乙ひより『かわいいあなた』 森島明子『半熟女子』

 『純水アドレッセンス』を読んで以来、女性の同性愛、いわゆる「百合」モノばかり読んでいる。

 最近の少女漫画を読みはするけども、一部のものを除いて、全般的にいえばどうにも気持ちを乗せることができない自分がそこにいた。
 ところが『純水アドレッセンス』には実にすんなりと気持ちを入り込ませ、その作品世界を堪能することができる自分がいたのだ。
 なぜだろうか、と自分でも不思議に思った。

 『純水アドレッセンス』は高校の養護教諭である松本律子と、保健委員長である女子高生・奥村ななおの恋愛、およびその周辺の恋愛を描いたもので、ななおのまっすぐにすぎる松本への思いと、それを大人の態度で翻弄しようとしつつななおの激情に逆に自分の「オトナの態度」を転覆させられてしまう物語である。
 松本の「オトナの理性」をも解体してしまう、ななおのピュアさにぼくらは心を動かされる。それは「純粋」というよりも、作者のかずまこをのグラフィックも手伝って透明感のある美しさをもった「純水」という形容の方がたしかにしっくりくる。

 もしこれを異性同士——たとえば女性教師と男子高校生にしたり、男性教師と女子高生にすると、エロさは発生するけども、およそ「純水」とか「アドレッセンス(青春、思春期)」と呼ぶような美しさを生み出すことは(できなくはないだろうが)至難となる。

 女性同士であるがゆえに、ぼくは様々な雑念をとりはらってこの物語を味わうことができたのだろうなあと考えるほかなかった。
 『純水アドレッセンス』については機会があれば、どこかの紙媒体の方で内容そのものに立ち入ってもう少しくわしく論じてみたい。

 冒頭の自問に戻ると、なぜ最近の少女漫画に気持ちを乗せることができず、百合系の漫画にはそれができたのだろうか。

 以前別の機会にそのことを考え、それについて書いたことはあるけども、その暫定的な答えは、おそらくこうではないかと思う。

 やはり異性同士であると、どうしても現実のいろんな雑念が読者であるぼくを襲うからではないかということだ。たとえば自分の過去の恋愛とどうしても比べてしまう。そうなると、ぴったりと波長が合うものはいいけども、合わないものが増えるということになる。河原和音青空エール』を読んで爽やか前向きの男子高校生・山田君なんかに出会っても「こんなやついねーよ」としか思えなくなってしまうのだ。
 ところが女性×女性という組み合わせになったとたんにこの雑念から解放される。禁断とかピュアとかいうことを、まったく新鮮な枠組みとして感じ取ることができるのだ。
 エロ系の百合作品でも、「相手を気遣ってやさしくセックスする」という調子がそのまま伝わってくる。異性同士だとどうしてもどちらかが「奉仕」するという感覚がぼくには残ってしまう。あ、誤解のないように言っておけば、ぼくは「奉仕」するセックスの話がただちに「いけない」と言っているのではない。読み手としてその印象の枠組みからなかなか逃れられない窮屈さについて述べているだけのことなのだ。
 また、百合であればいついかなるときもこうしたものを感じられるわけでもない。たとえば『少女セクト』なんかは、絵柄のエロさはよかったけども、物語としてはピンとこなかった。お前の性的嗜好はどうでもいいって? ああそう。
 

 今回感想をのべてみたいのは乙ひより『かわいいあなた』と森島明子『半熟女子』の2作である。いずれも女性の同性愛をモチーフにしている。このジャンルはもっと奥が深いのだろうけど、とりあえず手にしたもののうち、心に残ったこの2作について感想を書き留めておく。

 『かわいいあなた』は短編集だ。

 

 


 冒頭の短編「Maple Love」は、女子大生である主人公・里中楓が同じ大学の、まったく見ず知らずの、そして造形的にかわいい、しかも人なつこい女子大生・宮路エリカになぜかなつかれて、なし崩し的に恋人になっていってしまう物語である。
 描かれているのは、どうということもない大学生活の日常だ。ぼくは「面白い」という形容をこの短編に施すことはできないけども、読んでいて妙な居心地のよさを感じる。それはなぜだろうかとやはり考える。
 かわいくて人なつこい女の子が、一方的にぼくに好意を持ち続ける、という場面を想像するからだろうか。
 里中の方は、最初迷惑そうである。だって同性愛の経験なんてないんだから。
 迷惑そうに宮路を拒みカタい対応に終始している里中の姿は、たぶん「かわいい女の子への自分の好意を隠そうとしているぼく」に重なるのだろうと思う。どうしたらそんなふうに読めるんだ、と思うかもしれないが、ぼくは明らかにこの短編を読みながら、「映画のチケットあるんだ〜! 一緒に行こ〜」「弁当もってきたよ〜」「今日おべんと作ってきたんだ〜! 一緒に食べよ〜」とニコニコと毎日近寄ってくる宮路になつかれることを欲望している。

 これは『青い花』を読んだときと同じ気持ちである。
 物語本体の文脈を離れて、男性読者であるぼくは「好意を寄せられる自分」をそこに見ている。
 だから、里中と宮路がいっしょに合コンに行き、お酒も飲まないのに赤い顔をしている宮路をみて、このコは風邪をひいているんだ、と里中は静かに気づき、みんなの面前で額に手をあたて熱を測り、いきなり手を引いて店から出てしまうシーンは、本当なら里中の宮路への真情に気づく瞬間と意味付けられるんだけども、それはぼくにしてみればぼくが宮路に愛を告白する瞬間のように思えた。

 もし登場人物が異性同士であった場合は、これほど自由な読みは期待できなかっただろう。

 『半熟女子』は、男の子になりたかったけども可愛らしい髪、低い背、大きな胸といった、社会的に規定された「女性的」な特徴ばかり供えてしまった自分を好きになれない女子高生佐倉八重と、ショートカット・長身で颯爽としておりそんな八重をやさしく受け止める同級生の早水ちとせとの恋愛、そして同じ女子校の女性教師・江戸川蘭とやはり「オトコ遊び」に励む女子高生・華嶋マリとの恋愛を描いた作品である。

 

 

 やっぱりぼくがこの作品で惹かれたのはセックスシーンである。
 いや、やっぱりここでも、セックスシーン自体はそんなに多くないし、別に「過激」でもないけどね。

〈ちとせはわたしがこわがらないように
 私がちとせにした後で
 そっと同じことをしてくれる
 ちとせのやさしさを心で感じると…
 体が… もっと反応する〉

というセックスにおける気遣いが、打算や、相手を道具視する感覚を引き起こさせることなく、そのまま相手に対する優しさとして、そしてその優しさが引き起こす性的な快楽として、ぼくの中に入ってくる(しつこいようだけど、打算や道具視するセックスがいつでもいけないとか面白くないとぼくが考えているわけじゃないからね)。

 他方でマリと江戸川のセックスは、

〈ねえ マリはどんな風にされる方がいい? 教えて〉
〈中に入れてほしいかな〉
〈指を? こう〉
〈そう そのまま深くに… 奥のほう〉

という具合に、相手を道具のようにして自分の快楽を高めている。〈だから!〉〈愛し合ってはいないんです〉とキッパリ言う2人であるが、相手を道具のように悦ばせようという気持ちがこれまたピュアに伝わってきて、これはこれで別の快楽をぼくに惹起させる。
 いやこれただの普通のヘテロセクシュアルのポルノと変わらないじゃん、というツッコミも当然あるわけだけど、やっぱり女性同士であることが読み手であるぼくを様々な制約から解き放っている。加えて、青木光恵を思い起こさせる丸みを帯びた描線が、ぼくには肉感的だった。

 こういう読みが標準なのかどうなのかよく知らないけども、男性欲望的にみて百合ってつくづくいいなと思った。ところが市場がそれほど大きくないせいか、書店では新刊以外は消えるのが早い。もし過去の百合作品でこれはオススメというものがあればだれか教えてほしい。