伊瀬カツラ・YOKO『オナニーマスター黒沢』

 高校のとき、クラスの一人が「マスター」と呼ばれていた。
 たしか修学旅行かなにかで、森の中でオナニーしに行ったかなにかで「マスターベーション・イン・ザ・ウッズ」とかなんとか言われて、その短縮形として「マスター」と呼ばれていたのだ。
 別にいじめとかじゃなくて、そのコはどちらかというと「スクールカースト」における上位に位置する存在で、武勇伝的な話、あるいはワイルドな自己演出としてとしてオナニーが語られ、「マスター」というのも日常的な呼び名ではなく、ときどきふざけて呼ばれていた程度の話だった。
 中高生にとってオナニーは話題の中心環である。
 いや、女子は逆にまったく触れない話題の一つだろうから、少なくとも男子にとっては。
 オナニーを軸に話題が形成され、オナニーを軸に人間関係が築かれるといっても過言ではない。いや過言か。
 でもまあとにかくオナニーっていうのは、いじめのネタにもなったり、親密さを表現する話題にもなったり、あるいは熱い関心事でもあったり、とにかく中高生男子の人間関係のうえでかなり重要な位置を占めている問題だとぼくは思う。

 『オナニーマスター黒沢』は、もともとウェブ小説である。それをそのあと漫画化したものがやはりウェブで始まった。そのとき一度ネット上で話題になり、ぼくも読んだのだが、まだ書き進めている途中だったので、それっきりになってしまっていた。
 ところが最近、ある編集者から「面白いですよ」とこの作品を紹介するメールが来たので、終わりまで読んでしまった。一気に。(小説版はまだ読んでいない。なので以下は漫画版を前提にした話である)

 

オナニーマスター黒沢
http://passionate.b.ribbon.to/onamas51.htm
(Web公開は2009年4月7日まで)

 主人公の男子中学生・黒沢翔(かける)は放課後に人が来ない第一校舎の3階にある女子トイレに入って、オナニーをすることが最高の日課になっている。クラスの女子の一部を「オカズ」にし、妄想のなかで蹂躙することがこの上ない悦びになっている。しかし、そこから出てくるのを、目立たなそうな、地味めの、ある女子(北原綾)に目撃されてしまう。

 北原は暗くて弱い印象があるので、いじめの標的になっている。
 クラス全体を巻き込んで北原をいじめる瞬間に出会ってしまった黒沢は心の内でひそかに憤り、「オナニー」を使って、いじめをしかけた女子グループに、ひとつの「制裁」を加えてやろうと決意する。
 その「制裁」の後、その「制裁」の主体が黒沢ではないかと目星をつけた北原は、黒沢に対しとんでもない脅迫的依頼をすることになるのだ。

 この漫画では、いじめ、人間関係をうまく築けない不器用さ、引きこもりといった問題が取り扱われていく。
 「学校」という空間のなかでぼくらがこうした関係にがんじがらめにされていることをしばしば感じるときがある。別のウェブ漫画「痴漢男」を読んだときにも強烈な印象があったが、他人の一挙手一投足に過剰な意味を見いだしてしまい、「空気」を読んでしまう。

 この漫画はその「人間関係の牢獄としての学校」からの解放をテーマとしている。そのど真ん中に「オナニー」をもってきた。
 オナニーこそ、(男子)中高生的人間関係の中心軸なのだ! オナニーをめぐる話題、そこから紡ぎ出される猥雑さは中高生的な人間関係を濃厚に象徴する。これを中心モチーフとすることによって、「いじめへの復讐」というある意味で陳腐なテーマもたちまちのうちに、「生臭さ」(イカ臭さ)を獲得する。

(以下、多少ネタバレがあります)

 この漫画は「自分を変える」ということが解答になっている。抑圧からの解放は社会変革ではなく、自己変革なのである。
 いじめだけでなく、引きこもりについても、それは「自分を変え」、外に踏み出して人間関係に向き合う「勇気」を呼びかける。

 いや、こう書くと読んでいない人は、そんな道徳漫画みたいな話なのかよ、と思うかもしれないが、いまぼくが述べたような展開は全30章のうち26章あたりからのものであり、いわば物語がそこに向って収斂していくために読後にぼくが抱いた印象にすぎない。

 物語の多くの部分は、黒沢のオナニー妄想のなかでのライト・エロ描写を核心にして、復讐劇がどのように遂げられていくかを「楽しむ」エンターテイメントである。いやーだからぼくみたいなオタクとしては十分楽しいわけなんだよね。

 そのことをおことわりしつつ、学校という人間関係の地獄から、「自己変革」によって解放していくということを結論としている問題を見ていこう。

 本作でも、ラストで引きこもっていた北原が、黒沢の系統的な働きかけによって外の世界へ一歩足を踏み出すという展開は、ぼくも含めて紡いできた妄想である。そこでは、自分の働きかけで世界が変わるというふうに世界ががとらえられ、また、北原自身に対しても世界へ一歩を踏み出すよう「自分を変える」ことが求められている。

 また、黒沢は人間関係をごまかさず、自分から「死地」にとびこんでフルボッコにされる展開がある。
 痛めつけられる黒沢の姿は、悲惨ではあるが、おそらくこれこそが現代的な意味で最も「正しく美しい姿」だといえる。自分で十字架を背負って刑場に行き石もて追われるキリストの姿とさえいえる。

 もう一つことわっておくが、この漫画は「自分を変えよ」という直接的なメッセージを含んでいるわけではない。しかし、自分を変えることで抑圧からの解放を遂げようとするカタルシスへの展開が、どうしても「変わろう!」というメッセージ性をぼくに感じさせてしまう。

 「自分を変えることで世界が変わる」というのは、セカイ系を支える思想である。それはまた、世界を変えるすべをもたない中高生の世界観でもある。

 この殉教的な姿は、しかし、「自己責任」論のすぐ隣にある。
 「自己を変えざる者」への厳しい視線へと容易に転化するのではないかといつも不安になる。
 いじめを描いた、すえのぶけいこ『ライフ』についてぼくは感想を書いたことがあるが(拙著『オタクコミュニスト超絶マンガ評論』所収)、自分をがんじがらめにしている人間関係からの「解放」はそこから「逃げる」あるいは「ズレる」ことではなく、自分が「強い自分」と変化することで解放されることなのだとしばしば結論づけられる。

 自分や他人を変えるということはとても大変なことなのだ。

 なのに、この物語は「簡単に」自分と他人をかえすぎてしまう。あれだけの大事件をおこしながら、同窓会にきちんと居場所があるまでにクラスの人間関係が回復されるということは、現実にはにわかに信じがたいことである。あるいは、自分が系統的に働きかけることで、「引きこもり」の他者を「解放」できるというのは、前述の通り妄想、もしくは妄想に近いものがある。

 実はぼくは高校時代、リアルでそういう「働きかけ」をしたことがある。別にそのコはいじめを受けていたわけでもなんでもないのだが。それを思い出すと身悶えしたくなる。
 働きかけること自体がアレなのではなくて、自分の働きかけで他人と世界が変わるという思い込みが恥ずかしいのだ。対象の中に育っているエネルギーとか不満とか可能性とかそういうものがその対象自身を変えるのであって外からの働きかけというものは偶然的なものか、外在的なものでしかない。

 それだけではない。
 図書館で無茶苦茶かわいい娘(滝川)と親しくなる。図書館で文芸的美少女と親しくなるって……どんだけ俺っぽい妄想なんだ。お前は俺ですか?

 さらに。
 あんだけひどいいじめをしていた須川という女を、後にツンデレという属性に変換し直してしまい、黒沢にその女を彼女としてゲットさせてしまうのだからびっくりだ。

 あと、前述した通り妄想のなかでのエロ描写も含めて、つまり、何から何まで居心地のいい要素と、居心地のいい結末に囲まれているのがこの漫画なのだ。

オナニーマスター黒沢』完結に寄せて − 低能水死体
http://d.hatena.ne.jp/krus/20080401/

 このレビューでいわれている通り、〈「オナニーマスター黒沢」とは、ただ「(実際の行為としての)オナニーのマスター」というだけでなく、このひどくご都合主義的で妄想的で「オナニー的」であるという意味での「オナニーのマスター」でもあります〉。

 だからといって、この作品が面白くないわけではない。
 ライターの藤井誠二が『ライフ』についてコメントしたとき、前述のように、自己変革といういじめ解決法について批判的な目線があることを紹介しつつも、でも『ライフ』が面白かったということを言っていた(藤井『学校は死に場所じゃない』)。ぼくが『ライフ』についてたどりついた結論も同じであった。

 そしてこの『オナニーマスター黒沢』もやはり同じような感想を持つ。
 ホラ、体に悪いものっておいしいじゃないですか。「こんなものこんなに食べたらダメだ」とか思いながらポテチとかショートケーキとか食べるのって、おいしくてたまりません。それってオナニーの禁忌感に似てるでしょう?

 最後に絵についてなんだが、普通に描いている分は十分に雰囲気もあってぼく好みなのに、彩色するとなんであんなにダメになってしまうんだ?