藤野美奈子『明日ひらめけ!』『ぷちやまい』

 社会人になってすぐのころ、藤野美奈子の『友子の場合』が「ビッグコミック・スピリッツ」誌で連載されていた。妄想を爆発させたり、考えの突き詰め方がおかしな女子高生の物語だ。藤野についていえば、ぼくはその時からどちらかといえば掲載を楽しみにしてきた漫画家の一人である。

 

 

 しかし、その評価は複雑だ。
 絵柄やエピソードが「何か面白いトラブルがありそうだ」と思わしめる力がある。作品もそこそこ面白い。しかし。「そこそこ」なのである。どうしても熱狂的に楽しむ、ファンになる、ということができない。

  それからすぐ『まちこSHINING』が出た。芸能界入りをめざす女の子の話で、橋田壽賀子ファミリーをネタにした皮肉は痛快だった。しかし、やはり「そこそこ」面白いのだが、今ひとつノリきれない自分がいる。絵柄や細かい小ネタについての期待感と、読後の全体評価に落差がありすぎるのだ。

 

 


 この違和感はどこからくるのだろう、というのがぼくの中ではずっとひっかかっていた。
 ぼくなりにたどりついた仮説は、「藤野が描く生活の実感に根ざしたブラックな批評、小ネタは実に鋭いものがあるが、創作的・物語的な展開が中途半端なオーバーさであるために期待が十分にふくらまない」というものだった。

 藤野の新作『明日ひらめけ!』はこの二つの要素の分裂が鮮明になった作品だ。

 

 

『明日ひらめけ!』における2要素


 『明日ひらめけ!』は女子高生・くるみ田小鳩が漫画家になろうとする物語である。小鳩や同じ学校にいて漫画家をめざす友人たちだけでなく、編集者や人気漫画家が登場する。もちろんフィクションだ。

明日ひらめけ!マンガ家デビュー物語 人気漫画家といってもすでに盛りをすぎてしまった「大御所漫画家」といった方が適当で、この作品ではこうした大御所漫画家たちのあがきが一つの見せ場だ。
 だが、男性編集者たちと擬似的な恋愛関係をむすびながら作風を立て直していく描写が、「スベっている」。とまでは言わないけども、少なくともぼくはあまり気持ちを乗せられなかった。ギャグとして一定の水準があるんだけど、今ひとつこう…。編集者の家である古い一軒家に入っていく大御所女性漫画家と男性編集者の描写は、マジな恋愛なのか何かのギャグなのかまったくわからない中途半端さだった。ひょっとしてぼくだけがわかっていないのだろうかと不安にさえなる。
 藤野が「漫画家がこれ言われると困っちゃう言葉」を本作の末尾で書いているが、その中に「もっとつき抜けて」という言葉と、「これでマキシマム?」という言葉がある。
 そっくり藤野にお届けしたい。
 いや、さっきも言ったけど、ギャグとして一定の水準はあるんだよ。でもこう、ホラ、なんていうの……、うむ、やっぱり「突き抜け方が足りない」というふうにどうしても言いたくなる。

 有名な漫画家漫画である島本和彦の『吼えろペン』シリーズでいかに宇宙人が出てこようとも、仮面の編集長が出てこようとも、アイデアを生み出す深層意識の妖精が出てこようとも、それがスベらないのは突き抜けているからだろう。しかも確実な方向へ。

 

 

 あるいは小川彌生『わたしのせんせい』。主人公は漫画家のアシスタント。そのアシスタントがついた漫画家・「小川せんせい」は実は麻生区稲城市の一部の平和を守る愛の戦士だったという、聞くだけでげんなりする設定も、読めば大笑いする。それというのも、迷わずつきぬけているからなのだ(ついていけない読者も少なくはないようだが)。

 

 

 「もっとつき抜けて」──おそらく普遍的に漫画家が言われている言葉であるに違いないのだが、とりわけ藤野が言われ続けた言葉であろうと推測する。創作的展開の部分は「突き抜けてない」んだよ。

 しかしである。

 もう一つの要素である、「藤野が描く生活の実感に根ざしたブラックな批評、小ネタは実に鋭い」という部分は、本作でも縦横に、いかんなくその鋭さが発揮されている。

 南信長は「コミックガイド」において本作を評し「無理して今風の絵を描こうとする大御所作家への辛辣な批評、マンガ誌における作家の序列、編集者と漫画家の力関係など、見ているほうがハラハラするほど生々しいシーンが続出する」(朝日新聞2008年9月28日付)とのべているが、まことに的確な評だ。
 南が冒頭にあげている「無理して今風の絵を描こうとする大御所作家への辛辣な批評」は本作の白眉といってよい。

「いっしょうけんめい今っぽくしているけど
 目が死んでる」

「若作りしてるおばはんみたいでイタすぎるよっ!」

 そう。そうなのだ。
 もう、そうだとしか言いようがない。
 目が死んでいるのである。
 これは女性漫画家に限らない。男性漫画家にもいえることだ。そして“無理して今風にしている”台詞の分析へと漫画はすすんでいくのだが、このシーンが、別に自分のことでもないというのに、ぼくは読んでいてそのイタさにごろごろと転がってしまう。うぉぉぉぉ……。

「あー、それ●宮恵子のことじゃない? 一時期『ASKA』でひどいの描いてたよね」

 うおっ、突然、無遠慮にぼくのつれあいが入り込んで来た!
 ちょwwwwwwおまwww自重wwwwwwwww
 しーっ!!
 君さあ、せっかく藤野が客観的事実を抽象的なスープにしてフィクションにしあげているんだから、横からそれを台無しにするような生々しいことを言わないの!
 といっても、おそらく藤野の念頭におかれている作家は特定の一人だけではあるまい。にもかかわらず、ここは「見ているほうがハラハラするほど生々しいシーン」になってしまっているのだ。

 そして、藤野には不本意かもしれないのだが、「おまけ」のようについている巻末の「誰にも教えたくない対漫画家編集者マニュアル」の鋭さといったら、ない。初めて会う漫画家に編集者がアポをとってその漫画家にとっては少々冒険的な創作を提起するにはどうしたらいいか、というギャグ的なマニュアルだ。

 「私、先生の大ファンなんです」

 そういって、どのような順番で全作品を言及していくかまでを皮肉たっぷり(というか自嘲的)に念入りな描写をしていて笑える。そして、そうかやっぱりサインを求めるのは重要なのか! と思わずメモをするぼく。

 藤野は「生活の実感に根ざしたブラックな批評、小ネタ」が鋭い、とぼくは述べたのだが、さらに付け加えれば、藤野の場合、警句のように短く差し出されたネタほど鋭く笑えるのである。展開してしまうとちょっと間延びしてしまう。

 

 

批評眼だけにしぼられた『ぷちやまい


 「生活の実感に根ざしたブラックな批評、小ネタ」の鋭さだけを抽出した近作が『ぷちやまい』(幻冬舎)である。この本の藤野のプロフィール欄には「何度もうなずかざるにはいられない鋭い批評眼」という一言があるが、これは当を得ている。しかも今のべたように、展開してしまうと熱が失われてしまうというか間延びしてしまうというか、短く言い放つ瞬間に藤野の神髄が垣間見える。まるでおしゃべりのさいの失言のようにポロリと言ってしまうような短さ、そしてその失言があまりに空気を読まなすぎる鋭さに満ちている、そんな感じが藤野の最も得手とする作風なのだ。

 

 


 創作的展開をなくして、「生活の実感に根ざしたブラックな批評、小ネタ」だけにすると、藤野の作品は非常にシャープになる。

 『ぷちやまい』はサブタイトルに「いるいるいるいる! こんな人図鑑」とあるように、「あるあるネタ」系の一つだ。「癖でもない、性格でもない あの人に感じる微妙な違和感」(オビ)を実に鋭利に漫画に落としている。

 この中にある「メール病」。メールで彼氏とケンカしたあとでメールをうつときに「私は信じている」けど「あんたは充分あやしい」という正反対のニュアンスを同時に出そうとして苦闘する女性の姿がものすごくよく描けている。これ、まんま、ぼくである。
 ちょっと副詞を入れただけで出てはいけないニュアンスが強くなってしまい、それを消したり、また付けたりして、そんなことでずーっと悩んでいる人間のことだ。

「う〜ん ちょっと責めカラーが濃くなったかな
 『ね』のあとに『……』つけて 
 ちょっとしみじみした感じだそうかな」

 そして疲れ果て、「とりあえず」感の強い暫定メールを出してしまうのである。

 ちなみに、「最後まで面倒みない病」──このカテゴライズは噴飯ものだ。
 要は、デートのさい、家まで送り届けず「駅まえ」までしか送らない男を批判しているのである。「これから誰かつきあう人がいたとして、相手の男性が駅まえ男だったら要注意。彼には今後、肝心なときには頼れない、と思った方がいいと思います」(藤野)。この漫画のシチュエーションでは「初デート」のようだから言わせてもらうが、「家まで送るよ」というのは「やらせろ」という下心を見せているようでものすごく勇気のいることなんだぞ。
 「送るよ」と言われた女性の側が友人たちと交わすであろう、ぼくの脳内会話。

「昨日さー、紙屋と帰ったんだけど『家まで送る』とか言い出してさー」
「うわキモ」
「あわよくば上がり込んでヤッちゃおうって気満々じゃん」
「そういうのが透けて見えるってわかんないのかねー」
「送ってほしけりゃこっちから言うっつうの」

 まあアレだ。男性は「家まで送りましょうか」、女性は「すいませんが家まで送ってくれませんか」と一言言えばいいことだ。

 あと「私、オバさんだから…病」(自分から媚態を追放し、理性的なふるまいをする女性)や「愛されたい病」(他人を信頼していないがゆえに他人を愛そうというそぶりをみせる)も、これを「病気」扱いしてしまうこと自体に違和感がある。
 20代くらいの女性というは、自分の立ち位置を模索しているものだろ。そういうことに多少過敏になったり、意識的に自分を隠してしまうところが出るのはしょうがないじゃないか。なんでお前に病気扱いされないといけないんだ!

 とまあ、ぼくにとってはこれらは「失言」「暴言」のたぐいなのだが、それもある種の鋭さを持つがゆえに失言となりえている。そういうことをひっくるめて、藤野のこうした短い人間批評を読むのは楽しい。藤野の本領はそこにあると思うのだが、そのおしゃべりにおける鋭い失言のようなものを「作品」としてまとめあげるのは実際のところ至難である、といってよい。物語風の作品にしてそのなかに配置すると味が落ちてしまうのだ。『ぷちやまい』のように「症例」だけをズラズラと並べるというのが藤野のよさをいかんなく発揮させる道である。
 いや、本当は「ぷちやまい」といったような形で無理にテーマとして統一させることさえ藤野にとっては桎梏なんじゃないかと思う。本当は「無題」にするのが一番いいんじゃないか。テーマやタイトルのしばりから解放して、藤野の人間観察の断片をとりとめのないおしゃべりのなかでポロポロと披露させていく──そんな夢のような本がもしあれば、それが一番面白いのではないかと思える。

 ちなみに漫棚通信ブログ版は『明日ひらめけ!』について、「書影を見ればわかるように基本的にはギャグマンガ、と思って読んでました。ところがこれが意外と熱血な展開になっておどろいた。『マンガを描く』というテーマのマンガのなかでも、熱血度が高いのは、こっちも燃えてきていいですねえ」とその「熱血」ぶりを評価している。
http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2008/09/post-2c17.html

 このあたりは曰く言い難し。
 というのも、ぼくもこのあたりの描写は楽しんだのだが、なにせ「まんが道」的熱血は世間に良作が多いので、それらの作品群を前にして本作のみを「傑出している」と評価するほどではないからだ。だからまあこの点はとりたてて何か言うことはないのである。『明日ひらめけ!』はすぐれた競争相手が多い分野なので、この作品にはどうしても評価に辛さが入り込みがちになってしまう……。絶対的評価はけっこういいんだが。