ASEANは「反共の砦」だったか? 民青新聞を読んで

 共産党を「相談相手」にしている民青(日本民主青年同盟)が出している新聞(機関紙)に「民青新聞」がある。その2024年2月12日号を興味深く読んだ。

 というのは、「ASEAN東南アジア諸国連合)は『反共の砦』として出発したのではなかった」という歴史観が明確にそこ(民青新聞同号)に見出されるからである。

 同紙は「東アジアを戦争の心配のない地域へ ASEANの努力に学ぶ」という「論文」めいた特集を「上」「下」に分けて掲載している。しかも同じ号に「上」も「下」も掲載する破天荒なやり方をしている。

 あとで述べるけども、彼らが「相談相手」にしている共産党の「しんぶん赤旗」でもASEANについてのこんな詳細な記事(特集・論文)は見たことがない。そして、ASEANについて何の知識もない、ぼくのようなシロートにもわかりやすい記事であった(もちろん限界はある)。「しんぶん赤旗」読者であっても、民青新聞読者であっても、本当はこういう解説記事が望まれていたのだ。そこに挑戦したことは快挙であると思う。

 

「反共の砦として出発」という見方

 ぼくは前に倉沢愛子インドネシア大虐殺』の感想を書き、同書の次の記述に注目した。

https://kamiyakenkyujo.hatenablog.com/entry/2024/01/20/132318

インドネシア共産党PKI)などの大虐殺をした後〕スカルノからスハルトへの政権交代PKIの消滅によって、インドネシアはそれまでの容共国家から、親欧米的な反共国家へと変身した。東南アジアの勢力バランスは自由主義陣営に有利なものとなり、その結果、反共5カ国からなる東南アジア諸国連合ASEAN)が成立した。(倉沢kindle10/2548)

マレーシアとの関係が緊急に修復されると、それによって、東南アジアの主要国が政治的な結束を図ることが可能になり、翌年にはインドネシア、マレーシア、シンガポール、タイ、フィリピンの反共五カ国からなる東南アジア諸国連合ASEAN)が成立した。これは、当時共産化の道を歩んでいたベトナムラオスカンボジアインドシナ三国に対峙する重要な反共の砦となり、アジア冷戦構造における力関係に大きな変化をもたらした。(同書Kindle1843)

 インドネシアでのスカルノの没落を契機に、インドネシアとマレーシアの修復が進み、これらが「反共」のブロック=ASEANを組んだ、という見方である。

 また、『サクッとわかるビジネス教養 東南アジア』の感想も書いたが、

https://kamiyakenkyujo.hatenablog.com/entry/2024/01/07/140030

 そこでもASEANの結成の経緯は、

ASEANの発足は1967年、「バンコク宣言」を発出したことに遡ります。当時の加盟国は、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイの5カ国。東西冷戦時代、共産主義国家であったベトナムカンボジアラオスに対する「反共の砦」としてスタートしています。(p.76)

として説明され、 やはり「分断・対抗」の象徴としてASEANを捉えている。

 そして、こうした見方がおおむねスタンダードなものではないかと思う。

 

「反共の砦」という見方への批判

 ところが、ネットを多少あさってみるだけでも、ASEANの出発点についてはそうした「反共の砦」ではないという見方を示している小論文をいくつも見かける。

 たとえば山影進(東大教授)「ASEANの変容 東南アジア友好協力条約の役割変化からみる」(国際問題No.576/2008.11)では次のように記している。

ASEANは、その原加盟国(インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ)がいずれも反共政治体制をとっていたため、反共同盟とみなされることが多かった。しかし東南アジアの反共5ヵ国がASEANという地域組織に参加したのは、同床異夢的な思惑を超えて、基本的には善隣友好の確認と相互信頼の醸成を求めたからであった。

https://www2.jiia.or.jp/kokusaimondai_archive/2000/2008-11_001.pdf?noprint

 あるいは、防衛研究所『東アジア戦略概観 2001』には次のようにある。

すべての加盟国が非共産圏に属していたことから、成立当初のASEANは東南アジアにおける反共組織とも見られたが、ASEAN社会主義体制をとる他の東南アジア諸国の加盟にも窓を開いていた。ASEANの成立時に発表されたバンコク宣言では、同宣言の目的や原則に同意する「東南アジア地域のすべての国家の加盟に門戸を開く」と明記されており、その目標は99年のカンボジアの加盟によって実現した。

https://www.nids.mod.go.jp/publication/east-asian/pdf/east-asian_j2001_03.pdf

 

 あるいは黒柳米司(大東文化大)「アジア冷戦とASEANの対応 ZOPFANをてがかりに」(アジア研究Vol.56、No.2、2006.4)には次のようにある。

さらにASEANは、反共で知られる諸国によって構成されてはいた(必要条件としての反共主義)が、反共であることが機構の存在理由だった(十分条件としての反共主義)わけではない。確かに、ASEANが成立し得たのは、1965年の「9・30事件」によるスカルノ政権の崩壊と反共スハルト新体制の登場というインドネシア内外政策の右旋回が不可欠だったということは疑問の余地がない。…しかし、ASEANの主要目標は反共産主義ではなく、マレーシア紛争に集約される域内諸国間の緊張と紛争の再燃を回避することにあった。実際、反共諸国の集合体という固定イメージを払拭することは、その後のASEANの発展過程にとって軽からぬ課題でさえあったのである。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/asianstudies/52/2/52_26/_pdf

 林奈津子(ミシガン大学大学院)「ASEAN諸国による地域安全保障の模索」(1999)もあげておこう。

設立の時期が冷戦最中であっただけでなく、米国にとって東南アジア地域の戦略性が高かったこともあり、域外国は大方ASEANを反共軍事同盟と見る傾向が強かった。しかし、ASEAN諸国にとって反共は一つの共通項ではあってもASEAN結成の直接的な目的ではなく、それゆえに各国政府はASEANの軍事的性格を意識的に否定した。より具体的には、新たに設立する地域機構ASEANを従来の大国主導型の反共軍事同盟から明確に区別する必要があったといえる。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/asianstudies/45/1/45_1/_pdf

 

 ここで共通しているのは、確かに反共5ヵ国が出発点であったが、反共は主目的ではなく、紛争や緊張を回避するための地域協力の機構として出発しようとした、という認識である。

 簡単に言えば、域外の大国(米ソなど)によって緊張・分断が持ち込まれ、紛争・戦争の巣窟のようになってしまっている現状から、域内の主体性を取り戻し、紛争や緊張を避けるような仕組みづくりをどう作っていくかと言うことが、最初から問題意識としてあったということである。

 ベトナムカンボジアラオスなどのいわゆる「社会主義国」がそこに最初は加盟していないのは、むしろASEANを「反共軍事同盟」とみなしていたからではなかろうか。

 

民青新聞記事のぼくなりの3つの注目点

 さて、そして「民青新聞」のこの号の特集である。

 「民青新聞」はよく共産党の政策担当者や協力してくれる学者などに論文っぽい記事を書かせている、あるいはインタビューを載せることが多いのだが、この号については、無署名である。つまり、「民青新聞」編集部が書いている、もしくは民青の幹部が書いていると言うことになる。

 「前半」の記事は日本共産党ASEAN訪問および同党の「外交ビジョン」の要約のようなものだが、「後半」はASEANの歴史を紐解いている。これはなかなか勉強になる、と思った。どのように勉強になるかといえば、「ASEANの出発点は反共ではなく地域協力を問題意識としていた」ということを資料などで後づけているからである(物足りない点もある)。

 いくつか注目した事実を書いておく。

 第一に、ASEAN発足前後の1946-1979年は「世界の戦死者の80%は東アジア地域に集中」(同号)し「その後半の時期の死者は、ベトナムカンボジアでの戦争が大きな要因」だったというスウェーデンのウプサラ大学の研究を紹介していることだ。

 ここで「東アジア地域」と言うのは、東南アジアを含めた地域のことだろうと思うのだが、何も記述がないのでわからない。

 記事は東南アジアの政治指導者の言葉を紹介して、ASEANを作ろうとした1967年ごろは、戦争・紛争の地域であり「分断と敵対」が特徴であったことを紹介する。

 日本は今中国・北朝鮮などと緊張関係にある。「ロシアや中国が攻め込んでくるかもしれないぞ」「北朝鮮のミサイルが来るかもしれないよ」と宣伝され、連携国であるはずの韓国との間でも歴史・政治的摩擦を抱えている。

 が、そんなレベルではないのだ。当時の東南アジアは。

 そこからASEANのような地域協力の枠組みが発展していくなど、誰が想像できただろうか?

 

 第二に、ASEANの出発点の理念が地域協力であったということを、記事は、紙幅の制約はあるものの、宣言文などからできるだけていねいに読み取ろうとしているのである。

 たとえば1967年の設立宣言。

 あるいは1971年の「東南アジア平和・自由・中立地帯宣言」。

 これらに、非同盟運動バンドン会議(1955年)の影響が盛り込まれているというのである。

 「読み取ろうとしている」というのは、たとえば、先ほどの「東南アジア平和・自由・中立地帯宣言」において「平和・自由・中立」という概念の関係をバンドン会議の原則から次のように記事は説明している。

 ここにも、バンドン会議の成果が反映されています。バンドン会議は、植民地主義は速やかに終わらせるべき害悪であり、他国による民族の支配は基本的人権の否定、国連憲章違反であると断じ、すべての民族の自由と独立への支持を高らかにうたいました。そして、「自由と平和は相互に依存している」とし、国際平和を実現するには諸民族の自由と独立が欠かせず、自由と平和は切り離せない、としています。

 平和・自由・中立地帯宣言が、まず「平和・自由」をあげたのも、そうした経過や歴史を踏まえてのことでした。

 そして「中立」について、この宣言の作成過程で、次のように定義されました。「戦時に公平な立場を保つという従来のコンセプトより広く、この地帯は思想、政治、経済、武装あるいはいかなる形の紛争、とくに域外の大国同士のこれらの紛争に直接、間接に巻き込まれず、域外勢力はこの地帯の地域問題、諸国の地域問題、諸国の国内問題に干渉してはならない」(72年ASEAN非公式外相会議)

 「中立」と聞いて、われわれは、戦争のときにどちらにもつかないということをイメージする。記事ではそれを「消極的中立」だと紹介し、ASEANは一歩そこから踏み出していると述べる。その地域の自主独立こそが中立なのだというわけである。

それは、紛争の一方の側を選ばなければならなくなるような事態に至らないように、主体的、積極的に関与・努力し、自ら地域に平和的な環境をつくりだしていく「積極的中立」の姿勢につながり、現代の「ASEANの中心性」へと進化していくものです。

 戦争になってしまって、さあどっちにつくか、どっちにもつかないよ、というような話ではなく、そもそもそのずっと手前から、「地域の外の大国」の自分たちの地域への干渉・関与の仕方を、積極的にコントロールするんだぜ、というわけである。ノータッチ! というわけでもなく、関係を積極的に持つけど、そんときはこういうルールで関わってくれよ、そして俺たちのこういうルールに従ってくれよ、と細かく確認していくし、粘り強く話し合って「いやいや違う、そうじゃなくて…!」という異論も言わせてもらうし、直してもらうよ、というようなイメージになる。

 それがASEANの今の姿だし、たとえば中国の南シナ海での横暴ぶりについても一つ一つただして、枠にハメていこうとしている。それを「全然中国なんか聞いてくれんやんwww」と嗤うことはたやすいが、即効性はなくても少しずつコントロールをかけていっているということはできる。

 

 第三は、そのようなASEANの取り組みの具体化としてTAC(東南アジア友好協力条約)とそれに基づく取り組みがあることが、記事でわかりやすく示されている。

 以上のような経緯を知って初めて、TACというものがどういうものか理解できるようになる。

 よくぼくが現場にいる共産党員などにASEANのどこがいいかを尋ね、その際にTACとはどういうものか聞くのだが、「紛争の平和解決し、話し合いで決める」とだけ説明される。しかし、それだけなのだ。そんなことだけ聞いても「国連憲章でさえそう定めているその原則をわざわざまた定めて何の意味があるの?」としか思えなかった。

 その点で記事はTACの役割についてちゃんと説明してくれている。

 まず、TACは前述の「平和・自由・中立地帯宣言」の具体化の作業である。

 TAC前文には国連憲章だけでなく、前述の2つの宣言、そしてバンドン原則との適合をうたっている。紛争の平和解決はその通りだが、

  • 相互尊重
  • 外部から強制・転覆されない権利
  • 内政不干渉

などがその前に定められていることが、まさに大国に干渉され振り回されて戦火が絶えない紛争地帯にさせられた歴史を踏まえている。

 そして

87年にはTACを域外に開放。ASEANと協力を望む域外国が、まず取り交わす約束の文書とされました。東南アジア諸国はすべての国々との友好を発展させることを望んでいますが、この地域で平和原則を守らない国とは親しく付き合わないという原則的な立場をとっています。

という発展をとげる。ここがポイントだろう。域外の大国・小国とは大いにつきあうけど、まずわれわれが示すこのルールを守ってよね? 守れないなら相応のつきあいはできないんだけど? と一札入れてもらうわけである。これはまさに東南アジアが舐めてきた歴史的な辛酸が反映されている。

 しかも、TACは「基礎」である。

 その基礎の上に、域外の国々との意思疎通や関与を細かく調整する具体的な枠組みを無数にASEANは用意してきた。

 それがARF(ASEAN地域フォーラム)、EAS(東アジア首脳会議)、そしてAOIP(ASEANインド太平洋構想)である。

 ただ、それぞれの枠組みが具体的にどのように関係国を調整してるかは、この記事だけではよくわからない。そこを解明するような新しい記事や解説がぜひ読みたいものである。

 

 東南アジアの紛争・緊張の歴史を踏まえ、ASEANという地域協力の努力を見てみれば、ロシアとNATOの対立から、「軍事同盟・軍事ブロックに入らないとヤバい」「大軍拡をして備えないと!』というような安全保障上の主張が短絡的に過ぎることがわかる。もちろん、軍事の選択についてはこうした地域協力の枠組みとは別に考えてもいいことだとは思うが、ベースとなるべき地域協力の取り組みが日本ではほとんど議論されたり、評価されたりしていないことは恐ろしいことだと思う。

 そのような日本の貧しい安全保障・外交のあり方へのオルタナティブとしてASEANを振り返ることは重要だし、共産党の外交ビジョンや今回の民青新聞の記事は貴重なものだと言えるだろう。

 

 ぼくもASEANの出発点について認識を変えたし、いろいろ勉強になった。いい記事である。

 

補足

 当の日本共産党については、このブログの前の記事のコメントで2001年3月の「前衛」論文「東アジアに強まる平和の流れ ASEANの歩みとARF」(北原俊文/赤旗外信部記者)でASEANの評価を大きく変えたという旨の情報があり、同誌を入手した。*1

 この北原論文では、ASEAN結成当初の性格をどのように規定していたのかを見てみよう。

 しかし、創立当初のASEANは、SEATOのような反共軍事同盟ではなかったにしても、たぶんに反共色の濃い、インドシナと対立する国家群であった。ベトナムからは「ASEANなるものはアメリカ帝国主義が東南アジアにおける自分たちの侵略政策に奉仕する手先たちを結集することを目的にしたもの」(ベトナム労働党〔現共産党〕機関紙ニャンザン、七一年一二月一日付)とみられていた。

 それでも、機構としてのASEANは、インドシナを共通の仮想敵とする欧米主導の反共軍事同盟の道にすすむことはなかった。むしろ、東南アジアのすべての国に加盟の門戸を開いていた。

 この通りで、だいたい前述の、「単純に反共の砦とは言えない」というネット上の諸論文と同じようなトーンである。

 

 しかし、北原論文は次のような指摘もしている。

 しかし、ASEANが創立当初から「平和と進歩の流れの強力な国際的源泉」の役割を果たしていたわけではない。東南アジアがASEANインドシナの二つの国家群に分裂していては、ASEAN創立のバンコク宣言にうたわれた目的自体も実現不可能であった。とくに、ASEAN加盟国のタイとフィリピンが米国のベトナム侵略戦争に直接巻き込まれおり、「ドミノ理論」の影響も受け、国内にも反政府武装活動を抱え、米国も「反共の防波堤」としてASEANを重視してテコ入れしている状況では、ASEANが独自の役割を果たせる余地は少なかった

 ASEANが転機を迎えたのは、やはりベトナム侵略戦争終結後である。

 つまり、理念としては全てを包摂する地域協力の方向性はASEAN創立当初からあったものの、実際にそれが稼働し始めたのはベトナム戦争後である、というような認識だろうか。それ以前は、ASEANとしてではないが、ASEANに原加盟していた非インドシナ5カ国は、実際にはアメリカなどとの反共軍事同盟的な活動をしていた…ということであろう。

 

*1:北原論文にも出てくるが、すでに前年(2000年)に行われた第22回日本共産党大会の決議ASEANについては、「東アジア地域」で1990年代に起きた「平和の激動」として「東南アジア諸国連合ASEAN)の動き」が規定され、「ベトナム戦争時代の対立を克服し、東南アジア十カ国すべてが参加する地域協力機構として発展している」と記述。東南アジアを「平和と進歩の流れの強力な国際的源泉を形成」と評価している。ちなみに、同決議では「ASEANは、すでに七〇年代から平和・自由・中立の志向を強めていた」とされている。

『ニッポン政界語読本 単語編』『会話編』『公務員の議会答弁言いかえフレーズ』

 政治家や役人が使う言葉の異常さ・奇妙さは、日々SNSで指摘され、ネタにされている。中には「ご飯論法」のように、公式の答弁としての基礎を破壊してしまうような重大性を抱えている言葉の使い方さえある。

 

 本書はイアン・アーシーという、一見すると「ずいぶん怪しい名前」(p.3)だが、「正真正銘のへんな外人」(同前)として実在するカナダのフリー翻訳家が書いた、日本の政界にはびこる特殊な単語・会話を取り上げて、それを理解し、うまく使いこなすための本である。練習問題までちゃんとついているワークブックなのだ。

 

 

 

 ぼくが読んで「なるほど」と思ったのは、『単語編』の冒頭にある「原則として」と「総合的に」である。

 まず「原則として」。東京オリンピックパラリンピック中のアスリートの検査頻度についてただされた、丸川珠代の次の発言をいじる本書のくだり。

 

文例(レベルチェック用)

ありがとうございます。このご指摘の論文は、もう既に皆さん、取材でお読みいただいていると思いますけれども、私どもがきちんと読ませていただきましたところ、明確な事実誤認や誤解に基づく指摘が見受けられます。まず、明確な誤認についてですが、論文ではアスリートへの検査頻度が明確ではないとしていますが、プレイブックには、アスリートに対しては、原則として毎日検査を実施するということが明示してあります。(二〇二一年五月二十八日)

解答の求め方

 このなかに典型的なぼかし言葉が潜んでいますが、みなさんはわかりましたか? いっしょに問題を読み解いていきましょう。

 選手の検査頻度がはっきりしないという論文の指摘を、丸川大臣は「明確な事実誤認」と片づけていますね。その根拠は、プレイブックに「原則として毎日検査を実施する」と「明示」してあること。当時のプレイブックを確認したら、たしかにそう記されています。

 でも、ちょっと待ってください。「原則として毎日検査を実施する」とは、どういう意味でしょうか。意味の近いものを選んでください。

(1)毎日かならず検査をやる。

(2)いちおう毎日検査をやるようにするけど、毎日やらない場合もあるかも。

 答えは(2)ですね。これで検査頻度は「明示」してあると言える?

 まあ、丸川大臣だったら言えるらしい。そこが「原則として」の妙味なのです。具体的な数字や基準を示しながら、それに拘束されるのを避けるための、例外の余地をいくらでも残すことができます。一方、聞いている側は「原則」という重々しい響きに惑わされ、そのトリックになかなか気がつきません。とくに口のうまい政治家に言われた場合は。

 というわけで、レベルチェック問題の正解は「原則として」ですね。お役人や政治家が好んで使う典型的なぼかし言葉なのです。(『単語編』p.12-13、強調は特に断りがない限り引用者。以下同じ)

 

 朱書きの部分は「原則として」という言葉について解像度をあげて観察し、どのような効用を持っているか、そしてなぜ騙されてしまうかが、簡潔に書かれている。

 これに加えて、丸川の場合、この該当ルールの持ち出し方が、思わせぶりで、自信満々なところ「明確な事実誤認や誤解に基づく指摘」「まず、明確な誤認についてですが」もそうした「ぼかし」を効果的にしている一因なのではと思わざるを得ない。

 あまりにもはっきりと書いてあるよね、見落としちゃったかな? みたいな。

 これをもし自信なさげに言ってしまったら、全く成り立たないだろう。

「あー、あの、プレイブックの方にはですね、一応『毎日検査を実施する』って書かれてるんですよね。まあ、あの、『原則として』ということではありますが。はい。だから、検査は毎日きちんとやることがですね、その、基本になってはいるんですよね。ええ」

 

 著者はちゃんとオチも書いている。

 みなさん、正解できましたか? 正解できなかった方もだいじょうぶ、ご安心ください。本書での学習を終えたら、この手のまやかしを見抜く能力はしっかり身につきます。

 原則として保証します。(同前p.13)

 「参考」のコーナーではギャグにまぶして次のようなことも書いていて、まさに「参考」になる。

 プレイブックの英語版では「原則として」の部分はin principleとなっていました。例の医学雑誌の論文の著者たちはこのin principleをどのように解釈したのでしょうか。標準的な英英辞典でこのフレーズを調べてみましょう。定義はじつにおもしろい。

「理論上ありうるものの、現実にはそうなるともかぎらないとことを示すのに使われる」

 著者たちは「原則として毎日検査が実施されます」の「原則として」をこのようにとらえたにちがいありません。だからこそ、検査頻度が明確ではないと主張したんでしょう。この英語の定義はそのまま「原則として」にも当てはまりそうですね。(同前p.13)

 著者は、この「原則として」がさらに日本の政治文化の中では例外との逆転を果たしてしまうことを、やはりユーモアの中で暴露していく。具体的には老朽原発の運転の「原則40年」という期限が、一つも守られていない状況となり、さらに岸田内閣になって完全に原則と例外が入れ替わってしまったことを国会答弁から明らかにしている。

 抜け穴という例外を拡大してついには原則との逆転をさせてしまうという転倒を、著者は見事に描いている。その最終的な形として「軍隊は持たない」とした日本国憲法第9条をあげ、「原則としてこれを保持しない」「原則としてこれを認めない」という「原則としての平和国家」を描き出す。

 考えてみれば、このように、小さな建前の抜け穴だったものが、いつの間にか現実の大きな原則に入れ替わってしまっているという政治の現実は無数にあるのではないかと思いをいたす。

 

 たとえば、次のような条文はどうだろうか。

博物館法 第26条 

公立博物館は、入館料その他博物館資料の利用に対する対価を徴収してはならない。ただし、博物館の維持運営のためにやむを得ない事情のある場合は、必要な対価を徴収することができる。

 すでに「博物館の維持運営のためにやむを得ない事情のある場合」に限らず、入館料を徴収するのが当たり前になっている。

 あるいは、次のような条文。

財政法 第4条 

国の歳出は、公債又は借入金以外の歳入を以て、その財源としなければならない。但し、公共事業費、出資金及び貸付金の財源については、国会の議決を経た金額の範囲内で、公債を発行し又は借入金をなすことができる。

 もはや説明の必要もないだろう。

 

 次に「総合的」。

 本書では、安保法制、日本学術会議の選任などをめぐって「総合的に判断」「総合的・俯瞰的に判断」という言葉が、まったく具体性がなく、馬鹿らしいほど堂々巡りをしている様を国会での質疑応答から暴き出している。

 この言葉は、福岡市議会でもみた。

 市の名義後援が取り消された企画は文化芸術基本法に定める「文化活動」にあたるもので、名義後援取消などの形での行政の介入を禁じているではないかと共産党(山口湧人市議=当時)が追及している。

◯山口(湧)委員 本市は、2015年に平和のための戦争展の名義後援を突如取り消し、翌年から3年間名義後援をしない措置を取った。この平和のための戦争展は、文化芸術基本法における文化活動に当たると思うが、所見を尋ねる。

△総務企画局長 名義後援の審査に当たっては、催事の趣旨や全体としての内容が総務企画局総務課が所管する業務の行政目的に合致していることを前提として、その内容に特定の主義主張に立脚するものや特定の宗教を支持するもの等が含まれていないか、営利目的でないかなどを審査し、本市の名義後援の使用が妥当かどうかを総合的な観点から判断しているものであり、同法における文化芸術活動であるか否かを判断しているものではない。

◯山口(湧)委員 文化活動に当たるかどうかは明確に判断していないということか、明確な答弁を求める。

△総務企画局長 同法においては、文化芸術活動とは文化芸術に関する活動と規定されていることから、平和のための戦争展は同法における文化芸術活動に含まれるのではないかと考えているが、市の名義後援の審査に当たっては、特定の主義主張に立脚するものや特定の宗教を支持するもの等が含まれていないかなどを審査し、本市の名義後援の使用が妥当かどうかを総合的な観点から判断しているものであり、同法における文化芸術活動であるか否かを判断しているものではない。

◯山口(湧)委員 同法では、市が名義後援を行って支援するときも事業の内容には介入してはならない。今の答弁は同法の趣旨と明確に矛盾していると思うが、所見を尋ねる。

△総務企画局長 名義後援の審査に当たっては、催事の趣旨や全体としての内容が総務企画局総務課の所管する業務の行政目的に合致していることを前提として、その内容に特定の主義主張に立脚するものや特定の宗教を支持するもの等が含まれていないか、営利目的でないかなどを審査し、本市の名義後援の使用が妥当かどうかを総合的な観点から判断しているものであり、展示物の内容が同法における文化芸術活動であるか否かを判断するものではない。(2020年9月23日)

 文化(芸術)活動なら介入できないだろ? 文化(芸術)活動ではないのか? という質問への回答を執拗に避けて「総合的に判断」を繰り返している。

 

おいおいマジで書いている本もあるんだけど

 そうなのだ。

 実は、この「政界語読本」は当然理事者・当局者、つまり行政側の答弁として使えるのだが、あくまでの本書イアン・アーシーはそれを皮肉るためのギャグとして書いている。

 ところが、それを真顔で本にしてしまっているのがこちらである。

 森下寿『公務員の議会答弁言いかえフレーズ』(学陽書房)。

 こちらはいたって大まじめ。

 「すぐに使える鉄板表現70!」とあるように、地方議会の答弁として本気でこれを使って欲しいという誠実な気持ちで書かれている。著者・森下寿(もりしたひさし)は筆名。プロフィールを見ると「基礎地自治体の管理職」ということだ。つまり覆面で現役の管理職公務員が書いているのである。イアン・アーシーの「怪しさ」とは真逆である。

 まあ、表紙に書かれている「言いかえ」だけでもみてやってくだされ。

 おおっ、「総合的に判断」が出ている!

 担当課としてはやる気があったのに、財政当局にカットされてしまったのだが、その無念をそのまま口にするわけにはいかないのである。

 「ここがポイント!」には

予算案はあくまで行政が一体となり提案するもの。本音は言外に匂わす程度に。(p.16)

と「やさしく」解説している。本文はさらに詳しい。

 こうしたとき、答えに窮して思わず口にしてしまいそうになるのが、「財政課に予算を切られました」というフレーズです。「自分は担当課長として、議会側の要望も踏まえて財政当局に予算要求したのだが、結果的に査定で切られてしまった。やることはやったけれど、財政家が予算化してくれなかったのだ」——。そんな重いから、ついこのような答弁〔財政課に切られました〕をしてしまうのです。

 しかし、これは役所全体から見れば×の答弁です。なぜなら、予算案はあくまで行政が一体となり、議会に提案するものだからです。

 このため、「総合的に判断して見送りました」または「全庁的な判断として見送りました」が適切な言い方です。これだけで、「担当としては予算要求したのですが、予算案に盛り込まれなかったのです」ということを議会側は察してくれます。(p.17、強調は原文)

 いや、全然察してくれない議員もいると思うけど(笑)

 

 ちなみに、「実施する可能性のあることを提案されたとき」(p.20)

×「実施するかどうかわかりません」

◯「今後、検討します」

 

「当面は実施予定のないことを提案されたとき」(p.22)

×「今後、実施するかどうかわかりません」

◯「今後、研究してまいります」

 

「実施するつもりが全くないことを提案されたとき」(p.24)

×「実施するつもりはありません」

◯「それも考え方の一つと認識しております」

 

「すぐに実施できないことを提案されたとき」(p.26)

×「時期尚早です」

◯「現段階では課題があると認識しております」

 

 まさに役人用語だけど、この本は、なぜそのように翻訳すべきなのかがあわせて書かれていて、役人側からの事情がよくわかるようになっている。

 補聴器の補助制度を福岡市で求めると「他都市の動向を注視してまいります」と答弁されるので、実際には注視などしておらず、「本市での実現は無理だ」と言われていることになる。

これ〔「他都市の動向を注視してまいります」答弁〕によって、時間を置くことを表明できます。一時的に脚光を浴びた事業だとしても、それは短期的な評価であって、長期的に見て本当に妥当なのかが判断できないからです。実際に実現するにしても、本当に本市にとって効果的なのか、さまざまな視点から検証することが必要です。

 このため、「先進事例は、すぐに実現の可否を表明しない」ほうが無難なのです。(p.29、強調は原文)

 

 答弁だけではない。

 議員との付き合い方も書いてある。

 

「本会議質問の内容を作成してほしいと依頼されたとき」

「本会議質問の内容をなかなか教えてもらえないとき」

「委員会で特定の質問を依頼するとき」

「すぐに資料がほしいと言われたとき」

「過大な資料要求があったとき」

「議員が自分の話ばかりするとき」

「他の管理職に対する苦情を聞かされたとき」

 

 

 この種の本は「誰が読むんだ」と思いがちだが、意外に類書は多い。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 以前高校の同窓会で、県の議会答弁を書く側に身を置くようになった同級生と話したことがあるが、答弁の温度・匙加減の話でめちゃくちゃ盛り上がった。そういうことなのである。

 

 

 

おづまりこ『ゆるりより道ひとり旅』

 40代女性のコミックエッセイである。表題の通りだ。

 本作では、京阪神の各所に出かけて食べ歩きをしている。

 この作者については、つれあいの方がよく知っていた。彼女がネットでよく見かけるからである。『わたしの1ヶ月1000円ごほうび』なども知っていた。つれあいは「食べ物がうまそうに描けているよね〜」という評価を持っていた。つまり、つれあいは、非常に素直にこの作品を、テーマどおりに読み、受け取り、楽しんでいるのであった。

 その差だと思うけど、ぼくは食自体にはそれほど執着がない。グルメではない、という意味で。だから、つれあいのように、「あっ、これ食べてみた〜い」というような感想ではなく、全く別のところに反応してしまった。

 

 例えば、作者は、まず京都で「パンづくし」のひとり旅をする。

 「パンづくし」…?

 「京都はパン消費量No.1」なのだそうで、そこで作者は京都(市)の「パン屋で思いっきり買いまくる」という旅を計画するのだ。

 ぼくもパンを食べるのは嫌いではない。だが、例えばぼくはつれあいとほぼ毎週のように日曜日に散歩をして、そのたびにつれあいはお気に入りのパン屋に行き、しこたまパンを買って帰るが、そこまでの執着はない。パンならなんでもいいのかといえば、近所のいくつかのパン屋はダメで、2キロほど離れたショッピングモールにあるパン屋で必ず買う。そういうこだわりがあるのだ。

 この作者はそれに輪をかけた感じで、京都で行きたいパン屋をリストアップして、買いまくるという旅に出る。

 「そんなに食べられるわけないだろう」というのが初手の感想。

 ところが、作者は期待値を上げるために旅行の1週間前から朝は好きなパン食にせず、グラノーラに替えて「パン断ち」をするほどなのだ。

 買いすぎてはならないと作者が自戒をするために、容量の決まった保冷バッグを持って「これがいっぱいになったらその日の買い物終了」というマイルールを定め、京都でパンを買う旅に出る。

 買ったパンは、どれもぼくからみて濃厚なのものばかり。

 それをどんどん買っていく。

 最終的に2日間の旅行で13個のパンをゲットするのだ。

 「え、それ全部一気に食べんの?」と思ったら、冷凍して小出しにして食べるのだそうである。冷凍してまで…!? というのが率直な驚き。

 しかし「小出し」にはならず、どんどん食べてしまい、1ヶ月後、体重が2キロ増えてしまったという。

 この第1章を読んで、すでにその旅行のありようが、想像を絶するものだった。「そう? これくらい当たり前では?」と作者ならずとも思う人もいるのかもしれないが、ぼくには考えられないパンとの距離感だった。

 

 むしろ京都の旅行という点では、本書第6章の「京都で懐かしおもいで旅」の方に親近感が湧いた。

 作者は京都で学生生活、しかも出町柳近辺で生活していたらしく、それを懐かしみながら(食べ)歩くという旅だったのだが、ぼくもよく知っている場所などが頻繁に出てきたのである。

 特に「出町ふたば」の「豆餅」。並んで買ったとあるが、あ〜あそこの豆餅うまいよね〜と思いながら読む。そして、下鴨神社、鴨川、一乗寺、自転車…懐かしい。

 ぼくも若い頃によく行った店が今どうなっているのか見てみたいし、そこで食べたものをもう一度食べてみたいという気持ちになった。本書で紹介されていた店に行きたい、という感想ではなく。

 「友楽菜館」とか「おらんじゅ」とか「セカンドハウス」とか「進々堂」とか「まどい」とか…。今あるかどうか知らないけど。

 

 第3章の最後にある「旅する前の情報収集」というコラム的なところで、「行きたい店リスト」を作るときに、ネットで探すとなかなか好みの店が見つからず、雑誌で目星をつけるという方式をとっていることに注目した。

 確かに「ネットで探す」というのは、本当にいい店なのかどうなのかわからないのである。作者は2年分くらいの雑誌のバックナンバーを揃えるという徹底ぶりなのだが、なるほどそのようにセレクトがかかったものの方が逆に効率がいいのだろうと思った。そのせいで作者は、かなりの数の古雑誌を抱えてしまうことになるのだが…。

 

 第5章では神戸に出かけている。

 ここで「バーに入る」というクエストをやっているのだが、ひとり旅のエッセイなんか描いているから、そういうところはひょいひょい入れるのだろうと思っていると、さにあらず。

 「ひとり飲み」にめちゃめちゃ緊張している。

 ぼくも、一人で飲み屋やバーに入ることはまずない。

 よく飲みにいく友人がいるのだが、その人は、ぼくと二人で飲んだ後、別れて一人で飲み屋にいく。あとで話を聞くと飲み屋やバーで一緒にいた人たちやマスターなどと話をして仲良くなっている。

 一体どうやってそんなことができるのだろうといつも不思議に思っていた。

 この章では、そのような「ぼく状態」であった作者が、酒の力を借りて、どうやって「ぼくの友人状態」のような社交性を発揮するのかが描かれている。そういうふうにすればいいのか…。

 

 まるでぼくとは嗜好が違うから、本書を果たして楽しめるだろうかと思ったものだが、なかなか楽しく読めた。

 

倉沢愛子『インドネシア大虐殺』

 東南アジア関連の本を読んでいて、“インドネシアは一番民主的な国”という評価をみた。

 ぼくの記憶の中に「インドネシアでは共産党員が200万人くらい虐殺されていたと思うけど…」という断片が浮かび上がる。

 むろん、それは「昔」の話のはずだから、そのままではあるまい。

 いったい、あの事件はどういうもので、今どんな評価がされているのか。そして政体や政治的空気はどうなっているのか知りたいと思っていた。

 そこで本書を手に取った。

 2020年というごく最近に出た本であったが、ぼくは知らなかった。

 この事実を聞いたこともないという人も多かろう。事件の概要は次のとおり。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-07-29/2012072907_01_1.html

9・30(きゅうさんまる)事件 インドネシアで1965年9月30日に発生した軍内部「左派」の将校によるクーデター未遂事件。当時のスハルト少将(68~98年、大統領)を中心とする陸軍は、インドネシア共産党が事件に「関与」したとして弾圧。アイジット書記長など指導部をはじめ数十万人に上る党員と家族、支持者らが虐殺され、300万人いたとされる同党は壊滅しました。

 9.30事件は8人の軍幹部が殺害された事件。これとは区別して、その実行の裏で糸を引いていたと決めつけられたのがインドネシア共産党で、その後大虐殺が全土に広がっていくのである。

 当時インドネシア政権の指導者はスカルノで、インドネシア独立運動および世界の非同盟運動のリーダーの一人であった。アジア最大規模の巨大勢力を誇っていたインドネシア共産党を重用する名うての「容共派」であったが、この9.30事件から続くインドネシア共産党弾圧=大虐殺を通じて、実権を失い、幽閉され、1970年に死亡する。デヴィ夫人は、このスカルノの第三夫人であった。

 

 本書で最も衝撃を受けたのは虐殺の様子を描いた第Ⅱ章「大虐殺——共産主義者の一掃」だ。

 50万とも200万とも言われ、いまだに正確な犠牲者数さえ明らかでないのだが、カンボジアポル・ポトの虐殺に匹敵するような規模で、インドネシア共産党PKI)員やそのシンパと見なされた人が短期間のうちに殺害されている。

 本書はこの広がりを次のようにまとめている。

九・三〇事件の後、八人を殺害した容疑で直接の実行犯やその背後にいた関係者に掲示的な制裁が科され、これをもってスカルノ政権は事件の幕引きを図ろうとした。しかし責任追及を求める声はそれだけでは止まず、まもなく官公庁や国軍の人間を中心に大規模な「思想狩り」がおこなわれ、司法の手を超えた制裁が下される様になる。そして、直接・間接を問わず、事件に関与した者は容赦なく粛清された。(本書kindleNo,1010)

 「思想狩り」は「スクリーニング」と呼ばれた。徹底的な査問によって思想チェックをして、党員であるというだけでなく「左寄り」とされた人も広く狩られた。

 初めは逮捕し、投獄する形だったが、やがて牢があふれかえるようになる。

やがて事態は悪化し、共産主義者を一掃するために、「拘留」ではなく「殺害」するという極めて残酷な手段がとられるようになる。虐殺はまだスカルノPKI非合法化に反対してる段階からすでに始まっており、怒涛の勢いで各地に広まっていった。虐殺に加担した人々は「(九・三〇事件で殺された)将軍一人の命に対して一〇〇万のPKI党員の命を!」と叫んで街頭に繰り出した。(本書1122)

 それを行ったのは誰だったのか? 住民などが直接は手を下した。

 この大量殺戮は、PKIとその関連団体に対する住民の怒りが「自然発生的に」噴出したものだと公的にはいわれている。確かに殺害に手を染めたのは、治安組織や官憲ではなく、民間人であったが、それは必ずしも「自然発生的」なものではなかった。個々人が自分の意志で手を下したのではなく、殺害者はある種の集団単位で動員されている。そしてその地方によって、行動の中心となった組織は様々である。(本書1128)

 最も多かったのはイスラム系団体の青年組織だったという。また、反社会的勢力も殺戮に加わっている。

 武器は、銃などではなく、日常生活で使う蛮刀や鎌などだという。

軍隊が登場して銃で発砲、というケースは極めて少ない。(本書1142)

しかも殺害の手口は極めて残酷で、一気に殺さずに痛めつけ、時間をかけて苦しめたり、目玉をえぐったり、耳を切り取って勇敢さの証しとして持ち帰ったり、首を切断して見せしめのために人目につくところに「展示」したり、また被害者が女性の場合は、性器を槍で突き刺すなどの性的暴力や強姦もおこなわれた。(本書1142)

 殺戮としての「効率」を考えた場合、「非効率」ではないか、と思うのだが、それこそがまさに、権力による組織だった直接殺害ではなく、住民が地域で憎悪によって行ったという一つの状況証拠にもなるのだろう。

 人を殺したこともない民間人は、殺害で吐き気や頭痛に襲われたが、やがて慣れていく。また、精神的ショックを、殺害者の「生き血」を飲むことで克服するという迷信を実行する者もいたという。

 同時に、殺害をためらうと「お前も仲間か?」と思われるために、命令に従ったという作用もあったようだ。

 著者も次のように書いている。

このように「手の込んだ」やり方で一人ひとりを殺害して、何万人、何十万人を殺すというのは、考えただけでおぞましく、気が遠くなりそうな話である。熱病のようにインドネシアを揺るがした殺人劇は、地方によって異なるものの、連日連夜おこなわれ、多くは終息までに数ヵ月かかっている。(本書1149)

 殺害方法についてのパターンも本書には書かれている。ここでは紹介しない。詳しくは本書を読んでほしい。

 が、名前を呼ばれて連行される、というパターンが多かったという。

 そんなことをやったら、大暴動・大騒乱が起きるんじゃないのか? と現代日本人の「普通」の感覚で思ってしまうのだが、驚くべきことに次のような光景が広がっていたという。

いずれにしても、その場で阿鼻叫喚して逃げ惑うというような光景はあまりなく、彼らは待ち構えている運命を知りながらも、観念したように連れ出されていったという。無抵抗や無気力は当時のインドネシアの村落の各地で見られた傾向である。(本書1200)

 これは人権意識の差であろうか、と思う。

 

 著者は、もともと地域住民の間にどのような対立や感情の燻りがあったかを説明した後で、なおもこのような虐殺をしてしまう理由を問うている。いくつかの推察を書いては消し「謎」という基本結論を出しながらも、「虐殺を助長した外的要素」として次のように記す。

一つは、共産主義者に対する悪魔的な流説を広め、嫌悪感をことさら煽るようなフェイクニュース型の宣伝や、「今やつらを殺さなければ、次の瞬間にはお前がやられる」というような、恐怖心を植えつけるマインドコントロール型の宣伝である。大虐殺は、これらの巧みな流布によって引き起こされた心理戦争だったといえる。(本書1297)

 もう一つの外的要素は、諸外国が黙殺したことである。他国がこの虐殺に目をつぶり、それを抑止する発言や行動を何も実行しなかったことにより、事態はとどまることなくエスカレートした。(本書1303)

 現今、ガザをめぐって起きている状況は、これが過去のものとは言えないことを思い知る。また、ぼくは表現の自由を求めてやまない一人であるが、同時にヘイトスピーチを緊急に規制する必要はまさにこうした事態のためにあるのだろうと思った。

 繰り返すが、このような「直接の下手人としての住民」がある一方で、本書では、第一の要素の扇動と情報統制が誰によってなされたのか、それは国軍ではないか、ということについて記述を進めている。

 権力を握っている支配層の人間が巧みに情報を統制して、構成員を扇動するという光景は、国家というステージでなく、巨大な組織体の中でも起こりうる事態である。

 

日本共産党及び「赤旗(アカハタ)」も頻繁に登場

 本書には、日本共産党や機関紙「赤旗(アカハタ)」も頻繁に登場する。関心のある人は、実際に本書を手にとって関連する部分を読んでみてほしい。

 1箇所だけ紹介しよう。

〔日本〕共産党の機関紙「アカハタ」も一九六六年初頭まで特派員をジャカルタに置いており、佐々木武一記者が帰国後の一九六六年二月一四日付の記事で、詳細に各地の虐殺の様子を報道し、「右翼はインドネシア共産党PKI)と人民に対しヒトラーナチスをもしのぐ残虐なテロ、恥知らずな中傷と迫害を加えてきた」と報じている。(本書1424)

 

ASEAN結成のきっかけに

 スカルノ政権は非同盟運動に熱心で、しかも国内ではインドネシア共産党を統治パートナーとし、中国とも親しかったことから、「容共主義」的であった。

 ぼくはスカルノが国連脱退騒ぎを起こしていたり、マレーシアとも紛争を起こしていたことなどを知らなかった。また、オリンピックをめぐる騒動も知らなかった。

 しかし、スカルノ政権が事実上打倒され、スハルトに政権が移ってからは、がらりと雰囲気が変わる。

マレーシアとの関係が緊急に修復されると、それによって、東南アジアの主要国が政治的な結束を図ることが可能になり、翌年にはインドネシア、マレーシア、シンガポール、タイ、フィリピンの反共五カ国からなる東南アジア諸国連合ASEAN)が成立した。これは、当時共産化の道を歩んでいたベトナムラオスカンボジアインドシナ三国に対峙する重要な反共の砦となり、アジア冷戦構造における力関係に大きな変化をもたらした。(本書1843)

 ASEANが反共の砦として結成されたことは他の本でも読んでなんとなく知っていたが、本書を読んで、インドネシア共産党虐殺からスカルノの失脚がその契機であったということは知らなかった。

 逆に言えば、そういうASEANが今はインドシナ3国をむかえて一致結束しているというのは、まさに変われば変わるものだという感慨を持つ。

 

「敗者たちのその後」に複雑な思い

 読み物としての圧巻は、なんといっても第Ⅳ章「敗者たちのその後」であろう。

 著者が行った聞き取りが載っている。

 どうにか虐殺を逃げおおせたが、ずっと終われる人生となり、夫婦や家族の絆もズタズタになってしまう様が読んでいてつらい。

 

 「思想狩り」をされた政治犯(タポル)は言うに及ばず、その家族・子孫もいわば「アカの血筋」であるということを役所や町内会(日本統治時代に輸入された隣保組織)の台帳に記され、公式に差別をされ続けたのだという。これはスハルト政権が倒される1998年まで続き、その後も、PKI関係者の復権を図ろうとしたワヒド大統領が失脚させられるなど、

いかにインドネシア社会の中に、共産主義に対する恐怖や抵抗が根強く存在しているかの証左である。(本書2317)

 9.30事件の後に大虐殺が起きたことは、一度だけ教科書に載ったが、それはのちに回収されてしまう。

新政権が積極的に前政権のジェノサイドを暴いていったカンボジアの場合とは対照的に、この国では虐殺の地に慰霊碑一つ建てられていない。(本書2343)

 それでも先に紹介したユドヨノ政権、そして現在のジョコ政権でも見直しの動きがあり、歴史は少しずつでも前に進んでいるのだろうかと思わせる。

www.jcp.or.jp

www.asahi.com

 だが、当の倉沢自身は否定的だ。

www.chuko.co.jp

しかし、現地で暮らしてみるとわかりますが、実際は今も様々な人権侵害や市民的権利の制限がおこなわれています。表向きはイスラーム過激派の活動防止のためと謳っていますが、国のイデオロギー(建国五原則)に従わないものに対しては、非国民であるという評価を容赦なく下しています。そのような中でジェノサイドの歴史的精算が進むはずもありません。

NGOや国家人権委員会が独自に調査して報告書を政府に提出しても、殺害の責任を問われた者もいなければ、名誉回復された政治犯もいません。2015年11月には、非人道的な被害を受けた人や元政治犯が原告となって、1965年の虐殺の責任を問う国際人民法廷がハーグで開催されました。これまでの調査結果が表に出され、インドネシア政府の対応が注目されましたが、結果的に政府は黙殺しました。

 

 

 まずは本書を読んで事実を知ることから始めたい。

 

補足(2024.2.16)

 ASEANの出発点が「反共の砦」であったかについては、以下の記事を参考に。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

『サクッとわかるビジネス教養 東南アジア』

 元旦の「しんぶん赤旗」を読んでいたら、志位和夫の東南アジア訪問についてのインタビューが載っていた。

www.jcp.or.jp

 日本共産党は安全保障の枠組みとして、「地域協力」を押し出している。同党の綱領では、なかでも東南アジア諸国連合ASEAN)を「とくに」とわざわざ名指ししている。まあ、毎年の選挙政策や街頭の訴えなどでも必ずと言っていいほど出てくる。

 それくらい“激推し”されているASEANではあるが、実はぼくはASEANについてよく知らない。ASEANも知らないし、東南アジア各国についてもほとんど知識がない。

 例えば日本共産党は、ASEANの枠組みである東アジアサミット(EAS)を発展させることを呼びかけ、さらにASEANインド太平洋構想(AOIP)への発展を支持しているのだが、EASもAOIPも自民党政府自身が担い、それへの支持をうたっているものだ。これをどのように使うのか、別の言い方をすればこの会議の現状のどこに課題があるのか、それをAOIPへと発展させなければ達成できない理由はどこにあるのか、残念ながらぼくはほとんど理解できていない。

 今回のインタビューではさらに、この枠組みだけではなく、北東アジアで独自にそうした努力をすることが新たに打ち出されたのだが、EASやAOIPとの関係も今ひとつぼくはわからなかった。

日本は東アジアの平和構築のために「二重の努力」を行うべきだということを強調しました。すなわちASEANとともにEASを発展させ、AOIPを成功させるための努力を続けることと同時に、北東アジアの固有の諸懸案を外交によって解決する――これらの両面で“対話の習慣”をつくっていく努力を払うことが必要だ、東南アジアで発展している“対話の習慣”を北東アジアにも広げたい、こういう新しい整理をしたのです。…ASEANと協力してAOIPを成功させる、そして、東アジアの全体を平和の地域にしていく、これが基本なのですが、北東アジアには独自の諸懸案があります。その諸懸案について「ASEANまかせ」というわけにはいきません。北東アジアの諸懸案は、北東アジアで解決する努力をやりながら、AOIPを成功させる。EASの場もそういう諸懸案の解決のために役立てていくというような姿勢がいると思うのです。「ASEAN頼み」で東アジアの平和がつくれるわけではなく、北東アジアでは北東アジアの独自の努力がいる――「二重の努力」が必要だと思います。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik23/2024-01-01/2024010101_01_0.html

 

 そもそもASEANとはどういう枠組みなのか、どんな発展をしてきたのか、そういうことをわかりやすく書いた本はないものだろうかと探しているが、なかなか見つからない。

 しかし、そもそももっと手前の、超入門のところで実はぼくはよくわかっていないのではないか、と思った。

 例えば、志位インタビューでは次のようなことを言っている。

 …私は、ASEANではどうやって、“対話の習慣”を持つようになったのですかと聞きました。ハッサンさん〔インドネシアのハッサン・ウィラユダ元外相〕はこう言いました。

 「対話は多様性の産物です。インドネシアは人種、言語、文化的に多様で300以上の民族がおり、私は西ジャワの出身ですが、スマトラ北部の人と話すときは相手に何を言っていいのか、悪いのかを意識します。私たちにはそのような内的プロセスがある。基本的に全ての東南アジア諸国が多様な国です。多様性の中で、対話は日常生活、生き方そのものなのです」

 「対話は多様性の産物」――。これもなるほどと思って聞きました。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik23/2024-01-01/2024010101_01_0.html

ASEANで“対話の習慣”がつくられたのは、「多様性の産物」だ。多様性があるからこそ、対話せずにはいられなかった。私たちは「ハビット」を「習慣」という言葉に翻訳しましたが、「癖」とも訳せます。「対話せずにはいられない」という感じだと思います。

https://www.jcp.or.jp/akahata/aik23/2024-01-01/2024010101_01_0.html

 へえ。志位和夫って「多様性」や「対話」に関心があって、そこを目指しているのかあ。ふうん。ほお。ぜひともそれは目指してもらいたいことであるなあ、としみじみ、心の底から、衷心より、強く思った。

 それはともかく。

 え? でも東南アジアって「多様性」があるの?

 例えば、志位和夫が訪ねて対談したラオス政権って、「マルクス・レーニン主義」を標榜する人民革命党の指導性を憲法に書き込んで、一党制を法制化している国家なのでは? とか思ったりするし、ベトナムもそうだし、ミャンマー軍事独裁国家で少数民族を弾圧しているし、シンガポールは超監視国家だし、カンボジアも…そして何より当のインドネシアは、ポル・ポトの虐殺に匹敵する、50万人の共産党員、さらに華僑など200万人の虐殺をやった国じゃないの? という気持ちになった。

 政党外交をするときに「内政の評価と外交は別です。内政の評価には踏み込みません」ということをよくいうけど、その原則の話とはちょっと違う。ある国や地域の特性を解明するという、いわば学問的な課題を探求して、その答えが「多様性」というのだから、国の内政のあり方にもそれは否応無しに関わってこざるを得ない。

 

 たぶん、ハッサンのいう「多様性」は別の意味なのだろう。

 そこで本書を読んだ。なぜか。いやまったく偶然に本屋で手にとって。監修は助川成也・国士舘大学教授である。

本書では、東南アジアを理解するキーワードとして「多様性」を提示しました。多様性の背景を社会・経済・政治・歴史、そして各国事情に分けて解説し、多忙なビジネスマンに「サクッと」理解できるようにしました。…東南アジアは、1960年代後半以降、自ら「多様性」を実践し、国際的な存在感を高めてきました。(p.174)

というくらい「多様性」を中心においてまとめられたのが本書である。

 p.28-29で「多様性の土壌で育まれる各国独自の文化」という説明があるが、ここでは「多様性」の意味は、一つは、一国の中に多様な民族と言語が入り混じっているという事情。

近代以前から、現地には多様な民族が存在していましたが、第二次世界大戦後、植民地時代の国境を踏襲したまま各国が独立したという経緯から、東南アジア諸国には多様な民族が混在しています。(p.30)

 二つは、EUや中東と違って、「地域全体」で信仰する宗教はなく、仏教・イスラム教・キリスト教と国ごとに主要な宗教の色合いがまるで違い、強制の契機が少なく、緩やかに調和しているということを挙げている。

東南アジアは総じて、民族や宗教の多様性に寛大です。(p.31)

 しかし、そうではないタフな例も、必ず例示されてはいるのだが。

 

 これに加えて、3つ目に、政体があまりにも違いすぎているという事情もある。立憲君主制、共和制、「社会主義」体制で、その中でも国ごとにかなり事情が違う。(p.

70-71)

 

 このような「多様性」がある以上、ASEANは「全会一致」「内政不干渉」が原則にならざるを得ない(p.74-75)。初めはこれらは「共通認識」にすぎなかったが、2008年にASEANの憲章として成文の原則となった。

 

 簡単にいうと、国を単位にしてみた場合、かなりデリケートに違いがありすぎるので、そこに触れてしまうとあっさり壊れてしまうから、もう内政には徹底して干渉しないし、とにかくみんな一致しない限りは前に進みませんよという原則にしておかないと力を合わせられない、というふうにして始まったのだろうと想像する。それがASEANの「多様性」という意味なのではないか。

 

世界で最も成功をおさめた地域協力機構ともいわれています。(p.77)

 

 ASEANの成り立ちは、むしろ分断・対抗から始まっている。

ASEANの発足は1967年、「バンコク宣言」を発出したことに遡ります。当時の加盟国は、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイの5カ国。東西冷戦時代、共産主義国家であったベトナムカンボジアラオスに対する「反共の砦」としてスタートしています。(p.76)

 このASEAN発足の説明はスタンダードなものだろう。他の解説書でもみたし、最近読んだ倉沢愛子インドネシア大虐殺』でも次のような記述を見た。

インドネシア共産党PKI)などの大虐殺をした後〕スカルノからスハルトへの政権交代PKIの消滅によって、インドネシアはそれまでの容共国家から、親欧米的な反共国家へと変身した。東南アジアの勢力バランスは自由主義陣営に有利なものとなり、その結果、反共5カ国からなる東南アジア諸国連合ASEAN)が成立した。(倉沢kindle10/2548)

 だが、本書『サクッとわかるビジネス教養 東南アジア』では、その後の変化、つまり「反共の砦」として出発したはずのASEANに「共産主義」を掲げる国家が加わって、ASEANの性格が変貌したことについて分析的なことはほとんど書かれていない。次のような記述が簡単にあるだけだ。

ソ連が崩壊して共産主義勢力が弱まった後は、ベトナムなどが加盟。(p.76)

 やはり、地域協力としての枠組みがどう発展していったかについては、もっと本格的な本を読まないとわからないのだろう。

 だけど、とりあえず東南アジアについて「なんもしらない」というズブズブのシロウトであるぼくとしては本書のようなわかりやすい、イラストとキャプションで理解できるような本がまずは大事だった。

 んで、上記以外のことで、本書で触れ、自分があまり認識がなかった(あるいは全く知らなかった)ことについていくつか挙げておく。

 

 第一。戦後は反日感情が強かったが現在は親日感情が高い。本書ではその理由としてODAや福田ドクトリン(軍事大国化の否定、東南アジアの自主努力に協力など)にもとづく外交の影響を解説している。

 第二。AEC(ASEAN経済共同体)にもとづく一体化の推進。FTAやTPPなどの自由貿易路線であるため日本共産党や「赤旗」ではほとんど取り上げられない視点。

 経済圏としてのまとまりというだけでなく、6.6億人もいて、経済が高い成長(年平均5.6%)をしているがゆえに、有望な市場としての注目が日本企業から集まっているというのはなとなく理解した。高島宗一郎・福岡市長も注目するわけだ。

 

 第三。中国の影響力の強まっている国々としてラオスカンボジアミャンマーをあげる。

特に親中的なカンボジアラオスミャンマーでは中国の経済援助は抜き出ています。(p.92-93)

南シナ海問題で〕カンボジアが中国寄りの姿勢を示し、会議は紛糾、共同声明は不採択に。共同声明が発出できない事態はASEAN創設以来初めてのことで、地域協力機構としての存在意義を揺るがす事態となりました。(p.93)

 まあ、この通りだとは思わないけど、ASEANがもともと影響のあった米国と、中国との間で「自主独立」をどう発揮するかということが課題だという背景理解につなげることができる。

 たとえばフィリピンについても、親米的外交と米軍基地が存在してきたが、冷戦終結の1992年には米軍基地が撤退した。しかし、中国との南シナ海での紛争が激化する中で、「1998年に『訪問軍地位協定』を締結、合同軍事演習を実施する米軍に法的地位を与えました」(p.163)。

南シナ海スカボロー礁領有問題について〕フィリピンは中国への反発を強め、国連海洋法条約に基づき仲裁裁判所に提訴して勝訴しましたが、中国がフィリピン産バナナの輸入を差し止め、フィリピンの農業が大打撃を受けました。(p.163)

 そしてさらにドゥテルテ政権になって「徐々に中国寄りの姿勢を強めています」(同前)。

 そんな具合に、米中のはざまで揺れながらも、各国の軍事・外交戦略、そしてASEANとしての自主性を貫いていることがわかる。

 

 第四。シンガポールが統制国家であり「明るい北朝鮮」と言われていること。

教育は総じて規律が厳しく、言論統制もされており、与党一強の体制です。「明るい北朝鮮」とも揶揄され、市民は規律の遵守が求められます。特に厳しいのが刑罰で、徹底した監視社会になっています。(p.156)

 国土の広さが東京23区ほどだということ。ほとんどの人が公営団地に暮らしていること。一人当たりのGDPも日本の倍だということ。マレーシアから「追放」された1965年以降に経済大国になったこと。なども興味深かった。

 

 第五。本書がインドネシアを「多様性を尊重する東南アジアきっての民主国家」(p.170)と評価していること。

 「かつて強力な独裁国家だった」(同前)としつつ、1997年の通貨危機スハルトの退陣以後、民主化を進めてきたとして、「長らくスハルトの独裁政治が続いたインドネシアですが、現在は東南アジアでもっとも民主的な国と呼ばれています。多様な宗教や民族を受け入れる土壌もあり、社会も安定しています」(p.167)、「民族や宗教の多様性を認める現在のジョコ大統領は、国民から高い支持を得ています」(同前)。

 これもそのまま信じるかどうは別だけど、少なくとも、ぼくが最初にイメージしてしまう9月30日事件(大虐殺)や、スハルトの独裁などから大きく変わっている可能性があって、昔のイメージのままでは何も語れないなとは思った。

 志位と対談したインドネシア元外相(ハッサン)が「多様性」を挙げたのもわかるというものだ。

 また、次の記述も注目した。

中でも、最大の人口を誇ったジャワ人の言語であるジャワ語を国語にせず、インドネシア語を共通語にしたことが、あらゆる面で功を奏しています。(p.166)

 

 でも、やはり地域協力の枠組みとしてのASEANについては、もっと基本的なことが学べるような本がどうしても必要だと思う。

 そういう本がすでにあれば誰か教えて欲しいものである。

 

補足(2024.2.16)

 ASEANの出発点が「反共の砦」であったかについては、以下の記事を参考に。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

水島みき・あやか『独身アラサーOLあやかのぼっち宿泊記』

 昨日の記事を書いた後、粋なホテル・宿じゃなくて、ビジホに泊まるようなマンガはないだろうかと思って探したら、ちゃんとある。

 ただしビジホといっても、本当に超安い、いつもぼくが探して泊まるようなやつじゃなくて、もうほんの少しだけグレードが上の、温泉付きのようなビジネスホテルである。ドーミーインの系列がいくつか紹介されているが…。

 自宅や職場近くを避けることで「プチトリップ」感を確保しつつ、ストレス解消として宿泊する。

 主人公・あやかの楽しみ方は、週末に(別の箇所では「月1」とある)仕事のストレスを解消するために、ふかふかのベッド、充実したアメニティ、完璧な空調を条件としつつ、一人でのホテルにおける食事を楽しむのである。

 食事は、コンビニ、行きつけの居酒屋でのスペシャルな弁当の調達などで揃える。「ビジネスホテルの気ままなおこもりメシ」「レストランでもオシャレなバーでもない」「誰にも気をつかわずにいられる自分だけの場所」というコンセプトで、これはぼくが理想とする快適空間に近い。Wifiでドラマを見たり、マンガを読んだりする。

 この本によれば、ビジネスホテルで「マンガの品揃えが豊富なところ」もあるのだという。いやあ全く知りませんでした。

 飲んでいる酒は普通のビールやハイボールが多いようだけど、通販で買った地ビールなんかをわざわざ持ってきたりしている。

 ただ、主人公がウイスキーの5リットルペットボトルを買うのは全く意味不明…。コスパがいいからって、ビジホこもりで買うのか?

 

 食事量も「ああ、30代だな〜」って感じ。健啖。とてもこんなに堪能できない。

 

 「広い風呂」っていうのが実はポイント高い。

 最近、ぼくがとあるところで「いじめ」に遭ってしょげているのを知った旧友が、ぼくを小旅行に招待してくれるということがあったのだが、そのとき、「温泉付きのビジネスホテル」というのに招待してくれて、そこで初めて「ユニットバスではないビジネスホテル」というものを体験した。

 ここの主人公もビジネスホテルでの朝風呂を楽しみにしているようだが、コマからはその快適さが伝わってくる。

 

 本書は、YouTuberの「33歳酒飲み独身女あやかのぼっち宿泊記」が元ネタになっているようだ。アマゾンのカスタマーレビューには、「動画と違う」という苦情が載っているけど、いくつか見たところ、だいたい同じようなテイストを感じた。よほど動画の熱心なファン以外は、あんまりそういう評価を機にする必要はあるまい。

www.youtube.com

 

 本書の終わりに次のようなモノローグがある。

人はみんなそれぞれに

癒しの魔法を持っている

自分で自分のご機嫌をとれるのが

大人の特権だから

ときどきは立ち止まって

大切な自分にご褒美を…

そうやって元気をチャージしていこう

 労働力の回復。

 マルクスは賃金(=労働力価値)を論じる際にどのようなコストを計算に入れるかあれこれ考察した。「労働力が回復するための費用」はそのメインをなすものである。マルクスが『資本論』で労働者の叫びを代弁して書いた部分を紹介しよう。

 

僕の労働力の日々の販売価格を媒介にして、僕は日々のこの労働力を再生産し、したがってまた新たに売ることができなければならない。年齢などによる自然的消耗を別にすれば、僕は、あすもきょうと同じ正常な状態にある力と健康をとはつらつさで労働できなければならない。(マルクス資本論』第1部第8章、新日本版第2分冊p.403)

 

 日々の労働によって削ぎ取られていくヒットポイントの回復を、高度に発達した資本主義国の賃労働者はどのように行うのか? という現実がここには描かれている。

 

 本書に登場するビジホは1泊7800〜3万6000円である。そこに月イチで宿泊できる賃金と時間(+交通費)が最低生計費として換算されてほしい。

マキヒロチ・まろ『おひとりさまホテル』

 ホテルに泊まるのは好きだ。

 別に旅先でなくてもいい。

 家から近くにあるホテル(・旅館)であっても泊まりたい。まだそういうことをやったことはないけど。

 我が家(マンション)の中に、快適に寝そべって、しかも独りで静かに(静謐に)いられる空間が、微妙に存在しないのだ。

 家族の物置・クローゼットを兼ねた「書斎」のようなものはあるんだけど、その部屋は、夏は暑くて、冬は寒い。寝っ転がってダラダラするという空間ではないのである。

 寝室はどうかといえば、こちらには空調や布団があるものの、「体を持たれかけて本とかPCを眺められない」のである。若くないので、肘で支えて本を読んでいると疲れてしまうし、何かに寄り掛かろうと思うと木の柱か襖に寄りかからねばならない。「人間をダメにするクッション」ことYOGIBOのクッションを購入したいのだが、つれあいは「部屋が狭くなる」と言って頑強に反対している。

 居間にはコタツがあるのだが、座椅子でそこに座っている。ここにこそ上記クッションを導入したいのだが、やはり許されていない。

 そして、何より静謐ではない。娘はネットを見て笑い声を立てているし、つれあいもYouTube動画を音量を上げて流している。小さくしてもらっても人の気配があることには変わりない。まあ、かくいうぼくも風呂で声を出して『神聖喜劇』だの英文記事だのを読んでいるわけだが。

 

 それに比べると、ホテルは空調も効いていて、しかも人の気配がない。

 快適で自由だ。

 そこに独りで宿泊することの魅力は染み透るように理解できる。

 そこで本作である。

 

 ホテルを作る会社で働く4人の男女が登場する。いいホテルに泊まって研究する、という大義名分があるが、みんな独りでホテルに泊まるのが好きなのである。

 紹介されるのは、オシャレなホテルが多い。

 調度、造り、景色、ルームサービス、アート、照明。

 ぼくのような山出しには、あまりにもまぶしすぎるものが多い。

 

 が、たまには「ハトヤホテル」のようなホテルも出てくる。

 あるいは、ホテル自体よりも、ホテルの周辺を町歩きするような話も出てくる。

 どちらかといえば、そうした楽しみ方のほうがぼくには理解できる。

 

 自転車で北部九州を回った時も、ボロボロの旅館に泊まったりしたものだが、「ひとりになれる」ということがぼくにとっては大事だった。だから、安宿でコンビニ飯と安酒を食しながら、好き放題をやる、というような時間・空間が、リアルでは好きなのだろう。

 本作のような宿に実際に行ってみたいと思うかというと少し微妙だ。

 だけど、自分が行かないような非日常空間として「へえそんなところもあるんだ」と眺めるにはむしろ適しているのかもしれない。