あずまきよひこ『よつばと!』

 榛野なな恵Papa told me』にたいして、関川夏央は、妻を亡くした文筆業の父と娘、という人物配置に次のようなコメントをくわえている。

 

Papa told me 1 (マーガレットコミックスDIGITAL)
 

 

 「娘は、セックスをしなくても許してくれる妻である。口うるさいが、やわらかな頬をした小さな母である。再婚しないのは娘のためだというのはいいわけで、たんに彼自身の都合のためでもある。もっとも、徹底したエレクトラ・コンプレックスの娘のほうも、今後永遠に恋愛にもセックスにも悩まずに済むから、心安らかに暮らせるという有利さはあるだろうが」*1

 ほかの登場人物についても思い当たるふしがある。
 父の妹は、ある化粧品会社につとめる、いわゆるキャリア・ウーマンであるが、結婚していない。父を担当している編集者も結婚していない。母親や周囲から結婚せよという無言の圧力をくわえられ、息苦しさを感じながらも、それを精神のしなやかさによって躱していく。

 「このマンガは、頭脳労働にたずさわる三十代の男性たちにひそかに愛読されているという。彼らは文筆家像のスマートさに心ひかれているのではないと思う。老いた青年たちは、セックスをふくめてオトナの女たちから解放され、かつ誰にもうしろ指さされぬ環境に身をおいて、幼い母のもとに安住する生活を夢想している。そして女性読者たちは、なんとかコドモのままで、かわいいとひとにいわれながら人生を終えられる手だてはないものかと考えこんでいる」(※1)

 そのような「三十代頭脳労働男女」の欲望の理想化として、『Papa told me』の作品世界がある。
 こんな世界があればいつまでも住みつづけたい、と。
 榛野にはこのような不思議なユートピアを構築する力があり、『ピエタ』で描出した2人の女性の関係――友人であり、恋人であり、母子であり、同志である――、そして、その2人が世間から隔絶された「子宮のような」海辺の家にずっと住み続ける世界は、傷ついた三十代女性のユートピアそのものである。


 妻のいない文筆関係業と娘。

 あずまきよひこよつばと!』も『Papa told me』と同じ人間関係で出発する。よつばという小さい子どもと、その父親、その近所の三姉妹、などをめぐる日常を描く。実にほのぼのしている。まるでいますぐにでも「サザエさん」の後継番組として出発できそうな「ほのぼのさ」だ。

 

よつばと!(1) (電撃コミックス)

よつばと!(1) (電撃コミックス)

 

 

 

 しかし、その「ほのぼのさ」のうらには、ヲタクが秘めた大いなる野望が隠れている。

 出退勤に拘束されない自由業であり、わずらわしい家族や妻との関係は存在せず、気のあう同性の仲間と、子育ての現実的苦労をいっさい感じさせない娘との関係だけが存在する。『Papa told me』の娘・的場ちせが大人社会の虚妄を見抜く「王様は裸だ」進言役だったのにたいして、よつばは日常の退屈やあるいは日常の構造の堅牢さを粉々に破砕してしまう役割を果たしている。娘は、たえず日常を打ち砕いて、どきどきするような事件をおこしてくれる。帯の「いつでもきょうがいちばん楽しい日」というコピーは秀逸だ。
 いや、それだけではない。
 お隣にいる三姉妹は「美女」「女子高生」「小学生女子」である。表面からは消して回った性は、この3姉妹に息づいており、そのときどきにむけられる、あずまの彼女たちへの性的なまなざしをみるがいい。何も性的なイヴェントは起こらないけど、作品世界のそこかしこに性的な空気が充満している。

 これは、「ヲタク」の欲望を理想化した世界だ。

 ヲタクが、ずっとここに住みたいと願う世界であるといってよい。

 ヲタクはたしかに欲望を隠したりせず、キャラや作品世界を自由に改造し、可憐な主人公に平気でエロをやらせる。だが、それはヲタにとっては、すっぱりと虚構の世界の話なのだ。斎藤環によれば、虚構でたとえば「ロリコン」すなわちペドファイルであるヲタの圧倒的大多数は、日常においてまっとうな異性のパートナーを有し、性生活も「健全」であるという分裂を遂げている。そのような、現実との接点をもたない虚構世界においてヲタは欲望を隠さない(宮崎勤事件でさまざまに言われたような現実と虚構の単純な混同はむしろ希少だといわれている)。*2

 そのようなヲタの欲望の対象そのものとしての虚構世界ではなく、現実の自分が永遠に身をおいていたい世界なのだ。そういう意味では、虚構の、現実へのあやうい越境が行われている作品だといってよい。だからこそ、あずまは、作品世界からむきだしのヲタの欲望を消去したのだが、設定された関係やセクシャリティはヲタの欲望を埋め込んでいる。

 

よつばと! コミック 1-13巻セット (電撃コミックス)

よつばと! コミック 1-13巻セット (電撃コミックス)

 

 

 こんな世界があれば、そこに住みつづけたい。
 わずかな労働のみによって、あとは無数に楽しいこと起こり続ける「楽しい」世界。
 榛野に劣らぬ、ヲタのユートピアの見事な構築である。

 フリッパーズ・ギターは「夏休みはもう終わり」と歌った。
 永遠に終わらない夏休みがつづく世界が『よつばと!』なのだ。


(もし、今後、この人間関係をくずす設定が登場すれば、上記の感想は、一挙に、すべて、崩壊する)

*1:関川夏央『知識的大衆諸君、これもマンガだ』

*2:斎藤環『博士の奇妙な思春期』(日本評論社