船戸明里『Under the Rose アンダー ザ ローズ』

 ヴィクトリア朝時代は「偽善」の時代である。

 英文学者の吉田健一は、

ヴィクトリア時代のように各種の偽善が横行した時代はなかった」*1

と記している。ヴィクトリア期にイギリス資本主義を観察した若きエンゲルスも、貴族と中産階級をひっくるめて「ブルジョアジー」と呼び、「『教養ある』イングランド人がこのような利己心を、これほどまでに公然と見せつけていると信じてはならない。逆に彼らはそれを下劣きわまる偽善で隠す」*2と書いている。長くヴィクトリア・イギリスで「支配階級」の一員として暮らしたエンゲルスは、『家族・私有財産・国家の起源』のなかでも、支配階級の家族の「一夫一婦制」を「カトリック諸国では……夫の側でのさかんな娼婦制と、妻のがわでのさかんな姦通」「プロテスタント的偽善」*3と描いた。

 ヴィクトリア期のイギリスでは、それまで日常のなかに普通の「公序良俗」として存在した道徳が、資本家階級(中産階級)の急激な成長、資本主義の発展による貧富の格差の拡大と階級対立のなかで揺らぎ出したがゆえに、その一種の反動として、きわめて厳格な、そして融通のきかない「道徳」として「ヴィクトリア風」が確立する。
 吉田もいうように、「ヴィクトリア風」とは、まず第一に「融通のきかない」「杓子定規な」道徳を意味する。

 他方で、道徳と慣習があまりに一体化したために、慣習をおこなっていさえすれば、それが道徳を体現することとなり、うらはらに「偽善」が横行したのである。


偽善から真実へ

 

 

  本作は舞台設定として、このような「偽善の時代」たるヴィクトリア期のイギリスを選ぶ。
 上記のようなヴィクトリア理解には異論も出ているわけだが、大事なことは作者である船戸明里はヴィクトリア期のイギリス人ではなく、現代日本に生きる人間としてこのヴィクトリア期を選んだということだ。通釈となっている「偽善の時代」という設定を、まさに選んだといえる(いや、実は船戸明里は19世紀のイギリス人なんだよ?ということであればぼくの大不明だが)。

 貴族であるアーサー・ロウランド伯爵の「偽善に満ちた」家庭が描かれる。
 タイトルの「under the rose」は、「ひそかに」「秘密裏に」を意味するイディオムで、表面的な「偽善」のもとで進行する真実を暗示しているかのようである。

 ロウランド伯爵は、妻との間に4人の男子をなすが、日常ではほとんど顔をあわさない。妻であるアンナは、常に眉間に皺を寄せている「陰気」な女性である。
 ロウランド伯爵(まだ39歳)はこの4人の嫡子以外に、貴族の娘でありながら家庭教師としてロウランド家にきていたグレース・キング、そしてロウランド伯爵の職業である医者の助手をしていたマーガレット・スタンリーとの間に、やはり男の子ばかり、2人ずつもうける。
 なるほどこれは偽善に満ちた、病んだ家のようである。

 本作はいくつかの章に分かれていて、すでに完結しているのが「冬の物語」だ。主人公はアーサー・ロウランドとグレース・キングの間にもうけられたライナス・キングである。
 零落したキング家から弟とともに、グレースの死後、ロウランド家に引き取られる。わずか11歳のライナスだが、明晰すぎるほどの頭脳をもち、一切心を開かず、「庶子」「不義の子」として自分を生んだグレースを憎みつつ、グレースがロウランドの家でどのように「死んだか」あるいは「殺されたか」をロウランド家に来て暴こうとする。

 ライナスにとって、自分をとりまく環境はあらゆる意味で「偽善」に満ちている。
 その偽善を一つひとつ暴きたてるなかで絶望的な真実に到達しようとする。
 しかし、それはライナスが予想したこととはまったく別の絶望に満ちた真実が最後に用意されていた。まわりの人々によって殺されたであろうとふんでいたグレースの死は、実は自分が最後に送った、グレースを拒絶する手紙によってもたらされていたことを知るのである。

 こうしてすっかり暴かれた偽善の下で進行していた真実とは、おそらく当事者であれば二度と立ち上がれぬほどの陰惨で絶望的な真実であった。
 だが、驚くべきはここからである。
 作者の船戸は、偽善を剥いで暴かれた真実において、ライナスの救済をおこなうのである。

 実はライナスは、ロウランド伯の子どもではないかもしれない、という事実がうかびあがる。ロウランド伯もライナスもそのことに気づく。
 そうであれば、自分の愛した女性を死に追いやった、「どこの誰の子ともつかぬガキ」にたいして、ひとはどういう態度をとるだろうか。かつ、ライナスは伯爵を短銃で撃ってしまうのだ。
 しかし、ロウランド伯は、ライナスを赦すのである。
 いや、愛した女性の忘れ形見であるからこそ、無条件に愛するのである。

 ライナスは、すべてがすっかり明らかになり、このロウランド伯の言葉を影で聞きながら、窓の外に虹を見る。

 船戸は、その虹に、次の一文をつける。

「これはわたしと、あなたがた及びあなたがたと共にいる
 すべての生き物との間に代々かぎりなく、
 わたしが立てる契約のしるしである。

 すなわち、わたしは雲の中に、にじを置く。
 これがわたしと地との間の契約のしるしとなる」

 旧約聖書の「創世記」の一節で、大洪水にさいしての神の言葉だ。神が人とおこなう契約の証としての虹を、ライナスは弟のロレンスとともに眺めることによって、ライナスの心に救済がもたらされたことがわかる。

 しかし、何と代償の多い解放であり救済であろうか。
 ライナスがここに来るまでに、実母を死においやり、またメイドをも死なせ、多くの人の心と体を傷つけ、「父」までも銃で撃ってしまうのだ。
 ロウランドの次男であるウィリアムは、ロウランド伯を撃ったライナスを前に、冷静に諭す。

「容易く贖えない事でも父は君を責めない
 その意味を一生かかっても自分で理解しなさい」

 偽善の現実の下に埋もれていたものがすっかり暴き出され、愛という真実として発見されるが、それは文字通り死にたくなるほどの絶望を味わわされた後に、やっと訪れる“救済”である。「他者は、つねに私の知を超える者、私の把握をすりぬける者、私の期待を裏切りうる者、私を否定しうる者である」という言葉のとおり、そこには1グラムの自己の利得も入り込まぬ、断絶しきった他者への愛がある。
 偽善の家のようにみえて、ロウランドは偽善の家ではなかった。

 

真実から偽善へ

 ライナスの「冬の物語」が終わると、次はロウランド家にやってくる女性の家庭教師、牧師の娘で厳しい道徳観と教師としての強い使命感をもつ、レイチェル・ブレナンが主人公となる「春の讃歌」が始まる。

 

 

 ここでは「偽善」の構図が奇妙に逆転する。
 何も知らずにやってきたレイチェルは、愛情に満ちた伯爵とそのもとで暮らす家族たちを見て、

「ああ…本当に
 あるんだわ こんな家庭が
 これまでの日々は全て
 今日の日を迎える為の試練だったのよ
 神よ
 素晴らしいお導きに感謝します
 この家で働きたい
 ロウランド伯爵のもとで
 あの子達に教えたい!」

と強く感動するのである。率直にいって、ぼくからみても、ロウランド伯は、ぼくの自己美化像に近く、もし自分が子どもを持てばこんなふうに接する人間になりたいと強く願わずにはいられない、それほどの形象なのだ。レイチェルがそう憧れるのもむべなるかな、という気がする。説明的な設定ではなく、大変説得力のある展開である。
 しかし、この家が嫡子と庶子からなる「不実」の家であることを知るや、レイチェルは奔流のような嫌悪感に襲われる。
 人間が生きる以上きれいごとのように「愛」を発揮できるわけではない。どうしようもない現実をひきずりながら、なおかつそこに錯綜した形で「愛」を見いだすことにならざるをえない。そうではない「愛」というのは、本のなかの「絵空事」、まさに「マンガ」となる。
 そこにきて、レイチェルの真摯さは、本当の「愛」や、真実のゆがみを受け止められない「偽善」に逆に転化してしまうのである。
 主家の人と遊びのような恋をしてはいけないとレイチェル自身が諭したはずのメイドがロウランド家を去るとき、「叶わない恋をして何がいけないの」と捨て台詞とも、まじめな反語ともつかぬ言葉をそのメイドからあびせられ、レイチェルは理解不能という顔をする。「貴女はまだ若いから… 頭に血が上って自分を見失っているだけよ」という型通りの言葉で諭そうとすると、

「かわいそうなミス・ブレナン」

と憐憫に満ちた言葉をかけられるのである。ここでは、レイチェル・ブレナンはメイドの気持ちを受け止められぬ、杓子定規な偽善に転化してしまっている。
 このシークエンス、とくにこのセリフは大変印象的で、ぼくは本を閉じてからも何度も反芻してしまった。「かわいそうなミス・ブレナン」。

 そして、「春の讃歌」はまだ続いているので、このあとの展開はわからないのだが、レイチェルにとってまことに過酷な結末として3巻が閉じられる。読んでいる感触だけいえば、ライナスのときと比べても凄惨な展開だといえる。

 

魅力的すぎるキャラクターたち


 さて、んなことを書いてきたのだけど、根底のところでぼく自身は「欲望」「快楽」としての読みをしている、というのが正直なところだ。

 つまり、ぼくにとって、キャラクターが魅力的すぎるのである。

 「冬の物語」はそうでもなかったのだが、「春の讃歌」に入ってからがもうヤバい。

 つまりレイチェルが、ど真ん中なのである。

 レイチェルは、ロウランド家に家庭教師としてやってくるが、はじめ子どもたちは誰も懐かない。授業にも来ないためにレイチェルは、子どもたちの心を開かせようと奮闘する。
 この奮闘が、まことに教師の王道で、幼虫を掘り出して遊んでいる子どもたちの横にいって「それはユーロミヤマの幼虫ね」と言って興味をひいたり、内緒で使用人に料理を習っている子ども(アイザック)のところにいって、アイザックといっしょにフランス語のレシピを学んだりする。レイチェルがつくった料理のひどさをみて、アイザックは大笑いする。そういう交流のなかで次第に心を開いていくわけである。

 「学ぶこと」の喜びを軸に、子どもたちの心がほどけていく描写を読むのは、ぼくにとって大変な快楽である。学ぶ喜びという点では、山田洋次の『学校』を観たときとか、石川達三『人間の壁』などを読んだときの快楽に似ている。

 「教えられることは教師としての最大の喜び」――というのがレイチェルのスタンスで、教えている最中のうきうきした顔は、こっちまで顔がほころびたくなる。保守側も革新側も憧れている、戦後直後の古き良き古典的女性教師像そのもので、こういう先生にちょっぴり憧れをいだく子どものような気持ちになって読む。

 とくに、ロウランド家の古い家庭教師であるミス・ピックがやってきて「対決」するくだりは圧巻だ。古い抑圧的な方針から子どもたちを守るために怒るレイチェルの描写はまことにすばらしい。

 2巻の途中から3巻まではこのレイチェルの教師としての苦闘と喜びの描写がほとんどである。1巻まではためらいがちについていったぼくも、ここでぐっと引き込まれた。なお1巻もはじめはそれほどの感興をもよおさなかったのであるが、何度も読んでいくうちに、味わいが出てきた。くり返し読むに耐え、かつくり返し読むことで味が出てくる漫画である。


  『ハチクロ』の美和子さんって、もっと知的で杓子定規な不器用さにならないかなーと思っていたし、『エマ』はもうちょっとお姉さん的になってくれないかなーと思っていたんだが、レイチェルはそこにキタ!のである。くー。
 凛とした知性、自らを強く律するモラル、裏返しの不自由さ! 素晴らしすぎる!

f:id:kamiyakenkyujo:20201107110704p:plain

羽海野チカハチミツとクローバー集英社、4巻

 

エマ 1巻 (HARTA COMIX)

エマ 1巻 (HARTA COMIX)

 

 

f:id:kamiyakenkyujo:20201107111132p:plain

船戸明里Under the Rose アンダー ザ ローズ』10 幻冬舎コミックスkindle33/217

 そんなことをいっていると、それこぞレイチェルにパシンと頬を張られて、
「貴方の舌は死の毒に満ちています
 恥を知りなさい!!」
ヤコブの手紙の一節をつきつけられてしまうんだがな!

 長男のアルバートに組みしかれそうになって、眼鏡と髪をほどかれる瞬間なんか、もう死にそう。船戸だって、そういうつもりで描いているんだから萌えてもいいダロ!(なんかセクハラ男のいい分みたいだ…)

 8才児のロレンスの描写も、またかわいらしい。
 実際の育児を体験しているような人からはいかにも「子ども子ども」した類型だけども、それがこの物語にはよく映える。お菓子をみせられて垂涎するロレンス、レイチェルの裾に隠れて離そうとしないロレンス、食べることに夢中でコーヒーをこぼして謝るロレンス――もーだめぽなくらいかわいい。

 くわえて、ロウランド伯爵と、次男のウィリアムの造形。
 どちらも丸眼鏡で、ふだんは人懐っこく笑う伯爵と、冷徹な知性が全面に出ているウィリアム。先述のとおり、どちらもぼくの美化された自画像(注:ハンパじゃない程度に美化された)である。

 ちなみに、ウィリアムは過剰なまでの母子密着のうちにある。いわばマザコンだ。いや、マザコンを通り越して母子相姦の一歩手前であり、「マザコン」などというより、母との関係で父と敵対するという意味では正確に「エディプス・コンプレックス」といったほうがいいかもしれない。
 狂気がまじったともいえる母親への密着ぶりだが、それがまたクールさと同居しているというのがこの男の造形の味である。
 こんなにカッコいいマザコンは初めてみたよ! 光源氏すらメじゃないね。

 こういうマザコンなら、ぼくもなってみたいものである(自分の母親をリアルに想像すると瞬間で挫折するが)。


 なお、船戸のこの作品は「ハニーローズ」という未刊行の作品の連作をなしているようなのだが、そのことを知らなくても充分に楽しめる。また、ミステリーとしての不具合も様々に指摘されているようだが、その程度の瑕疵は本作の価値とはほとんど無関係である。

*1:吉田健一「ヴィクトリア風」(筑摩書房『世界の歴史14 十九世紀ヨーロッパ』p.210)。

*2:エンゲルス『イギリスにおける労働者階級の状態』岩波文庫、下巻、p.215。

*3:エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』岩波文庫、p.93。エンゲルスはここでプロテスタントカトリックをわけて論じ、イギリスは厳密にいうとそのどちらにも属さないが、階級社会の一夫一婦制の欺瞞を共通して次のように皮肉をこめてくくっている。「どちらのばあいにも、結婚は当事者たちの階級的地位によって制約されており、そのかぎりではいつも便宜婚である。この便宜婚は、どちらのばあいにも、しばしばもっとも極端な売春に転化する――往々にして夫婦双方の、しかしごくふつうには妻の売春に。彼女がふつうの売春婦と区別されるのは、彼女が賃労働者として自分の肉体を一回いくらで賃貸するのではなくて、一回こっきりで奴隷制に身を売り渡してしまうことによるだけである。そしてすべての便宜婚について、フーリエのつぎの言葉は妥当する。『文法では二つの否定が一つの肯定となるように、結婚道徳では二つの売春が一つの徳行とみなされる』」(p.94)。妻の「売春」――財産を目当てに「身売り」されることはまさに本作ではアンナに妥当する。