つげ義春『リアリズムの宿』

 ここでとりあげた「リアリズムの宿」というのは、主人公の言い分を借りれば、主人公は鄙びた秘湯をたずねたりする旅行が好きなのですが、そこにその土地の“生活の臭い”がしてしまうことをたいへんきらっていて、その生活の臭いを「リアリズム」と主人公独特のことばで呼んでいるのです。

 

リアリズムの宿―つげ義春「旅」作品集 (アクション・コミックス)

リアリズムの宿―つげ義春「旅」作品集 (アクション・コミックス)

 

 

 主人公はまちがって、その「リアリズムの宿」に泊まってしまいます。
 咳き込んで炬燵にじっとしている不愛想な宿の夫。額に絆創膏を貼っているやつれた妻。
 主人公が逃げ出そうとすると「サンビスしますから」とすがりつき、散歩に出る口実で外に出ようとするとカバンを置いていってほしいという……。

 一つひとつが沈みこむように〈みじめ〉で、食事に出すために、鍋に一つだけ入った烏賊を買ってきた妻を描いたシーンで絶頂に達します。これは情けない夕食の素材になります。

 〈貧しさ〉ということに、ひとは、いろんな極彩色をつけたくなります。
 「告発」や「悲惨」であったり、あるいは逆に「庶民の明るさ」や「なつかしさ」であったり。
 むろん、それは正しい態度であり、必要な姿勢だと思います。

 しかし、つげの描く漫画は、〈貧しさ〉、あるいはそれにまとわりついている〈みじめさ〉には、そういう強い調子の色彩や音楽がついてきません。その種の気負いがどこにも感じられないのです。
 むしろ、「無色無臭」の貧しさといっていいでしょう。
 ただ、その「無色無臭」の最後に、じわりとですが、わたしたちは、諧謔のような〈おかしみ〉を嗅ぐことになるのです。

 つげの他の作品でも、たとえば、貧しさのなかで河原の石を売るという「無能の人」シリーズを読んでいても、ぼくらはつきぬけた〈みじめさ〉のむこうに、そこはかとなく〈おかしみ〉を感じてしまいます。

 つげ漫画の解説を書いた漫画家の近藤よう子は、つげの強靱な客観性がつげの作品世界を支え、〈みじめさ〉も〈おかしみ〉も同列にしてしまうのだと言っています。
 ぼくが、「無色無臭」だというのも、この近藤の見解に近いと思います。

 ただそうなると、なぜ、最後に(まさに最後に)、〈おかしみ〉が登場してくるのか、という疑問が残ります。

 エンゲルスが『イギリスにおける労働者階級の状態』を書いたときや、マルクスが『資本論』の「労働日」の章でイギリス労働者の実態を描いたとき、やはり「強靱な客観性」が全体を支えているのですが、つげの作品とはずいぶんちがった色合いが出ています。

 どこがちがうのか。

 それは、「自己憐憫」だとぼくは思うのです。
 エンゲルスはそもそもずっとマルクスを財政的に支援した実業家、ブルジョアジーでしたし、マルクスは極貧のなかにあったとはいえ、労働者階級そのものではありませんでした。
 しかし、つげは、自分が書いている作品世界の〈貧しさ〉や〈みじめさ〉のなかに、ずっぽりとはまりこんでいます。それを「強靱な客観性」によって描破してはいるのですが、やはり筆者自身がその作品世界に溺れこんでいるのだと思います。
 近藤よう子は解説のなかで、主人公とつげは似てはいるが別のものだということをしきりと強調しますが、ぼくは、たしかに別のものではあっても、作者であるつげの一つの面を、デフォルメしたり純化したりして形象にしあげたものだというふうに思います(作品ごとに絵柄がずいぶんとちがうのもつげの特徴ですが、それは彼自身の内面が豊かに分裂していることの現れだろうと思います)。
 そうやって、どこかしら自分に似せた主人公を、「強靱な客観性」をもって描いた〈貧しさ〉や〈みじめさ〉のなかにおくとき、どうしようもない「自己憐憫」の情がわきあがってきて、それが作品にえもいわれぬペーソスやユーモアを付け加えているのです。

 一言で言えば、「客観性」に最後の最後で徹しきれないつげというものがそこにいるのです。

 「リアリズムの宿」は映画にもなっています。