共産党が主催するジェンダー問題の学習会に参加した。講師は共産党中央委員会 政策委員会事務局次長・坂井希である。
(上記の京都の講演会ではないが、各地で行われている同趣旨の講演に参加した)
会場では「年配者の多い党支部では、どう学習したらいいかわからない」という質問がいくつか出ていた。坂井はあまり難しく考えずに学習会をやってみると、参加している活動家たちの、男女を問わない(ジェンダーに関する)積年の思いなどが出てきて、そこに自分史や政治・政党参加のきっかけの話に発展し、思わぬ「共産党を語る集い」みたいになるよ、という趣旨のことを述べていた。
また、坂井は、「ジェンダー平等」という課題は安倍政権をはじめとする政治に問題の根源があるものの、それを批判して終わるものではなく、むしろ社会の中の課題として解決される側面が大きく、たとえ共産主義者といえども(だからこそ?)どうしても自分の生活や考えを見直すことがなければ掘り下げた話にはならないと強調していた。
そのような話はぼくにとっても興味深かったのだが、ぼくと同世代くらいの女性活動家が、そうしたジェンダー学習会がうわっすべりな「(自分とは関係のない)政策学習会」にならぬようにするために、「チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』を読んでもらうといいのでは」と語っていたことを思い出した。
個人史の中に随所にあったはずの、女性としての生きづらさを、読んだ韓国の女性はもとより、日本の女性たちも想い起すようである。
ただ、やはり韓国の話ということもある。男性であるぼくなどは、真っ先にまずは韓国と日本の比較に目が行ってしまった。
また、小説を読んでもらうというのはそうはいっても学習会参加者全員にお願いできるわけではないので、ぼくなどは柴門ふみ『女ともだち』を読んでもらったらどうだろうかと思いついた。

女ともだち (柴門ふみ) コミック 1-5巻セット (双葉文庫―名作シリーズ)
- 作者: 柴門ふみ
- 出版社/メーカー: 双葉社
- 発売日: 1994/11/01
- メディア: 文庫
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『女ともだち』は1982年から1988年まで「別冊漫画アクション」に連載された短編集である。柴門が1994年の双葉文庫版あとがきで次のように述べている。
「女ともだち」のシリーズを開始したのは一九八二年、今から十年以上昔のことです。当時の女性をとり囲む状況は今よりずっと悪かったように思います。職業選択の幅も狭く、(男女雇用機会均等法も実施されていなかった)社会に参加しようにも多くの困難を抱えていました。
だから、当時青年コミックを読むおとなの男性の多くの女性に対する認識は、〈妻か、水商売の女か〉ぐらいの認識しかできていないのではないか、という疑念が私に生じたのでした。(柴門『女ともだち』5巻、双葉文庫、p.249)
一読、その息苦しさに唖然とする。 ぼくは2003年にそのことをネットに書いたが、すでに16年前にして当時の女性たちの閉塞に愕然としている。
まずこのマンガを素直な「昭和史の記録(?)」(柴門同前p.250)として読んでみる。そういう読み方は邪道だと思われるかもしれないのだが、あたかも当時の空気と倫理と感性を冷凍保存したかのような見事な「記録」になっているのだ、これが。もちろん、それはこの作品集の瑕疵ではなく、逆に時代をなんと見事に剔出しているのだろうと唸らされる要素なのである。
たとえば、下図は『女ともだち』双葉文庫版、5巻所収の「夢のつづき」という短編からの抜粋(p.14)である。
この係長の行為は、当時としてもすでにかなり緊張感のある「コミュニケーション」ではあったが、全体として「ギリギリ」のところで「戯れて」いる「粋な・クールな」仕草として描かれている。
もちろん、そんなものを描いている柴門ふみはけしからんという話では毫もなく、この時代の空気が見事な缶詰になっているということが言いたいのだ。
他にも、女性に当然のように命じられるお茶汲み、「なんで結婚しないの?」という平然とした質問、エレベーターで後ろからブラジャーを外す「悪ふざけ」、「飯は?」と当然のように命じる夫、課の女性について「やりやり女」「誰とでもやる」と平気で評価する課長……。すごいなと思って改めて読み直す。
ぼくの2003年当時の文章を再録しておく。
たとえば、「縁談」という短編がある。
同窓会名簿が送られてきて女性の場合、右側にカッコがついて、旧姓を書くことになっている。そのなかに、「石橋(石橋)」というのがあって主人公は不思議におもうのだが、それはたまたま同じ姓の人と結婚したのに、既婚であることをわざわざ知らせるためにカッコでくくったのだという。「かっこでくくられた旧姓の数がわたしをせっついてくる
おいてゆく、おいてゆくぞと警鐘をたたきながら」主人公は結婚をあおられ、あせらされる。
そして、母親がもってきたお見合いの話の相手が、主人公いわく「白ブタ」「あの人にも性生活があるなど想像もできないタイプね」。しかし、主人公は、毛を刈り込んで、メガネをかえ、ひげをはやさせ、メンズビギを着せたら、なんとかなるのではと「前向き」に考えはじめる。
主人公は、大学時代にとろけるような恋愛をしたが、卒業とともにそれが消えたことを思い出としてしまいこんでいる。
「おかあさんて、とろけるほど人を好きになったことないんじゃないかな?
それを思うとね、あたしは幸せ者だわ。
人生の宝物を味わったから、
もう……
もう、いいわ。
別に美人でもないし、格別の才能もないし、
あたしなんか……
白ブタとときめきのない結婚でもいいかなと思っちゃう」
とあきらめの言葉を吐く。
聞いていた義姉も、
「あたしも恋を途中で置いてきたみたい。
結婚生活て恋の緩慢な死なのよね」
とつぶやく。ぼくは、ここまで息苦しい生き方を当時の女性が考えていたことに、ちょっとした衝撃をおぼえる。
社会に出ていく道を閉ざされ、結婚にしか道がないという時代は、ここまで重苦しいものなのか、と思う。
『女ともだち』の主人公たちはほとんどみんな20代であり、特に20代後半である場合が圧倒的だ。この当時20代後半は「結婚」というステージへ移行する「最後」の年齢であり、結婚という「墓場」に入るか、結婚・家庭・子どもをあきらめ「名誉男性」となって生きるかという選択肢しかないように描かれている。
現在のアラサーがどうのとか、アラフォーで大変とか、思いもよらぬ世界なのだ。もし当時の柴門ふみに『東京タラレバ娘』を読ませたら、泡を吹いて倒れるのではないか?
そして、『女ともだち』の主題は明確に「恋愛」である。
上記の引用において「おかあさんて、とろけるほど人を好きになったことないんじゃないかな? それを思うとね、あたしは幸せ者だわ。人生の宝物を味わったから、もう……もう、いいわ。」というセリフに見られる通り、恋愛至上主義ともいうべき価値観が貫かれている。このテーゼは繰り返し『女ともだち』で語られる。
それは1980年代という制約でもあるし、同時に青年誌という男性読者を対象にした女性像の展開という限界でもあるし、柴門個人の当時の価値観の反映でもある。しかしそれこそがまさに柴門が優れた描き手であることの証左だ。時代を、思想や空気まで含めて、そのまま切り取っているからである。
単に自然主義的な描写をするだけではそれはできない。
感情の中にある、曰く言い難いものの中から、本質的なものを選び出す力が必要なのだ。柴門のそのような力について、関川夏央は次のように述べている。
彼女は生活感情を因数分解し、いわゆるホンネをたくみに比喩してみせる。(関川『知識的大衆諸君、これもマンガだ』文春文庫、p.80)
柴門ふみのマンガにはくだんの拡大辞的物語マンガ(「劇画」旧派)の方法は片鱗もうかがえない。一方、「私小説」や「私マンガ」「純マンガ」にままある卑小辞的世界ともなんら関係がない。しいていうなら、考えぬかれた等倍のダイアローグと、それらが組みあげた等倍のドラマを持っている。それは現代日本の知識的都市生活者あるいは知識的大衆の意識や現実と等倍ということであって、すなわち彼女のドラマにはわたしたち自身が登場するのである。(同前p.81)
だからこそ、『女ともだち』は当時の冷凍保存であり、そこにあらわされた思想から自分がどれほど今も影響を受けているか、あるいは距離をとっているかがわかるのである。