ぼくの高校時代の友人に、好きな女の子に校庭で「好きだー」と大声で叫んだやつがいた。
ぼくは、この感性を、「キモい」といって遠ざけるほど冷笑的に見ることはできないし、かといって「それこそ正しい青春だ」と過度の思い入れを託すこともできない。その中間にいる。
だが、どちらかといえば、それを好意的に見守っているほうだろうと思う。
何に好意を感じるかといえば、そのエキセントリックな行動であり、そのエキセントリズムこそ、進学校的男子高校生オクテ派がひそかにあこがれている自己像の核心なのである。
自分が知的にエキセントリックであることを個性であると同一視し、その知性的なエキセントリズムを理解してくれる女性を待ち望む、というのは、ひそかな願望なのである。
ぼくが中学時代、図書館の「中国思想」のコーナーの前でひそかに待ち伏せして、「同好の女の子が現れないかなー」などと思っていたことは、それに通じる。
エキセントリックな男の子と、それに翻弄されながら惹かれていく女の子というのは、植芝理一『ディスコミュニケーション』の最初の設定だった。主人公がもつ異世界との交信能力は民俗学的な博識に裏打ちされており、この形象はみごとなエキセントリズムの結晶である。そして主人公の恋人役も、メガネという知性的記号をまとった女性で、これも進学校的高校生オクテ派のストライクゾーンど真ん中だといえる。
『ディスコミュニケーション』は、その男女設定に、「どうして人を好きになるの?」という恋愛のテーマをからめながらスタートしたのだが、けっきょくこのテーマは脇におかれ、植芝の異世界描写と自らのペドフィリアへの熱中が作品をまったく別のものに変えていってしまった(したがって、ぼくはもう『夢使い』の途中からは読んでいない)。
とよ田みのる『ラブロマ』は、挫折したこの『ディスコミュニケーション』の初期設定を大胆に再生させ、正しく進行している。
クラスのみんなのまえで堂々と告白する星野くんと、それにとまどいながらかわいいツッコミを大声でいれる根岸さんの、まさに正しくラブラブな恋愛漫画。
それが、星の数ほどある少女漫画のラブロマンスと決定的にちがうのは、まさにそこ、つまり進学校的男子高校生オクテ派の欲望の見事すぎる表現だからである。
とくに、根岸さんとのキスシーン(公園と家)は、あまりにも欲望的な表現だ。どってことないかもしれないこの描写に、ぼくはうちのめされるほどの興奮をかんじる。
ただ、この漫画が単なる欲望表現に終わらず、無類の爽快さとかわいさを印象づけているのは、この漫画を根底で支えているモラルの健全さである。
「根岸さんが嫌なことはしたくないです」
「こうやってなんでも話していけたら俺達は無敵のカップルですよ」
「だいたい女の子がお弁当をつくないといけないなんておかしいじゃない」
このあたりの健全さは、たとえば『ハッピー・マニア』にはない。
それを強迫や臭さとして押し付けないためにも、根岸さんの「突っ込み」があるのだが、これは「テレ」である。その「テレ」が技巧的に成功しているので、まったく説教臭さを感じさせないのだと思う。