きづきあきら+サトウナンキ 『セックスなんか興味ない』

 セックスにまつわる9つのエピソードが収録されている。1巻ってことはさらに出るんだろうな。期待。同じ作者の『うそつきパラドクス』(白泉社)も非常によかった。きづき+サトウがセックスの話を描こうとしている時期なんだろうか。そうだとすると嬉しいな。ああ、セックスの話が読みたい、見たい。

 

 

 本書裏表紙に曰く、〈本当は、いつも、心のどこかで、みんな、セックスのことを考えている〉。あったり前じゃないか! でもうちの職場とか保育園関係者とか、町内会関係者とか全然そんなそぶり見せないんだよ。ホントに。脳のうち8割はセックスのことをぼくは考えておるというのに……。猥談だってそれが無頼を気取るつもりでやる男がいるわけだが、そうじゃなくて本当にエロい話がしたいんだよ、俺は。

 なんか清純な話じゃなくて、セックスで落としてくれる話を今読みたい。お嬢様女子高に行くことになった主人公の清純な恋の物語、谷川史子『清々と』(少年画報社)を読んでいても、「で、セックスはしないのかよ」とか邪悪な観念がよぎる。「後城先生と校長先生がヤッちゃえばいいのに!」とか思うぼくをどうか誰か殴ってください。

 本書のうち、同僚とセックスしてしまうepisode2「黒沢君の、カサ」、保育園の保育士とセックスしてしまうepisode5「えっちゃんの、似顔絵」、女性上司のセックスドールに遭遇する「恋愛人形」が特によかった。
 べ、別に同僚や保育士や女性上司とセ、セ、セックスしたいんじゃないんだからね!

 episode5「えっちゃんの、似顔絵」は、惜しい短編である。
 園児の親が離婚してしまい、その父親が子どもの様子を確かめに園にこっそりと現れたのをきっかけにして、保育士の「すーちゃん先生」は、次第にその父親に惹かれていってしまう。
 子どもの様子を伝え激励するということを口実に、父親と飲み会を重ねるのだった。

 父親と娘は会えないままだが、距離が少しずつ縮まっていくかのように物語は進行していくのだが、あるときそれがただの勘違いにもとづくものであったことを「すーちゃん先生」は知ってしまう。

 「すーちゃん先生」は父親を慰めるためにセックスするのだが、父親も〈俺はずっと……先生とこうなりたいと思ってました〉とセックスしながら告白する。しかしそうはいいながら、父親は先生との関係を隠そうとしたりして、「すーちゃん先生」は違和感を抱き続けるのだった。

 父親は娘との関係を独りで突っ走って勝手に妄想しているだけだったのだが、「すーちゃん先生」は父親にいったん冷めた感じの印象を抱くものの、喫茶店に呼び出されて遠くから父親の横顔を見ているうちに次のような感情を持つようになるのだった。

〈別に、だまされてても、いいんだけど。

 ああ、楽しそうだなあ。

 彼の都合のいい妄想の中身を想像したら、
 私も少し楽しくなってきた。
 前にも後にも動かないつま先に、
 「動け動け」と念じてみる。〉

 「惜しい短編」だというのは、このラストが何を意味しているのかがよくわからないからである。もしすべての事情をのみこんだうえで、それでも父親との逢瀬になにがしかの楽しさを感じているのだとすれば、もっとページ数を割いてそのことをじっくり伝えてほしかったからである。逆であるならば、とてもわかりにくい描き方だなあと思った。

 保育士と父親というのは、普通はそこに性的な感情や関係がなかなか入り込みにくいものだと思うのだが、逆にその盲点をつくことで、漫画としては面白いものに仕上げやすい。本作では、「子どもの状況の連絡をこっそりとりあうことで親密化する」という搦め手でやってきた。そこまではうまくできたと思うのだが、どうもページ数が足りないような印象をうけた。上下にわけて十分なページ数で描けばもっと深みが出たはずである。

 ぼくがこれをエロいと思ったのは、いろいろ考えてみたんだが「ちっちゃな子どもを慰めるように大人の男を慰める」というそのシチュエーションだろうと思い至った。

 「慰める」とか「慰めてあげる」というのはぼくにとってクラクラするようなセックスの概念で、金銭や強制が介在すると全然ダメなのだが、自発性にもとづいてこういうセックスを「される」という感覚がもうたまらないという感じなのだ。
 ぼくが医者にいって治療を受けるのが「好き」なのは、「癒され」て「慰められる」感覚があるからだと前に書いたことがあるのだが、似たセンスである。この前、またもや耳の医者で耳をいじってもらった時、本気でヨダレが垂れそうでヤヴァかった。