ささやななえ・椎名篤子『凍りついた瞳』

凍りついた瞳 (YOU漫画文庫) ここに移転する前のぼくのサイトの、わりと初めの方に本書の名前が出てくる。このマンガを最初に読んだのは今から15年も前のことだ。児童虐待の統計は1990年前後からようやく始まったことからもわかるように、15年前といえば、ようやく児童虐待というものが世の中に知られ始めたばかりだった。*1
 本書のタイトル『凍りついた瞳』は、虐待をうけた子どもに特徴的な表情だ。それが示すものは「虐待をうけた子どもとはこういうものですよ」という啓蒙である。虐待というものがどんなものか知られていない時代に虐待とは何か、という初歩的な知識を多くの人、とりわけ女性漫画誌「YOU」の読者層に知ってもらおうという狙いがあった。


 裏返せば、すでに「児童虐待」というものがどんなものであるか、嫌というほどに連日報道されている今日、もはや本書の役割は終わったのではないか、と思っていた。

自分は一体15年前、何を読んでいたのか

 そう思って、十年以上ぶりに本書を開いてみたのだが、その認識が甘かったことを思い知らされた。15年前一体自分はこの本の何を見ていたのだろう、と思うほどだった。

 というのも、冒頭の短編「誰も助けられなかった」が最も典型的であるが、全体が児童虐待問題における、ケースワーク主義と介入主義の息もつまるような激しいせめぎ合いが背景に描かれることで、「なぜ子どもが虐待家庭の牢獄に閉じこめられ、容易に助け出せないか」という問題をあぶり出しているからである。

 乱暴に要約すれば、ケースワーク主義は、いわば親との関係を重視し、親との信頼関係を福祉行政側がつくることで、親の行動自身を治して家族再統合を果たさせる思想と行動である。これに対して介入主義は、極端にいえばたとえ親との関係がどうなろうとも、子どもの安全を守るとされる行動を最優先にとる思想と行動である。90年代後半から強まるのは後者の流れであるが、児童虐待対策の現場では前者が依然ベースになっている。
 もちろん、根本的には両者は対立するものではない。きれいごと、あるいは原理的にいえば、ふだんはケースワーク主義で臨むけども、本当に危ういとなれば積極的に介入する、というのが建前である。
 しかし、現場はなかなかそう単純ではない。
 その見切る地点がそもそも難しい上に、人手不足や専門性の欠如が、積極的な介入をためらわせてしまう、ということはよくある話だ。たしかに児童虐待防止法が2000年に成立するまでも、児童福祉法のなかに、このようなケースワーク主義と介入主義の両者を兼ね備えた条文は入っていた。だが、実際には前者の流れが強すぎて、子どもの命が救えない、という悲劇が相次いだのである。

 本書は、まさにそこを突くものになっている。

もどかしい児童相談所の対応

 第9話「それぞれにできること―前編―」では、あざだらけの子どもの写真を携えて一時保護を訴えた女医とケースワーカー児童相談所の思わぬ反応に遭う。

「虐待があったかなかったか
 もっとはっきりした証拠がないとなんとも……」

と、実に「煮え切らない」表情をした児童相談所職員が描写される。女医とケースワーカーにその話を聞いた男性医師が、

「そんなばかな!
 この写真が証拠じゃないですか!」

と憤るのは読者の叫びそのものだろう。一体、この児童相談所はどんな「はっきりした証拠」を欲しがっていたのだろう。「虐待します」とカメラに宣言して親が殴る蹴るをするビデオでもあれば納得したのだろうか。その男性医師は憤りをもって児相に電話するのだが「答は同じだった」。

 あきらめないこの男女の医師とケースワーカーの3人は、警察をその次に訪問する。そこでは、ただちにこれは立派な虐待であると判断し、「いますぐ親を逮捕したいくらいです」と同情をよせ、児相の説得も約束するのだった。

 児童相談所にまかせておいても子どもは救えないのではないか――読者はここまで読んではっきりとそういう不安を持つはずだ。
 こうした児童相談所の対応へのいらだちは、たとえば冒頭のエピソードにおいても登場する。継父の暴力に耐えきれなくなったといって保健師に相談にきたはずの母親が、警察などを前にすると次第に主張のトーンを変えてしまい、継父が子どもを虐待したと明確に意思表示しなくなる。

「しかし前回措置〔親子を分離して施設に入れること〕した時は
おかあさんが申したてたのに
そのおかあさんが連れだしているんですよ

もしまた措置したとしても
おとうさんが引きとってこいと言ったら
おかあさんはきっぱり断れますか?」

 つまり「対応できない」というのが児童相談所の回答だったのである。

ケースワーク主義の今日的意義

 話を第9話にもどそう。

 では、この第9話では、そのように警察の快諾を得たあと、すぐに憎たらしい親の逮捕劇に話がいくのかといえば、全くそうではない。
 物語は後編にうつり、虐待をしている親をじっくりと粘り強くカウンセリングし、信頼関係をつくりあげようとする医師や福祉関係者の姿が描かれるのである。読者であるぼくは、ごまかしたり感情をむき出しにしたりする親の変化にイライラしてくるが、この一進一退とも見える辛抱強いやりとりこそケースワーク主義の本領なのであろう。
 2年の歳月のなかで、虐待はしばしば再発するが、同時に親の変化もゆっくりゆっくり出始める。そのような変化にいたるまでに、最初にあげた病院の医師たちだけでなく、福祉施設の職員、保健師、近所の老人など様々な人々がかかわる様子が描かれる。

 後編は、ケースワーク主義とネットワークの凱歌ともいうべきもので、「虐待するようなトンデモ親からはさっさと引き離し、子どもは施設、親は刑務所」というような虐待対策観からはとうてい生まれ得ない認識であろう。

 本書には虐待時を救うための積極的な介入と行動の強い呼びかけとともに、虐待対策の根本であるケースワーク主義を理解させるうえで、貴重な叙述が多くある。前者への偏重がむしろ後者の重要性をかき消そうとしている今こそ、本書の価値はいよいよ輝くというべきであろう。

性的虐待を描くことの難しさ――ポルノ消費を防ぐ

 本書には性的虐待のケースも登場する。
 ぼくは自分のサイトでも常々書いてきたとおり、「インテリぶっているせいで、低俗なエロ雑誌に手を出せないでいるスケベオヤジの心の故郷」(荷宮和子)としての性的虐待事例のポルノ的消費という問題についていえば、本書は非常に抑制的に描かれている。
 性的虐待は4話と5話でテーマとなっているが、そうした関心と欲望を遮断するグラフィックはもちろん、筋の展開も慎重をきわめている。たとえば4話で母親が父親の娘への性的虐待を偶然発見してしまうシーンでは、母親の顔がシンボリックに崩れるコマが描かれるだけで、具体的な叙述は何一つない。そして物語の焦点を「どのような性的虐待があったか」というところではなく、性的虐待をうけた女性がどのような心の傷を負うか、という点に厳しく焦点をあてている。彼女が描く「自画像」や「木の絵」のいびつさなどが読む者の胸に残る。

続・凍りついた瞳 (YOU漫画文庫) この点からいうと、本書の続編である『続 凍りついた瞳』での性的虐待エピソードの記述は少々あやういものだった。虐待をうけた子どもたちが成長して手紙をよこしているという形式の『続』では、第1通「捨てられた家」や第3通「義父」、第5通「虐待が消える日」で性的虐待が描かれる。
 とりわけ第3通「義父」では、性的虐待の様子が「念入り」に描かれてしまう。
 ささやななえの絵はもともと欲望を搭載しうるようなものではない。にもかかわらず、性的虐待にいたるまでを多少具体的に描くだけであっと言う間にポルノ的な色彩がにじみ始めてしまうのである。
 無論、これら続編も実際の虐待を受けた人からの告発をもとに描かれているのだから、頭で考えて描いた物語とは根本的に意味が違うことがわかる。ささやの責任というよりも、性的虐待をポルノ的興味から遮断して描くこと一般の難しさである。
 加えて、福祉職員・医療関係者などの奮闘が焦点になっている本編(『凍りついた瞳』)にくらべ、『続』は虐待事実そのものに焦点があたっており、これはぼくが冒頭にのべた意味で、すでに歴史的な役割を終えつつあるものではないかと考える。虐待とはどういうものかを知らせるだけでは不十分である、ということだ。むしろ本編(『凍りついた瞳』)の方にこそ、ぼくは今日的価値があると思う。

*1:戦前にも「児童虐待防止法」というものがあったが、これは子どもを「見せ物」にするような虐待が対象。現在でも児童福祉法34条にその名残がある。