よしながふみ『フラワー・オブ・ライフ』

無条件で自分を受け入れてくれる居場所

 雨宮処凛・萱野稔人『「生きづらさ」について』の評を書いたとき、精神的な「生きづらさ」の根源の一つに、たえず高度なコミュニケーションによって自分の居場所を構築し、そのなかで自分の価値を証明せねばならず、そこに疲れ果て、あるいはそのコミュニケーション合戦に敗れたものは「いじめ」や「リストカット」の「罰」を受けることになってしまう、ということをぼくは紹介した。
 そして、ぼく自身の体験として、ぼくがいる左翼組織は、無条件で自分を受け入れてくれる居心地のいい場所になっている、ということを書いた。
 ぼくのこの書評について、ちょっとソーシャルブックマークがついているんだけど、そこに「右翼組織でも宗教組織でも同じじゃね?」と書いている人がいたけど、居場所の問題だけでいえばたしかに同じだといってもいい。

 無条件で自分の存在を認めてくれる、ということの居心地のよさ。

 共産党が世話をしている民青同盟という青年団体があるが、そこの大会決定にや発言には次のような言葉が頻出する(「班」というのはこの団体の基礎組織名だ)。

「家族のような存在」
「あたたかい班づくり」
「みんなの居場所になる班を」
「みんなが成長できるかけがえのない居場所」
……

 こうした団体の大会での発言なら、当然雇用や学費、反戦闘争での課題をタイトルにかかげたものが並ぶかと思いきや、そうしたタイトルの発言は、大会の冊子を読ませてもらうと、皆無とはいわないまでも驚くほど少ない。
 大半がこれらの運動を通じて、班そのものや、自分自身、班員がどうかわったかを発言している。

 キモい。と思うだろうか。
 ひと昔前のぼくであれば、確実にぼくもキモいと思っただろう。しかし、前のエントリにも書いたとおり、今のぼくはそういう場が必要だと思っているし、自分自身もサヨク組織のこういう側面にずぶん救われてきたな、と思っている。

 もちろん、民青にいる人たちは四六時中上記のようなことを言っているわけではない。ぼくは民青でもないけど、運動などでこの人たちといっしょになる機会が多いし、班会の様子なども見せてもらうことがあるのだが、日常的にはまず絶対に上記のようなことは言わない。あえて自分たちの関係を、大会とか会議という場でまとめれば、ということになるのだろうが。

 いずれにせよ、高度なコミュニケーションを必要とせず、無条件で自分たちを受け入れてくれる場所として機能している例である。

 


空気を読みまくる世界——『フラワー・オブ・ライフ

 こうした「居場所」のありようと、似ているようで実はまったく非である空間がある。それはよしながふみフラワー・オブ・ライフ』の世界である。
 『フラワー・オブ・ライフ』は、ある高校のクラスの日常を描いた作品で、花園春太郎という「白血病」だった少年が転入してくるところから物語が始まる。

 

 


 「白血病」と聞いて一気に重い印象をうけただろうか。まさに作者のねらいどおりで、自己紹介で最初からかいのヤジをとばしていたクラスメイトたちは、「俺 白血病でした!」という春太郎のさわやかな一言を聞いて、真っ青になるのだ。ある種の親しみのつもりでヤジをとばしてしまったことは、明らかに「空気を読まない」、そして距離感をあやまってしまった行為であったかのように。すでに骨髄移植で治っていることと、本人の、まるで江戸っ子のような、あまりに直情径行、一本気で、裏表のないさわやかな性格であるにもかからず、クラスメイトは春太郎にちょっとだけ微妙な畏敬の念をいだくのである。

 一瞬クラスを重い空気が支配して、この転入生との距離感をつかみそこねるシーンから始まるのは、この作品のテーマそのものである。

 この漫画はまさに「空気を読む」漫画である。
 クラスのなかで相手との距離感をどう図るかを、すべての登場人物がエピソードごとにたえず模索している。
 そして、その空気を読み合う気遣いのうえに、ありえないほどにすばらしい人間関係のユートピアができあがるのである。それを読む快楽といったら、ない。

 たとえば、3巻の冒頭は、メガネをとると実は美人、という古典的設定のオタク少女・武田さんが偶然にクラスメイトの女の子2人(陣内と磯西)と買い物をするエピソードである。武田さんはこれまでただのクラい女と思われてクラスの人が近寄りがたい雰囲気があったのだが、武田さんの漫画がクラスで好評になって、ポツポツと友だち付き合いがはじまったのである。

 

 


 母親に武田さん自身の服を買えと命ぜられた武田さん。服など買い慣れない武田さんは電車で会ったクラスメイトたちに見立てを頼む。
 服を選ぶ快楽にはしゃぎまくる女子たちの横で、洋服には興味がもてない武田さんはただただ圧倒されるばかりである。
 武田さんとクラスメイトの二人は、マックで楽しく楽しくおしゃべりをする。漫画を描くということを媒介に、クラスでの価値と居場所をつくりはじめた武田さんは、心を解放させるのである。

「武田さんも笑った。
 武田さんは
 人前でこんなに大声で笑ったのは
 初めてだった。」

 3人で来週も来ようと約束する。
 ところが。
 今度は、武田さんが自分が漫画を描く画材を買いにいった店で、武田さんが服売場で味わったような疎外感を陣内と磯西たちが味わうのである。
 陣内と磯西は、武田さんに次の週、「別行動」しようと提案される。
 一瞬びっくりしたような顔をする武田さん。しかしすぐ陣内がエクスキューズを入れる。

「あっ違うよ 武田さんだけじゃなくて あたしと磯西も別行動で買い物しようって話なのよ」
「そうそう あたしと陣内もけっこう好きなお店実は違うしね」
「でね 買い物終わったら5時にこないだと同じマックでみんな落ち合うのはどうかな そしたらまたこないだみたくしゃべろうよ あの時武田さんと話しててすっごく楽しかったからさ!」

 そして、3人の単独の買い物のイキイキとした様が描かれる。

 なんという細かすぎるコミュニケーション。
 自分の居場所をつくり価値の承認を求めるコミュニケーションは、疲れるけども、大きな快楽が成果として得られることも多い。
 しかし、その果実を手に入れるために、ストレスをがまんしなければならないこともある。それがまた疲れてしまう一因でもある。
 このエピソードは、そこにさらに細やかな配慮を働かせて、ストレスだけをうまく排除して、快楽の果実だけを得ようとした小さな工夫である。

 ある意味、とても涙ぐましい努力だ。

 気遣いは作品中の細かい部分にまで及ぶ。
 春太郎の家におじゃましたクラスメイトたちが、春太郎のおねえさんの「仕事」について何気なく聞くのだが「あ それはいつでもいるぜ ねーちゃん引きこもりだから」と春太郎がサラリと言うのだ。
 聞いた友人は真っ青になる。聞いてはいけないことを聞いてしまったという顔だ。
 ところが姉弟は「そーいう外聞の悪い言葉使わないでよっ!!」とハリセンで頭をたたくなど、あっけらかんとしたやりとりがつづき、クラスメイトのなかからも「うちにもいますよ」とそのあっけらかんとした空気に同調する。
 しかし、仕事を聞いてしまったクラスメイトのほうは、いつまでもいつまでもウジウジし続けるのである。

 


一見いじめにさえ見えるが…

 この作品中、もっとも空気が読めないキャラにみえる真島は、絵に描いたようなオタクで、まったくクラスメイトとの和気あいあいとしたコミュニケーションに興味を示さない。
 しかし、実は真島の親友が証言するように「空気を読めなくないです! 読めなくないです!」のである。
 学園祭のクラスの出し物で演劇をやるようになったとき、一度は主役に抜擢された春太郎であるが、あまりに裏表のないその性格が主役のキャラクターにまったくふさわしくなく、クラス一同どうしようか迷っていたところに、真島が報酬をくれるならやってもいいぞと引き受ける。春太郎は主役を降ろされる。
 演劇は大成功をおさめるが、クラスのまとめ役はおそるおそる打ち上げに真島も来ないかと尋ねる。しかし真島は空気を読む。来てほしくないんでしょ、と。真島は堂々と報酬の上乗せを要求して、さっさと行ってしまうのである。
 いやー、こうやってあらすじだけ書くと、むちゃくちゃ陰湿なクラスみたいに聞こえるかもしれない。

 しかし、これをぜひ漫画表現として読んでほしい。

 実は春太郎は降板となるのだが、実は学園祭で自分の描いた漫画を完成させたくて、クラス演劇にはまったく興味がもてなかったのだった。そして、真島も明らかに打ち上げという「和気あいあい」とした空間が苦手なのだ。

 「主役降板」とか「金を払って打ち上げに来させない」というのは、ものすごくひどいことをしているように思えて——一見するといじめだと思ってしまうような話だが——実はクラスにとっても、二人にとっても、もっとも幸福な選択をしているのである。
 ぼくらは空気を読むあまりこんなコミュニケーションにはなかなか打って出られそうにもない。
 よしながふみは、そこに切り込んで、一見ひどい、しかし実はすべての人が幸せになるという驚くべき空気の読み方、コミュニケーションを構築している。

 ここに描かれたクラスは、冒頭で紹介した「無条件に自分の価値が承認され、たいしたコミュニケーションもなく自分の居場所が与えられる空間」とは対極にある空間である。

「どれぐらい他者からの承認を必要とするかという度合いは、人によっても時代によっても違ってきます。おそらく、高いコミュニケーション能力が要求されるいまの社会ってその度合いが強い社会なんでしょう。そうした社会では、他者とのコミュニケーションのなかでそのつど自分の能力や価値を認めてもらわないといけないという圧力がものすごくあって、そうした社会の圧力にあわせて、個人のほうも『自分の価値を証明しなきゃいけない』『他者に認められないといけない』っていう衝動に強く駆られてしまうんです」(雨宮処凛萱野稔人『「生きづらさ」について』p.37、萱野発言)

 本作は、このような社会のなかで、そのコミュニケーションのわずらわしさを避けたり否定したりせずに、むしろそのわずらわしさにふみこんで作り上げられた世界だ。

 すなわち、高度も高度、アクロバティックとさえいえる細やかなコミュニケーションによって、人間関係の最適解にたどりつけるという、まさしくユートピアである。しかし、そこにぼくらが強い快楽とリアリティを感じてしまうのは、まさにぼくらの日常が疲弊をひきおこすようなコミュニケーションの網で覆われているからであり、それをここまで鮮やかに反転させたよしながに驚くばかりである。傑作。