、本屋の棚を見て、手にとってパラパラと眺めるという技術や、ネット検索でおおまかなことをつかむことについて教える。本屋の棚を眺める、関連するタイトルを次々手に取る、というのはまさにぼくもやることだ。しかし、この方法は、「古典」と呼ばれるタイプの難解本ではなく、たとえば「農業構造改革」といったようなテーマを今から調べたい、というときにやる方法なのだとぼくは思う。ネット検索はかなり有効だが、これはかなりの時間を割かないとおぼろげにでも今からあたろうとしている古典でどんなことが問題になっているのかはなかなかつかめない、と思う。

 第3章「本読みの方法(1) 一度目:通読」では、いよいよ読書ノートの作り方を指南する。うーん、要は章節ごとに内容を自分の頭でまとめてみろ、ということではないだろうか。たしかにこれは必要だ。
 しかし、後でみるとわかるけど、古典の1行目からもうわからない、というような人は章や節で読み進めるのさえキツいと思う。この本で紹介されているスピノザの『エチカ』では、本文冒頭はこうである。

一 自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられないもの、と解する。(p.37、岩波文庫版)

 いい加減にしてくれ、と言いたくなる文章だろ? いいわ、もうどうにでもして、という気になってくるのではないか?

 第4章「本読みの方法(2) 二度目:詳細読み」では、つまづいてしまう原因・パターンをいくつかにわけて考えている。用語の理解が不十分なとき、論理関係の理解が不十分であるとき…などといった感じだ。
 しかし、では『エチカ』を定義一だけでなく、定義二、三、四まで紹介してみよう。

二 同じ本性の他のものによって限定されうるものは自己の類において有限であるといわれる。例えばある物体は、我々が常により大なる他の物体を考えるがゆえに、有限であると言われる。同様にある思想は他の思想によって限定される。これに反して物体が思想によって限定されたり思想が物体によって限定されたりすることはない。
三 実体とはそれ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するのに他のものの概念を必要としないもの、と解する。
四 属性とは、知性が実体について本質を構成していると知覚するもの、と解する。(同前)

 用語も論理関係も不十分ではないかと不安を起こすのに十分な難解さだ。これを自分だけの詳細読みで解いていくのは不可能だと思うはずである。

 ここまで書いてきて思うのは、高田のいう技術につきあった場合、次のような困難が訪れる、ということだ。

(1) これほどまで苦労してなぜその難解な本を読むのか、という動機にたえず応えられる本でなくてはならないということ。
たしかに高田は、

自分とはあまり関係のない問題について書かれている本の内容を理解することは、容易ではありません。端的にいうと、それはつまらない作業であり、長い時間集中して続けることが難しくなりますし、たとえ読み続けたとしても理解の度合いは低いものとならざるを得ません。(p.54)

といっているけども、本書で想定されているような思想書の場合、自分の興味を引き付けていられ続けるようなことは想像しにくいのが普通ではないか。『エチカ』や『エクリ』のようなものをどうやって「自分と関係のある問題」にできるのか。そのことをまず教えてほしいと言いたい。

(2) 用語や対象本が想定している問題意識を共有する、つまり解説書やあらかじめの解説(教科書などをふくめ)がないとノートを進めることすらできない。
 本書では、ラカンの『エクリ』の議論がフロイトを意識していることを述べている。ぼくの領域でいえば、マルクスは『資本論』のサブタイトルを「経済学批判」としたように、それまでの経済学者たちの学説が念頭にある。だから「価値」といってもぼくらが日常につかう「値打ち」ではなく、独特の意味を持っていることを知らないと話にならない。
 つまりは、授業や講義などでこうしたことがまずは共有されていることが出発点になる、とぼくは思うのだ。そうでない人は、いくら高田の本を読んでも難解な本を読めるものではない。

(3)どうしてもわからなければ「あきらめる」か「わかる人に聞け」という選択肢を用意しているということは、まさに後者は「学者」「先輩院生」「先輩学生」を想定しているというほかない。

 結局この本は、大学のゼミに配属された学部学生とか、院生のような人たちを想定しているのだ、とぼくは思う。講義で出発点が共有されているし、教授や先輩院生などといったリソースが利用できる人でこそ「難解な本」は読めるのだ、と言っているわけである。別の言い方をすれば、本書はまさにそのような学部学生や院生のための本でしかない、ということだ。

 ぼく流の「難解な本を読む技術」を考えてみる。それは『理論劇画 マルクス資本論』で少しのべたことだけども、ぼくとしては、まず「良い解説本を探してくる」というのが、第一の作業ということになる。
 『資本論』のような本の場合は、かなりそうした本が出回っているので、なんとかなると思うのだが、学者が書いたクソ難しい「解説」本が2、3点、というような現状の古典難解本の場合はまあ早い話が絶望的だ。

 ぼくのような一般人が「難解な本」を読もうと思えば、良質の解説本もしくは良質の解説者が身近にいないと無理だということ。まあマルクス主義の分野では、解説本や「労働学校」のようなものがかなりつくられてきたのだが…。

 ひょっとしてもうあるかもしれないけど、古典ごとに人力で回答してくれるようなサイトや掲示板があると役立つ。でもダメな院生や教員が来ても、初心者には何言っているのかわからないんだよね。結局「ググれカス」とか「あなたはなんでも教えてもらう気なのか」とかいう説教を聞く羽目になるんだから。