「理系男子に恋をした!」というオビからわかるとおり、理系研究者である自分のパートナーについてのエッセイコミックである。
——相手の反応かまわず、自分の専門の話に暴走。
——やたら事務的に女性の要求を聞いて、脳内検索をするメンタリティ。
——距離感のとれない、そして意味がわからないコミュニケーション。
——オシャレ力のなさ。
理系クン 正直なところ、あまりに類型的な「理系男子」像だ。よくそういうやつがいる、というより、よくそういうふうに描かれる、というニュアンスの方が強いのだが。
むしろ不思議なのは、ではそれほどまでにわけのわからない人間と、著者・高世はなぜつき合い続けたのかということである。
デートで会話が続かないために、高世が相手の専攻をくわしく聞くと、次第に饒舌になりだし、あいづちに乗せられて、ものすごい勢いで専門的なことを語りだす、というのである。
高世は「へーすごーい」「そーなんですかー!」「なるほどー」「すごい!」「へー」などというあいづちをローテーションでおこない、高速でうなずき、脳をフル回転させるが、
「なっ…なに言っているのか
さっぱりわからん…っ!!」
高世はつきあい始めた当時を描いたこのシーンを再現するために、高世は理系クンであるパートナー自身にセリフを書いてもらったというのだが、たしかに何を言っているのかわっぱりわからない。
しかし、まあそういう暴走をしてしまうってことはあるよ。たしかに。
ところが、読みすすめると「冬」「春」「夏」「秋」「そして1年後」、デートは全部こんな調子であると想像させうるコマが連続するのである。
いくらなんでもおかしいだろ、これは。
苦痛きわまるコミュニケーション不全。『フラワー・オブ・ライフ』の花園春太郎であれば「いい加減にしとけや、コラ」と胸ぐらをつかみたくなる展開なのに、著者はそんな「理系クン」の彼女になることを高速でうなずきながら思い焦がれていくのである。
謎なのは、理系クンではなくて、高世。お前自身だ。
「あぁー自分の専門の話になると輝くなー この人」
と、慈愛に満ちたまなざしでただあいづちを打ち続ける高世。自分の専門を話し続けるだけの異常な存在をかつてこれほどの包容力で迎えてくれた女性が果たしてこの世にいただろうか。
その愛はマザー・テレサに匹敵する。いや、マザー・テレサの実態って知らないけど。
「内容はよくわかんないけど
専門を極めてる人ってスゴイなー
こんなに研究について一途なんて…
彼女にたいしても一途そーだよなー
この人…
彼女になってみたいなー」
世の理系男子が鼻息を荒くして叫んだことは言うまでもない。「はい、喜んで!」(庄屋)。こんなどうしようもないディスコミの私でも受け入れてくれる女性がいる! というわけだ。これはアレですか。理系男子リアル観察日記に見せかけた、理系男子妄想炸裂漫画ですか? 「大好評重版!!」という新聞広告に確実に嫉妬したぼくは、この漫画の購買層の82%以上はまちがいなく理系男子だと確信している。あざとい商売をしおって!
くり返すけども、個々のエピソードは類型的なものばかりだ。
なのに、ぼくがわりと興味をもって最後まで読んでしまい、読後感もそれほど悪くないのは、「異文化カップル」の話がやはり読みたいせいなのだろうと思う。カップルは総じて異文化の衝突であるが、そのことを極端なまでに明示する話が読みたいのである。だから決して「すぐれた漫画」だというふうには思わなかった。でもぼくの読みたい心を大いにくすぐり、確実に最後まで読ませてしまったということなのだ。
しかも「理系クン」というタイトルから想像されるのは、「専門馬鹿」「女性に免疫なし」などの男子像。文系であるにもかかわらず、「お、これって俺に近いんじゃね?」などと思って買ってしまったぼくこそ、まんまと高世&文藝春秋の出版戦略に乗せられたその人だということですよ、ムハハハハハハ!(泣)
ちなみに、カバーを外した表紙に写っている理系研究者の集合写真は、きわめて本書の主題に忠実な理系研究者のメンタリティを写真としてよく表していて、うちのつれあいが笑っていた。
うちのつれあい=「理系ちゃん」
ところでうちのつれあいは理系である。
ぼくとつきあいだした当時「理系ちゃん」だった彼女は、学生時代、自分の専門をこのように高速で話したことは一度もなかった。一度自分の専門のことをデートでくわしく話したことがあったが、ぼくがハナをたらしてぽかんと口をあけていたのを見て、二度としなくなった。
本書には、高世の「私の描く理系女子像」が出てくる。もちろん高世はありもしない妄想の女子像だというニュアンスをこめて書いているのだが、この基準をうちのつれあいで計測してみて、この妄想の妥当性を検証してみようではないか。
理論派……○。しばしば言い負かされる。
サバサバした性格……高世がこれを使っているのは「連絡? 別になくても気にならない 私も彼も忙しいしジャマしたら悪いじゃない」というような女性像らしいので、そうだとすれば×。「なんで電話せんの」「なんで休めないの」などとしつこく連絡・説明を要求するのである。
キレ者……まあ○かな。関心のない分野にはまったく関心がなく、コメントしたり考えたりする気力さえないが。
カッコイイ……×。びよびよにのびたTシャツとぼろぼろになったスウェットパンツを着て、ケーブルテレビの「ショップチャンネル」を観ながらせんべい食べてお尻を掻いている姿を見たらもうあなた…。
バリバリ……○。職場で「鬼」「浅川監督」と呼ばれています。
クール……×。押し入れを閉めないというぐらいでいつもカッカされます。
デキる女……仕事の能力ということであれば、彼女の仕事の評価はぼくにはできないので「?」ということだろうか。
「研究者クン」の特徴にかんする暴言
本書であげられている特徴というのは「理系クン」の特徴じゃなくて、「研究者クン」の特徴だと思うのだが如何。
そして「研究者」というのは他にも以下のような特徴があると思う。ぼくが考えた「研究者クン」の諸特徴を最後にご紹介しよう。
同じ特徴のコロラリーになってしまっているものもあるが、
(1)本題に入る前に留保をいくつもつける。
留保つけすぎだろ、お前ら。「納豆ってどう体にいいんですか?」みたいな質問を嫌う。そもそも質問の仕方がまちがっている、とか思って「いや、そもそも体にいいとか悪いとかよくいいますが……」などと言い出す。
(2)本質を端的に、わかりやすく言えない。
その分野に非常に造詣が深く、さらにそれを大衆的に卑俗化せずに伝える能力をもっている研究者だけがこのようなズバリとしたことを言える。たいていの研究者はこれが言えない。研究と教育のうち、研究しかしていないし、その道をまだ極めていないから。院生なんかまだ概念操作を覚えたばかりで考察はこれからだから、とてもそんなことはできない。多少卑俗化してもとにかくズバリといえる学者はテレビに出られるよ。「別にテレビに出ることは学者の優劣と何の関係もない」って研究者どもは言うだろうけど。
(3)わかりやすくしようとして説明をたくさんつけることが逆にわからなさを増大させている。
サービスのつもりで説明を「豊富」にすることは、かえって素人や初学者の混乱をまねきやすい。説明のためにさらに別の理解不能な概念が入ってくるせいだ。
(4)理系研究者は「文系は科学・学問ではない」と思っている。
うちのつれあいの発言。ぼくが言ったんじゃないよ。
(5)文系研究者は通説を否定することに生き甲斐を感じている。
理系は通説がくつがえることはかなり稀。その体系のなかで小さな発見を積み重ねて行く研究スタイルだ。しかし文系はさにあらず。とにかく通説を否定さえすればよい。否定しさえすればとりあえず「勝ち」。「カール・マルクスは通説では男だとされている。しかし実は女であった」。
このような暴言を書き連ねると、研究者から当然怒りを買い、ブログなどをもっている研究者連中からたちまち反論・攻撃され、身も心もボロボロになるわけであるが、そんなタブーに挑戦している俺ってカッコいい!! サインほしい?