「ちいさいなかま」

 ぼくは、保育園で「ちいさいなかま」という雑誌をとっている。全国保育団体連絡会(全保連)が編集している雑誌で、保育士と父母にむけて月刊で出されている。
http://www.hoiku-zenhoren.org/

 この雑誌がいい。
 ぼくがこの雑誌の一番気に入っているところは、全国各地の読者(父母、保育士、元保育士)の短い投稿がたくさん載っていて、自分の園ではあたり前と思っていたことがいい意味で打ち砕かれるのが爽快なのである。

読者投稿欄で自分の体験を相対化できる

 たとえば、保護者会の総会。ぼくの通っている園だと70世帯くらいの家庭のうち、5〜60世帯は参加する。ところが「ちいさいなかま」を読むと

先日、保育園の後援会と保護者会の総会がありました。なんと、出席者は七名。前半の後援会総会は、保育士も集まるのでまあまあの数でしたが、その後の保護者会総会はガラ〜ンでした。役員すら集まっていない状況なのです。世帯数は六〇を超える園で出席者が七名とはどういうことでしょう? 出席者は年々少なくなっています。

というような報告があるのだ。
 7人て。どう間違ったらそんなことになるのか。……と書きたくなるが、よく考えると自分の園でなんでそんなに出席率が高いのか、逆に頭が混乱しだして、わからなくなってきてしまうのである。ぼくの通う保育園父母会の総会もそんなに面白いもんじゃないし。

 あるいは、

保護者会の役員を決める時期ですが、大阪市は保護者会の活動を原則として認めていないそうです。

などいう投稿に驚いてしまう。ええっ、行政が否定しているの!? ホントかよ。こうした状況は、福岡で1つの園にしか入れていない状況ではとうていわからない。そこから自分の体験が一気に相対化され、これがあたり前だと思っていた観念を打ち砕いてくれる。
 そうかと思うとこういう投稿もある。

保護者会の役員決めは、とてもむずかしいです。……仕事と役員の両立は大変です。何が大変かといえば、「行事への参加をしてもらわなければ困る」という園の要望です。引きうけるときは「できる範囲で」ということだったのに…。当分役員はやりたくないです。

 園への不信があらわになっている。「当分役員はやりたくないです」という言い捨てが、生々しい。
 保護者会の問題に限らず、本誌の冒頭の投稿欄に掲載される声には、生々しいものが少なくない。たとえば、保育士の言葉に傷ついたりする父母の声なども掲載される。

最近、園で担任のひとことに傷つきました。それは、「働いていないならゆっくり登園して早く迎えに来てください」と言われたことです。

私自身、早く次の仕事を見つけなければとあせっているのですが、「ハローワークも子どもといっしょに行けばいいじゃないですか」と言われました。慣らし保育も二週間もあり、精神的にまいりました。

園と保護者の信頼は大切だと思うのですが、残念ながら、担任のことばからは、自分の負担を軽減することを優先しているという印象しか残りませんでした。前園では楽しく通園していたのにと思うと、涙、涙の毎日です。

 「涙、涙の毎日」って、そこまで言うのか。
 ことほどさように父母が感じる保育園への不満や傷ついた言葉もきちんと掲載される。そこに予定調和ではなく、現場からたちのぼってくるリアルな空気がこの投稿欄にはある。
 「それならネット掲示板でも読めばいいではないか」という人がいるかもしれない。たしかに例えば「発言小町」でも読めば、無駄な自尊心や刺々しさにたっぷりと彩られた言葉の応酬を見ることができる。そしてそういう生々しさにふれたいときもたしかにある。だが、ネットのこうした「生々しさ」は下品さとともに、子育てに人間の共同を見出そうとせず、「分かりあえぬもの」としてすぐ断絶しようとする空気に満ちている。
 そういうものに当てられたり、悪酔いしたくないときもあるのだ。
 全体としては保育にかかわる悩みや喜びを前向きに書いてあるものが多く、そのなかで、傷ついたことや不満に感じたことがつぶやくように、少しばかり躊躇するように書かれている節度が、実にいい。

育児の生々しい気持ちをつぶやきで終わらせず、きちんと展開する「子育て日記」

 そして、こうした短い投稿だけでは書ききれない思いをきちんと展開しているコーナーもある。中盤にある「子育て日記」というコーナーは、こうした投書でのつぶやきを3ページほどの長さで展開してあるものだといってもいい。そこでは子育てでぶつかる悩みや戸惑いが、じっくりと、分析的に書かれている。たとえば2010年5月号の牧野陽子の手記はこうである。

たとえば「遅刻するよ、早く起きなさい!」なんて言いながら、内心「自分も朝は弱くてのろい子どもだったくせに、よくえらそうに言えるもんだ」とつっこむ自分もいて。それはそれとして、今は割りきって母の役割を果たせる人がお母さんらしいのだろうけれど、自分の場合「お母さん」という人格のスイッチが最初から接触不良なのか、オトナになりきれないまま点滅をくりかえしているような感じです。

 この感覚はよくわかる。というか、これ、まんまぼくのことやんけ。
 娘は実にゆっくりごはんを食べる。あまりにゆっくりすぎるので、保育園に遅れそうになる。フロの時間がなくなりそうになる。「早く食べなさい」とは言いたくない。自分が言われて一番嫌な言葉だからだ。
 そうした自分の不完全さに向かい合いながら、親としての役割を演じきれない自分にどこか矛盾を感じながら日々をなんとかこなしている様子が、この牧野の手記からは的確に伝わってくる。牧野はこう続ける。

母親初年度、自分より若い人がすっかりお母さんに顔つきで集団予防接種会場にいたりすると、思わず「あの、あの、ああたはいつからきちんと『お母さん』になったのですか?」と聞きたくなりました。

 後の号で反響が大きかったのは、2009年9月号に掲載された佐藤さおりの手記であった。1人目の子育てでは、「子育てって楽勝!」と感じるほどの楽しさとゆとりを感じていた佐藤であるが、2人目をさずかってから一変する。

私の育児の余裕はここまででした。

という簡潔な一文のあとには、いわゆる「手のかかる」育児にほとほと疲れ果ててしまう様子が記されている。

生後五カ月にならないころから発熱するとすぐ容態が悪化。入園し、環境の変化で発熱回数は増え、そのつど入院となり、お姉ちゃんは私の実家へ。意志がことばで出せず、力いっぱい泣くためソケイヘルニア左右。睡眠時無呼吸のため扁桃腺、アデノイドの手術。二歳になった数字後の年越しそばで心臓が止まる手前のアレルギー反応。そして深夜の咳きこみ、嘔吐。これらが数か月続き、「もしかしたら死ぬんかなあ、そしたら私も眠れる?」と、息子の背中をさすりながら思う、悪魔のような私がいました。

 ぼくはこれを読んで、1人目の育児で疲れはするものの楽しいと思えている自分が、2人目のもし誕生となってすべて打ち砕かれるのではないかという不安にまず襲われた。佐藤の手記はそこからいろんな人の協力で今を迎えたことに感謝しているのだが、そんな結末なんぞなかなか頭に入って来ない。この一文を読んでつれあいと少し話したりしたのだが、そんなことを重く考えさせる手記であった。

保育や育児に関係のないエッセイも心に残るものが多い

 保育雑誌だから、保育の話ばかりかというと、そうでもない。ぼくはこの雑誌に載っている数々のエッセイがあるのだが、それは必ずしも保育や子育てとは関係がない。関係がないけども、面白い。
 中でも楽しみにしているエッセイは、辛淑玉の「わたしのアングル」である。
 辛淑玉のエッセイは、その主張に必ずしも賛同できるわけではない。ドン引き、というようなものもある。にもかかわらず、引きつけられてしまうのは、辛の立ち位置のクリアさ、そしてブレなさが、辛の生き方としてぼくにダイレクトに伝わってくるからである。
 たとえば、辛が「マイノリティ」の擁護、そのためにマジョリティと戦うという姿勢は実に徹底している。2010年6月号では、障害者団体偽装の郵便割引制度不正事件で逮捕された厚生労働省村木厚子局長(当時)を擁護する。村木は無実なのに、検察の圧力で犯人に仕立て上げられたのだと辛は喝破する。この事件は実際に村木が無罪だとされる公算が高くなっている。
 村木のようなケースのみならず、たとえば辛は、和歌山カレー事件で死刑判決を受けた林眞須美被告にも擁護の論陣を張る。

 確かなことは、マスコミによって作られたイメージを、私たちがもちつづけ、詐欺などをやる悪い奴らだから、これも「やったはずだ」、だから「殺してもいい」と結論づけたことだ。
 事件は、一審、二審とも、なんの物証もないまま死刑判決が言いわたされた。状況証拠だけで、人を殺すという判断をした。事件当初流された「毒婦」というマスコミのイメージが払拭されぬまま、裏づけも動機もないままに、人が一人殺されようとしているのだ。恐ろしい。

 林を擁護しても自分への風当たりが強くなるだけである。にもかからわず、辛は林の、というよりも林がそのまま死刑にされる状況に強い異議を申し立てている。そうした気骨が文章から伝わってくる。これほどに文章が生き方を表すというエッセイも珍しい、とぼくは思った。そしてそんな大胆な文章が保育雑誌に載っている、ということにもまた驚いたが。

 他にもいくつかエッセイで面白いものがあるのだが、きりがない。

商業ベースではみかけない「育児エッセイコミック」

 このサイトらしく、本誌でかかれている育児エッセイマンガ「育児いとをかし…」(やまだりょうこ)についても書いておこう。
 東村アキコの『ママはテンパリスト』がマンガランキングの上位を占めるように、いまや育児エッセイコミックは、商業誌におけるメジャーなジャンルである。東村の『ママはテンパリスト』、それと大久保ヒロミ『あかちゃんのドレイ』で完成された育児エッセイコミックのスタイルは「デフォルメ」である。エピソードを選びぬき、それをギャグの方向に思いっきり拡大する。
 ここでは、(1)作品化するにはインパクトの足りないエピソードを削ぎ落とし、(2)選ばれたエピソードは何らかのデフォルメをかける、という二つの作業が必然化される。商業誌に掲載されている育児エッセイコミックには、多かれ少なかれこの二つの契機がある。

 しかし、「育児いとをかし…」にはこの契機が欠けている。
 商業誌では削ぎ落とされてしまうであろうレベルのエピソードが、つぶやきのようにマンガ化されている。およそ商業誌では載らないであろう、日記のようなトーンである。
 「商業誌レベルではない」といえば悪口になるが、上記の(1)や(2)のようなことだけが育児ではないことは明らかである。ぼくらはマンガのネタの育児日常を生きているわけではないのだ。だとすれば本来削ぎ落とされた「つぶやき」のようなエピソードの中にこそ、むしろ夫婦や育児仲間の間でそれを題材にして話題をつくれるようなものが転がっている、というべきであろう。

 インフルエンザの流行のとき、自分の注射には絶対に泣かなかった子どもたちが、親である作者(やまだ)の注射のときには針が刺さると泣いてしまったのである。商業ベースではマンガネタにならないようなテンションの低いエピソードだが、「注射で泣かない」という子どもらしい倫理を守ろうと必死な姿と、それから軽く解放されたときに、肉親の注射の瞬間を見て不意に緊張が破れてしまう、その様がそこはかとなく描かれている。

「子どもの『イヤ!』をどう受けとめる?」

 なんかこんなふうに書いていると、「肝心の育児や保育のことは書かれていないの?」と思われるかもしれないがもちろん書かれている。
 号ごとに特集が載る。
 2010年5月号の特集は「子どもの『イヤ!』をどう受けとめる?」であった。どの年齢でもあることだが、とりわけぼくの娘のいるクラス、2歳児のクラスでは起きやすい。園の懇談会でもこのことが話題になった。

 このテーマにかんして、さまざまな実践や小論が載っているのだが、「なぜ子どもがイヤだと言っているのか、その気持ちにいったん寄り添ってみる」ということが共通している。大人の規範で裁断してしまうと、子どもは置いてけぼりになり、大人のルールを外的に子どもに押しつけるだけにしかならない。大人の論理でははかれないような衝突が子どもの中で起きているのだから、いったん子どもの気持ちになってみろ、というわけである。

 本質がそこにあることがわかっても、それをどう実践するかは難しい。そこで本誌では、いくつかのコツというか実践を載せている。たとえば白石恵理子は次のように述べる。

 一歳前半の「イヤ」は、とにかく自分の行動を止められたと感じたようなときに多いようです。あそんでいるときに「お手々洗おうね」「歯磨きしようか」と言われて「イヤ!」。でもまだ、自分はこれがしたいんだよ、ということがそんなに明確になっているわけではないので、少し間をおいて、もう一回声をかけると、こんどはすっと手を洗おうとしたり、歯ブラシに気づいて歯磨きをしてもらおうとしたりします。
 あるいは、「お片づけしようか」と言われても、何をしていいかわからず、なんとなく「やらされる」とだけ感じて、とにかく「イヤ!」になることもあります。でも、おとながいっしょに片づけようとすると、自分もかごの中におもちゃを入れはじめます(入れたものを出すことも多いのですが)。ことばだけで子どもを動かそうとせず、おとなもいっしょにすることが大切ですね。

 ネットだと、「子どもの気持ちに寄り添う」という抽象論か、「大人といっしょにやる」という具体的な行動だけが提案されることが多いが、具体的な行動が、どのようなエッセンスから導きだされているかが、本誌ではわかる。いわば精神を身につけながら、具体的にどうするかもアドバイスされるのである。

 園で、本誌をすすめるのを保育士のみなさんがやっているのだが、もっと思い入れをこめて、面白そうに語ろうよ!と思ってしまう。ぼくに紹介をやらせてほしいと心のなかで叫ぶけども、もちろん伝わらない。