坂井恵理『シジュウカラ』

 『シジュウカラ』は、売れなくなった40歳の女性マンガ家(佐々木忍)がアシスタントに来た22歳の男性(橘千秋)に恋をしてしまうという物語である。

 …と書くと「あー、ハイハイ」と言われてしまいそうだが。

 

シジュウカラ : 1 (ジュールコミックス)

シジュウカラ : 1 (ジュールコミックス)

 

 

 忍はいったん千秋への恋心を断念する。つまり、「自分の息子にさえ近いであろう年齢の仕事仲間を性的な目で見ない」と決心するわけである。

 見境なく恋に落ちればいいというわけではなく、そもそも忍は、夫がいて息子がいるという「家庭持ち」な上に、分別があるとされている40歳なのだから、そういう断念をするのは自然ではある。うむうむ、常識的なオトナじゃないか。

 しかし。

 そんなに単純に割り切れるなら話は早いが、そうではないのがアラフォーの(心の中の)リアルだ。

 執筆のための職場で二人きりになったり、食事や旅行に行ったり、スキンシップを重ねているうちに、結局その都度振り回されてしまうのである。

 他方で、夫とのセックスには嫌悪感を催させるような描写が続く。ジャージ姿で家でくつろいでいる格好がちょうどぼくのようで、客観的に見たら俺ってまさにこの夫ではと思い凹む。

f:id:kamiyakenkyujo:20201109015159p:plain

坂井恵理シジュウカラ』4巻、双葉社、kindle83/110

 そして再び忍は千秋への恋心を断念する。

 マンガ家としてそこそこ売れるように復調してきた5年後、高校時代の元カレで、マンガの編集をしている男性と出会い、セックスをする関係になってしまう。

 

シジュウカラ : 7 (ジュールコミックス)

シジュウカラ : 7 (ジュールコミックス)

 

 

 

 なんと言えばいいのか、とてもみっともないのである。忍が。

 40代として分別のあるような顔をしておいて、結局何度もふた回りも若い男性への恋に千々に乱れ、体を悪くした夫との落ち着いた生活に戻るのかと思いきや、ズブッズブの不倫関係に入っていき、その関係を「ラクだ」と感じてしまう。

 そもそも忍のグラフィックと行動の中途半端さが革命的である。

 例えば口の横にほうれい線を入れたりするわけではないので、忍は少女や若い女性と見えなくもない。しかし、忍の裸を描くときは肉がついた40代のリアルな体なのである。少女のようでもあるが中年でもあるという心象がそのままカタチになっていて、それがものすごくみっともない。

 若い男と二人で勝手に温泉まで行って一泊しておきながら、カラダはどうかと思うのキスまでなのよ(しかも舌を入れるめっちゃエロい感じのやつ)というその態度は一体なんだ。良識あるオトナなのか、恋にのぼせるオンナなのか、ハッキリせんかい。

 だけどそのようにみっともなく、もがいている40代の姿こそが、40代自身が感じている動揺であり、この作品の最大の魅力なのであって、これをどちらかに寄せて描いてしまったらこの作品は根源的にダメになってしまう。素晴らしい混乱のバランスで描かれているのである。

星乃治彦『赤いゲッベルス ミュンツェンベルクとその時代』

 学生運動をしていた頃の友人に勧められて読む。

 

赤いゲッベルス ミュンツェンベルクとその時代

赤いゲッベルス ミュンツェンベルクとその時代

  • 作者:星乃 治彦
  • 発売日: 2009/12/18
  • メディア: 単行本
 

  

 ヴィリー・ミュンツェンベルクの評伝である。

 ミュンツェンベルクは、ナチス期のドイツでコミュニストの側に立って宣伝扇動の活動を行い、それを通じて反ファシズム統一戦線の形成に大きな役割を担った活動家である。しかし、やがて「粛清」が吹き荒れるソ連コミンテルンとも対立するようになり、1939年の独ソ不可侵条約に至ってついにスターリンを「裏切り者」と弾劾するに至る。そして、1940年に亡命先のフランスからさらにスイスに逃れる途中で「謎の死」を遂げる。

 ここでいう「ゲッベルス」とはいうまでもなくナチの宣伝大臣であったヨーゼフ・ゲッベルスのことで、「赤いゲッベルス」とは敵であるゲッベルスに匹敵するほどのコミュニスト側の宣伝巧者という意味である。ただし「赤いゲッベルス」という評価・表現は、同時代人がしていたものではなく、後世の研究者が「ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相といい勝負」と評した言葉から星乃が造語したものである(p.84)。

 

 ぼくは、ミュンツェンベルクのことをほとんど知らず、本書でその活動の一端を知った。

 ぼくが驚いたのは、ミュンツェンベルクが宣伝を一種のビジネスのようにして展開し、企業や組合を次々設立して「ミュンツェンベルク・コンツェルン」というべき複合体を作り上げたことだった。

ヴィリーはそれまでの活動のスタイルを次々と打ち破っていた。例えば、一九二三年一月末にライプツィヒのドイツ共産党大会に出席しようとしていた時、二人の同伴のもと、列車の食堂車で朝食をすませ、食後に三杯のコーヒーを立て続けに飲んだ。ライプツィヒに着くなり、市の中心街にあった最も大きなホテルに駆け込み、ドイツ共産党大会に出席する代表たちの全員の部屋を予約した。こうしたヴィリーのスタイルは、従来イメージされたような労働者、共産主義の指導者とは大きく違い、むしろアメリカの大企業家を想起させるものであったし、「赤い億万長者」を連想させる。こうしたことは、ヴィリーが、それまで身内のカンパによって細々と身内の言説だけにとどまっていた「活動」を「ビジネス」へ変貌させていたことを物語るエピソードである。(本書p.112-113)

 まあ、活動の資金稼ぎに「ビジネス」を直結させた時の弊害というものは、その後、日本でもいろいろ見てきたからこれがそのまま現代でどうのこうのという話ではないのだが、当時としての斬新さはこの一文でもうかがえる。

 

 ただ、ぼくが今回記事として書きたいことはそこではない

 ミュンツェンベルクが反ファシズム統一戦線に対して、どういう態度で臨んだのかという点である。

 コミンテルンつまり共産党側は、社会民主党に対して「社会ファシズム」規定を与え、相当敵対的な態度をとってきた。しかし、そこから大きく転換をして、「反ファシズム統一戦線」の方向を呼びかけたことは有名な話である。

 しかし、そのような時に、「統一戦線」に対してどういう位置付けを与えたのか、ということは共産主義者の中でも様々だった。

 簡単に言えば、「統一戦線」を相手を倒すための「方便」、つまり戦術と考えるのか、そうではなくて革命において違う思想信条の人々との共同を一貫して追求という戦略として考えるのかということになる。

 そして、それは共通の敵を打倒した後にできる体制を、自分とは違う思想信条の人たちとの混成社会と考えるのか、そうではなくて、体良く敵を倒した後は今まで手を組んでいた相手もやがて圧倒し・滅ぼし自分たちが支配する単一の社会と考えるのか、の違いにつながっているのだ。

 

 コミンテルンの忠実な活動家であり、ミュンツェンベルクのライバルとされるウルブリヒトは、コミンテルンの「反ファシズム統一戦線」の成果を焦るあまり、社会民主党の幹部との性急な政党間合意を作ろうとして破綻する(社会民主党の側に根本的な非があったとはいえ)。

 他方で、ミュンツェンベルクは、幅広い立場の有識者による「人民戦線暫定準備委員会」を組織する。そこにミュンツェンベルク、社民党幹部、自由労働組合カトリックの代表、ブルジョアの代表などが合流し、作家のハインリヒ・マンが議長に就任するのである。そして打倒後の体制についても棚上げするなど、統一のための極力の調整をしていることがわかる。

 このような経験を経て、さらにスペインの人民戦線運動の経験がそこに加わる。スペインでは政権を握り、それはすでにヴァイマル時代の共和国を乗り越えていたのである。

 

こうした「マドリードの闘う顔」をもつ民主共和国に到達したヴィリーの人民戦線認識は、ナチスとの闘争にあたって西欧型民主主義を高く評価し、それへと接近していく過程を示すものであった。これは、後の、資本主義でもソ連社会主義でもない新しい「第三の道」を模索した人民民主主義ユーロコミュニズムに代表されるような民主的社会主義像に繋がっていくものであった。ただ、それを志向するということは、そのことは同時に、スターリンの下ソ連で推し進められる国家主義社会主義からの離陸を意味し、国家主義社会主義を代表するウルブリヒトとの軋轢につながったのであった。(p.182)

 

これを読んで現代日本野党共闘について考えた

 なぜこの部分が今のぼくにとって興味を引いたのかといえば、何と言ってもそれは「野党共闘」のことが頭にあったからである。

 松竹伸幸が最近上梓した『安倍政権は「倒れた」が「倒した」のではない』(かもがわ出版)では、安倍政権の「強さ」を分析しながら、野党共闘でどのような政権を組むかについての提案がされている。

 

安倍政権は「倒れた」が「倒した」のではない

安倍政権は「倒れた」が「倒した」のではない

  • 作者:松竹 伸幸
  • 発売日: 2020/10/24
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 松竹は、安倍政権の「強さ」、特に安保・外交について、岩盤支持層に目線を送った政策ではなく、むしろそこはもう大丈夫だからと考えて、「リベラル・左派が共感するようなアプローチをとってきた」(松竹p.63)のだという。

 その評価が妥当かどうかは、松竹の本を読んで判断してほしいのだが、松竹は野党連合政権に期待をかける立場から、その政策、特に安保・外交政策は、リベラル・左派だけがうなずくようなものではなく、保守層が共感できるような政策を示すべきだとするのである。

 

 例えば、核兵器禁止条約。

 ある種の左派・リベラルの中では、野党連合政権ができたら当然のようにそこに加盟(批准)すると思っている人がいるが、松竹の本を読んでも、必ずしもそうとは言い切れない。共産党は当然批准であるが、立憲民主党の立ち位置はアメリカの核抑止力の琴線に触れてしまうため非常に微妙である。

 

 違う立場の人たちと戦線を組むのであるから、そこに大きな違いがあり、違いがあることを覚悟して経済や安保・外交の根本問題に取り組まねばならない。

 

 地方政治でも同じことが言える。

 地方で例えば市長候補や知事候補を共同で擁立する場合、その地域で問題になっているようなムダな大型開発に対して、現在の国政の立憲野党は必ずしも同じ態度が取れているわけではない。あるいは福祉・社会保障の切り捨てや地域施設の統廃合についても同様である。

 そのような場合に、「ムダな大型開発を推進している政党同士は連合すべきではない」というような態度をとるのかどうかが問題となる。

 常識的に考えれば組むことはできないだろう。

 しかし、例えば住民によって見直しの検討委員会のようなものが組織され、あるいは住民投票や住民討論会のようなものがかけられて、結論が出た場合はどうだろうか。

 仮に一定の見直しの後、修正して推進することで合意できるなら、それは一歩前進となるのではなかろうか。

 多様な見解が存在することを前提にし、多様な主体が話し合って決めるという、ミュンツェンベルクが「高く評価」した「西欧型民主主義」を実践し、統一戦線を単なる戦術と見ずに、住民自身が主体となって政治を決定していくための戦略だと考えるなら、仮に「ムダな大型開発」が止まらなかったとしても一定の改善として評価すべきであり、そこに統一戦線の基軸を見出していいはずである。

 ミュンツェンベルクの精神を生かすというのは、そのような「多様性の不快」を受け止め、違うもの同士の統一を戦略として受け入れる精神を持つことではなかろうかと思うのである。

 

 

 

ユニ『憎らしいほど愛してる』

 上司と部下の恋愛を描いた「社会人百合」である、ユニ『憎らしいほど愛してる』は昨年買って読み、「ほうっ…」と堪能したわけだが『このマンガがすごい!』のベスト5にはあげずに「次点」ということでコメントで紹介するにとどまった。

 

憎らしいほど愛してる

憎らしいほど愛してる

  • 作者:ユニ
  • 発売日: 2019/07/30
  • メディア: Kindle
 

 

 しかし、今年の秋になってふとしたきっかけで読み直し出したら、もうこれが止まらないくらいにハマってしまった。毎日読む始末である。

 1年前はFLOWERCHILD『割り切った関係ですから』や『イブのおくすり』に夢中であったが、今はその熱中度合いが逆転している。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 FLOWERCHILDが実はつまらなかった、ということではなくて、今自分がどこに重点を置いて百合を読んでいるのか、という、ただそれだけの差に過ぎない。

 『イブのおくすり』をはじめ、FLOWERCHILDの作品には快楽そのものを直截に描写するシーンが多い。そういうものをまさに読みたかったのである。ひとは「性的な存在だ」ということを社会的立場を忘れて思い起こさせるような絵柄と筋立てに熱狂したのである。

 

 ひるがえって『憎らしいほど愛してる』である。

 商品企画の部署に配置された、元営業のエースである藤村と、企画課長としてこれまた有能な浅野の恋愛だ。浅野に恋心を抱いていた藤村は残業後の2人だけの飲み会で自分の気持ちを打ち明けて「本気でなくてもかまいません なんなら遊びでも…」とホテルに誘ってしまってから秘密の逢瀬が始まる。

 しかし、浅野は結婚している。しかし、その内実は空洞化している。

 このように「遊び」と割り切った関係から出発して、仕事を絡めながら、やがて空虚な関係を打ち破って本当の恋愛へとたどり着けるかどうかを描くのである。

 

 今自分がなぜ『憎らしいほど愛してる』にハマっているのかを考えてみると、この作品の前段に出てくる上司と部下の関係、すなわち“これは遊びであり、お互いは性的な存在・性的な対象でしかない”という割り切りを貪婪に消費しているのだなと気づく。

 いや、実は『憎らしいほど愛してる』の結末はそのような「遊び」の関係を立ち去れるかどうかを描くものであるから、作品の本質からはズレた楽しみ方をしていると言われればその通りである。

 初めて浅野と関係を持った翌日、藤村が

昨日はけっきょく課長のこと 美味しく頂いてしまった…

と反芻するセリフ・コマがある。ユニはキャラクターが性的欲望を野心的に抱く時に「舌なめずり」としてそれを表すことが多い。

f:id:kamiyakenkyujo:20201107102929p:plain

ユニ『憎らしいほど愛してる』KADOKAWA、kindle99/216

 また、人事部署での百合模様を描いた『ヒトゴトですから!』でも

小森さんは… 女の子を食べたい側よね?

と表現する。いや、「食べる」と表現することは異性恋愛の作品でも、他の百合作品でもそれほど珍しいものではないけども、ユニの場合、それがとても際立っている。

 

 「食べる」とは、ひとが一方的に欲望の対象を消費してしまう行為である。対象はなんらの主体性を持たない。まさに手段であり、「モノ」のように扱われるのだ。しかし、それは合意の上だから、「お互い様」だという民主性がかろうじてそこに保たれている。ぼくは、“相手をなんの遠慮もなく「性的な存在・対象」とみなして、それをお互いにきちんと合意しているという割り切り”に、いま心底渇えているのだなと深々と自覚した。

 

 

 そして、『憎らしほど愛してる』において、やや上滑りで生硬な会話も、グッときてしまう。

「…忙しいと思うけど プライベートも充実してる? してないって言われたら仕事の割り振り考えるかも」

「そんなとこまで マネジメントしてくださるんですか!?」

「うーんどうかなぁ 聞くだけ聞いてみようと思って」

「えーっそれひどくないですか!?   私が言い損になるか持ってことじゃないですか!」

「そうかも?」

「ひっどい」

  絵面がないとわかりづらいので以下に画像引用するが、酒の席でふざけながら浅野が藤村のプラベートを聞き出しているシーンである。

f:id:kamiyakenkyujo:20201107104853p:plain

ユニ前掲kindle35/216

 この「そんなとこまで マネジメントしてくださるんですか!?」が訳も分からず好きなのである。これ、男女の上司・部下の関係でやったとしたら、ぼく的には相当生々しい感じになる。そして、もし「そんなとこまで マネジメントしてくださるんですか!?」と部下(女性)が上司(男性)に言ったとしたら、明らかにセクハラを牽制した皮肉である。

 しかし、ここでは、そのセリフがそうした抑圧性を完全に失って、逆に気遣いや優しさのようになってしまうのだ。

 百合を読むときの読者の受け止めが一様ではないことは承知しているが、ぼくの場合、明らかに「男女の関係ではいろんな抑圧性が想像されてしまうというモヤモヤから自由になれる装置としての同性愛」として百合を読んでいる。

 だから、「二人で残業後に飲みに行く」とか「二人だけで出張した先のホテルで存分にイチャイチャする」とかいうシチュエーションもなんの留保もなく楽しめるのである。特に後者は、藤村は出張先で何か起きるかもしれないと期待しつつ、これは仕事なんだからと抑制をかけて部屋に入ろうとする瞬間に「部屋来る?」と浅野から誘われるシーン、最高すぎるだろ。「抑制をかけている」と言えば聞こえがいいけど、藤村が主体性を発揮できないオトコ(=ぼく)みたいでホント感情移入して読む。

 

 浅野の一つ一つの自分への仕草にドギマギして「反則でしょ!?」とか「近いし…ものすごいいい香りがするんですけど」とか、「ひょっとしたらこの人は自分のことが好きなのでは?」と期待してしまう藤村がかわいいというか、ぼく過ぎてしまうというか。

すっぴんでこんなに綺麗だなんて

どうかしてますね

っていうセリフもどうかしてるほど素晴らしい。顔とか容姿を、なんの社会的顧慮も払わずに、存分に堪能しているのである。藤村が、というより、読者であるぼくが。それもこれも、やはり百合であり、虚構であるからだろう。

 だけど、なんか作品の本質的なところを否定しちゃうみたいになるけど、既に体の関係を持っているのに、そこに「愛されている」という要素というのは、全くきっぱり分かれるものなのかね、とは思う。

 これは古典的なテーマだけど、「性欲(あるいはそれをベースにした恋愛)」と「本当の愛」は別のものだという話。前者は相手を性的な対象としてのみ扱うが、後者はもっと全人格的である、というふうに教科書的には言えるけども、たぶん現実にはそんなにすっぱりキレイに分かれているものではなくて、前者だけと割り切ったはずが、後者にまで次第に染み及んでいくというのが、現実の成り行きであろう。FLOWERCHILD『割り切った関係ですから』などはタイトルからしてそういうものである。

 

 

 だから、藤村が浅野がしばしば見せる「愛」に戸惑うのは、ぼくから見ると「いやそんなに迷わなくても…。たぶん課長はあなたのことが本当に好きだよ」と思わざるを得ないのである。

 ぼくにとっては、藤村と浅野の関係が「わりきった遊び」から「本当の愛」へと発展していくかどうかはあまり関心がなく、むしろ前者の関係にハアハアしている。

 

「先のことを考えなくていい関係」とは

 本作で、浅野と藤村がカラダだけの関係を持つようになってから、浅野は心密かに思うことがある。

 浅野は、藤村との関係を中間的に総括して、

  • これは好奇心である。
  • これは浮気をする夫への当て付けである。
  • これは部下として仕事をよくしてくれて、懐いてくれる藤村へのご褒美である。
  • ベッドテクニックが「優秀」であり、自分はその快楽に溺れつつある。
  • 藤村は「それ以上の関係」を決して求めてこない。「先のことを考えなくていい関係がこんなに楽だなんて知らなかった」。

と考える。

 「先のことを考えなくていい関係」が「こんなに楽だ」と浅野は考えるのだ。

 「先のことを考えなくていい関係」とはなんだろうか。

 「カラダだけの関係」という意味だろうか。それとも「女同士だから結婚も出産もないという関係」という意味だろうか。

 少し前に浅野の内語としてこうある。

でもこの関係はあなたの浮気とは違う

私たちは女同士で

この関係の先には何もないのだから

  浅野は妻になり、家庭を持ち、母になることが「期待」されている。そのような「先」がある関係が、浅野と夫との関係であり、夫と浮気相手の関係(夫が浮気相手と子どもをつくってしまうかもしれないし、浅野と別れて別の家庭を持つかもしれない)であるというふうにも読める。

 では、女同士でパートナーを組み、共同生活を行うという「家庭」を持つことは、「先のことを考えなくていい関係」だろうか。

 なぜそれにぼくがこだわるかと言えば、結末で浅野は藤村への愛に目覚めて、夫と離婚し、藤村との共同生活を始める。それが結論であるとすれば、そのような女性同士の共同生活も「先のことを考えなくていい関係」なのだろうかと思うからである。しかし、この時点で浅野は藤村への自分の愛に気づいていない。だとすれば、「カラダだけの関係」のことを「先のことを考えなくていい関係」と考えているのではなかろうか、とも読める。もしそうだとすれば、「カラダだけの関係」が終わり、「愛に基づく共同生活」が始まった時点で「こんなに楽」な関係は終わってしまうのではなかろうかと思うからだ。

 そしてぼくの仮説は、浅野が考える「先のことを考えなくていい」「こんなに楽」な関係とは、「カラダだけの関係」だということだ。

 こんなことを執拗に書くのはなぜかと言えば、ぼくは、作者・ユニは、どうも「カラダだけの関係」というものに、実は高い価値を置いているのではないかという疑念があるからである。「疑念」と書いたが、別に「カラダだけの関係は尊いと思うことは悪いことだ」と言いたいのではない。

 ユニは、『ヒトゴトですから!』でも、同作の主人公として登場する2人、小森と山野辺にパートナーをとっかえひっかえさせる、いわば「女漁り」をさせているのだが、なぜ二人がそんなことをしているかと言えば、小森は生涯のパートナーを見つけるためであり、山野辺は本当に愛していたパートナーに裏切られてある意味で女性不信に陥っているからである。しかし、同作を読むとき、ぼくはユニが「本当の愛」を探しているようにはどうしても思えない。むしろパートナーを頻繁に替えて「カラダだけの関係」を持つことを楽しんでいるように思えるのだ。

 そして何よりもぼく自身が「カラダだけの関係」こそが「こんなにも楽」だというふうに思っているのである。誰かとそんな関係になったことはないけど(真顔)。

 

『ヒトゴトですから!』の山野辺が…

 ところでビジュアルについて言えば、浅野・藤村ではなく、ユニの作品の中では圧倒的に『ヒトゴトですから!』に出てくる山野辺である。しかもプライベートの化けているときの方ではなく、「喪女」と罵られている仕事モードの山野辺。

 

 

 仕事モードなのにこんなに綺麗だなんて どうかしてますね、って言いたいくらいだよ。特に山野辺の袖を少しまくったシャツ姿がもうね。知的で仕事ができる感じが素敵すぎる。

 『ハチクロ』の美和子さん、『Under the Rose』のレイチェル、そして山野辺である。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 

石牟礼道子『苦海浄土』

 リモート読書会は石牟礼道子苦海浄土』だった。

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

 

  水俣病について書かれたということは有名な本だが、果たしてこれはノンフィクションなのか、小説なのか。石牟礼は「新しい形式の詩」だという。一読して、その意味がわかった。なるほど「詩」である。

 つれあいも言っていたのだが、本書を読む前は「水俣病について書かれたものだから、きっと有吉佐和子『複合汚染』のようなルポなのだろう」と思っていた。しかしそうではなかった。「社会問題としての水俣病がわかる」という本ではなかったのである。

 率直に言って、水俣病(の概要)について知り、環境問題について学ぼうと思うのであれば、入門としてもっと「適切」な本がたくさんある。

 ぼくは本書を読んで、水俣病そのものの中身ではなく、まず「文学」としてのインパクを受けた。

 そのことは実は、以下の記事で書いた。

 本書を読んだ後に映画「82年生まれ、キム・ジヨン」を観たが、人格が分裂してしまうほどの感情移入・共感をして語り出すというところに「文学の誕生」の一つのあり方を見たのだった。

 

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 

 読書会の参加者Aさんは「変な話かもしれないが、この本を読んだ時、宮沢賢治を思い出した」と言った。

 若松英輔の『苦海浄土』の解説本の中に、石牟礼が『水はみどろの宮』という童話に触れて、「この童話の世界にふれると私は、宮沢賢治を思い出します」と述べている。石牟礼は宮沢賢治作品に若い頃出会い「天啓」としている。若松は宮沢賢治の「小岩井農場」という詩を評しつつ、

悲しい出来事があって、それを耐え忍ぼうと我慢する。しかし、どんなにそれを耐えてみたところで淋しさは湧きおこってくる。悲しければ、悲しいままでよい。人は、その悲しみを灯にして、人生の道を進むことができる。悲しみは人を闇に導くのではない。それはいつか、消えることのない光になる、と賢治はいうのです。賢治と石牟礼は、二人とも近代が宿している不可避な問題の告発者であり、詩を書き、童話を書きました。二人が、硬質な言論だけでなく、むしろ、童話や詩の世界に近代の闇を打ち砕いていくヒントがあると気づいていたという事実は、注目してよいと思います。(若松英輔『NHK「100分de名著」ブックス 石牟礼道子 苦海浄土 悲しみのなかの真実』KindleNo.1044-1050)

と二人の共通性を指摘している。

 参加者Aの感慨は決して珍しいものではないのだ。

 『苦海浄土』には水俣病患者の描写がさしはさまれるが、参加者Bは「読むのがつらい」と述べたけども、ぼくや参加者Aは、石牟礼が患者の「美しさ」のようなものを描こうとしている印象が強かった。少なくともぼくは「つらい」というような感想は持ち得なかったのである。

 石牟礼は『花の億土へ』のなかで

美とは悲しみです。悲しみがないと美は生まれないと思う。意識するとしないとにかかわらず、体験するとしないとにかかわらず、背中合わせになっていると思います。

と書いている。若松は、これを解説して「大きな悲しみを背負った者の生のなかにこそ、至上の美があるというのです」としている。

 ぼくはそのように描こうとしている意図は感じたし、石牟礼に限らずそうした価値観を持った作品に出会うことは確かにある。しかし、ぼくはあまりそのことが理解できない。どちらかといえば、そのように描くことに違和感を抱くのである。

 そのような描き方はデフォルメであるし、ものごとの一面の極端なまでの拡大辞だろう。

 言葉を奪われた者の言葉を「呪術師」のように紡ぎだすのだとしたら、わかりやすい怒りや恨みが出てくるわけではない。こんなふうになるのかもしれない。

 しかし、そうした一面性こそが石牟礼の文学の魅力なのだろう。

 だけど、これでいいのかなと思う。

 若松の解説本を読むと、『苦海浄土』はすぐには理解できないかのような記述がある。

苦海浄土』を読み、何かが分かったと自分で思ったら、それを打ち消し、もっと問いを深めていくような態度でなければならない。この作品を読んで何かを知ったと思えば思うほど、私たちは大きな誤解をしてしまうのかもしれないのです。(若松前掲書KindleNo.365-367)

 何もかも深遠で、理解できないものだとされているような気がする。

 戦争の犠牲者の問題もそうなのだが、確かに当事者には当事者にしかわからないことがある。しかし、例えば一般論として、何かの被害者や犠牲者について「かわいそうだね」という小さな同情から、それこそ石牟礼が問題にしていたような「自然な連帯」は始まるはずである。そうした気軽な理解に対してあまりにも高いハードルを立てすぎていないだろうか。

 運動としての広がりと、文学としての奥深さは、およそ異なるものだということを、この作品を読むとつくづく感じる。

 

いくつかの雑感

 それとは別に、本書を読んで思ったことをいくつか雑感的に記しておく。

 一つは、参加者Aがこの本から宮沢賢治を思い出したと言ったように、なんとなく童話のような、美しい描写が随所にあり、「声に出して読みたい」という衝動に駆られるということが挙げられる。

 前にも述べたけど、ぼくは大西巨人神聖喜劇』を毎日風呂で声に出して読んでいる。その際、九州北部の方言の会話の箇所を読むのが割と好きで、『苦海浄土』でも、地元の言葉で出てくるところや、風景を描写しているあたりは、声に出して読みたくなる。

 例えば冒頭のこれ。

 年に一度か二度、台風でもやって来ぬかぎり、波立つこともない小さな入江を囲んで、湯堂部落がある。

 湯堂湾は、こそばゆいまぶたのようなさざ波の上に、小さな舟や鰯籠などを浮かべていた。子どもたちは真っ裸で、舟から舟へ飛び移ったり、海の中にどぼんと落ち込んでみたりして、遊ぶのだった。

 夏は、そんな子どもたちのあげる声が、蜜柑畑や、夾竹桃や、ぐるぐるの瘤をもった大きな櫨の木や、石垣の間をのぼって、家々にきこえてくるのである。(石牟礼同書KindleNo.34-40)

 

 

 二つ目は、宗教について。この作品全体に宗教のムードが漂っているのだが、特に江津野杢太郞の家を訪ねるシーンで、その家の神棚に祀ってある石の由来を杢太郞の祖父が語る下りだ。

あの石は、爺やんが網に、沖でかかってこらいた神さんぞ。あんまり人の姿に似とらいたで、爺やんが沖で拝んで、自分にもお前どんがためにも、護り神さんになってもらおうと思うて、この家に連れ申してきてすぐ焼酎ばあげたけん、もう魂の入っとらす。あの石も神さんち思うて拝め。(石牟礼前掲書KindleNo.2231-2234)

  参加者Aは「これは杢太郞の家が貧しいことを表しているんじゃないのか?」と言っていたが、ぼくはそこが強調点ではなく、若松英輔が解説しているように、海から拾ってきた石に神秘なものを感じてそれを拝むというのは、まさにこれは「信仰が生まれる現場」なのであろう、という気がした。

 ぼくらは何かあると拝む。祈る。新年に神社に行って何かを祈願するというのがそれだし、苦しい時にやはり何かを祈る。そういう素朴な信仰のありようの延長にあるのが、この祖父の信仰じゃないのか。宗教は複雑な教義や施設を排して、そういう次元から出発したら、むしろ現代の日本では蘇生するんじゃないかとふと思ったりした。

 

きっかけに

 さて、そのような『苦海浄土』ではあるが、この読書会では、水俣病をめぐり現在の裁判闘争が闘われていることが話題になった。参加者の中には「え、もう終わった話じゃないの?」という人もいた。

 ぼくも、本書を読みながら、国会質問をいくつも聞き直したし、裁判をめぐる記事を読んだりもした。

www.youtube.com

 また、今は埋めたてられている現地にも行こうと思ったし、「水俣病 その20年」という記録映画も見た。水俣病についての写真家であるユージン・スミスを描いた映画も見に行こうかと感じた。

www.nippon.com

 つまり、いろいろあっても本書を一つのきっかけにして、何かの行動をしようとは思ったのである。

 

山田昌弘『日本の少子化対策はなぜ失敗したのか?』

 タイトルに惹かれて読んだ。

 

 

 山田がいうには、

  • 日本はスウェーデン、フランス、オランダの対策をモデルにしてしまった。
  • これらの国の固有の価値観を少子化対策の前提にしてしまった(子は成人したら独立する、仕事は女性の自己実現など)。また日本固有の価値観をスルーしてしまった(リスク回避、世間体重視など)。

ということである。

 

因果が逆では

 全く当たっていないわけではないけども、基本的に因果が逆ではないのか、というのが本書を読み終えた率直なぼくの感想である。意識や志向の問題ではなく、長い自民・公明政権下での政策の遅れ(というか逆方向)がそのような意識や志向を作り出してしまったのである。それなのに、山田は意識や志向から欧州との差やこれからの対策を論じようとする。

 

 例えば「仕事は女性の自己実現」という意識が日本の女性には乏しい、だから仕事を続けたい女性が出産をためらっていることにフォーカスを当てる政策(保育充実、夫の育児参加)はおかしい、という問題は、山田自身が書いているように、

日本社会では、正社員であれば、会社への献身的忠誠——長時間労働、家族を顧みない働き方——が求められる。それができなければキャリアコースから外れる。…男性並みの仕事能力のある女性は、キャリアコースから外れると、仕事を継続する気をなくすのである。(p.81)

ということの裏返しである。キャリアコースから外れた女性たちが、一般職や非正規の職を「生きがい」としないのは理由のあることだろう。

 山田はあたかも日本女性の「志向」のように描いているが、明らかに政治・政策の問題だ。長時間労働を駆逐する規制を強烈に行うことで、意識は逆転する。

 

 また、モデルにした欧州諸国は恋愛優先、日本は経済生活優先と山田はいう。とにかく恋愛して子どもを作ってしまう欧州と、「好きであれば相手が貧乏でもかまわない」とは思わない日本との差を強調する。

 これも、日本女性に内在的に備わった「志向」の問題ではなく、経済生活への先行きの不安からくる意識であって、それを解決することが意識を変える前提となる。教育費・住宅費・老後資金などを社会保障で用意するのか、自分で大金を稼いでゲットしろというのかで、雲泥の差がある。山田自身が次のように記している。

北欧やオランダ、フランスなど、社会保障制度が整っている国々では、若者に関する社会保障が充実している。失業保障、住宅保証などがあり、子育て支援も充実している。(p.160)

 

 山田は、「学び・楽しみとしての子育て、ブランドとしての子ども」(p.107)という主張をする。だから子どもに巨額の投資をするのだ、と。

 いや、それって、山田周辺の事情じゃないの?

 もちろんそういう浮ついた競争めいた意識がないとは言わないけど、むしろ高学歴を得て教育費・住宅費・老後資金を獲得する能力を得なければ、選択肢の少ない悲惨な人生を送ってしまうと思うから必死でやっているわけで、その過程で「学び・楽しみとしての子育て、ブランドとしての子ども」という問題も派生しているに過ぎない。

 ここでも山田は欧州の事情について

親は、原則、大学など高等教育費を負担しない。ヨーロッパ大陸諸国では大学の授業料は(自国民には)極めて安価である。(p.108)

と書いている。

 また、「リスク回避」傾向が日本人にあるというが、これも先行きがどうなるかわからないのに、チャレンジなどできないのは当たり前である。生活の基本的なところが社会保障で支えられて初めてチャレンジできるというものではないか。

 

日本の「中流」とは本当の意味での「最低生計費」のことではないのか

 山田が指摘する欧州と日本の違いで次の点を挙げる。

  • 欧州では子どもが成人して最低限の生活を遅れれば関心はない。
  • 日本では中流以下の生活に転落したくない(中流転落不安)という世間体意識から必死でそれを維持しようとする。

 これは、日本の「中流」という水準をどう見るのか、という問題だと思う。

 ヨーロッパでは「最低生計費」、つまり「健康で文化的な最低限度の生活」を送れればいい、というのは、教育・住宅などが社会保障として整っている前提があれば、かなり低くてもやっていける。

 そして、購買力平価で見ると「最低生計費」でいろんなものが買える。(いまや菅政権のブレーンとなったアトキンソンの記事で恐縮だが以下を参考にしてほしい。)

toyokeizai.net

 他方、日本の「中流」とは何か。

 日本の最低賃金生活保護=最低生計費=「健康で文化的な最低限度の生活」のラインがあまりにも低過ぎて、そんなレベルの暮らしにはなりたくないと誰もが思ってしまう。山田が指摘する「世間体」とは、そのようなライン前後、つまり貧困にはなりたくないと思っている意識のことではなかろうか。

 これは欧州よりぜいたくな意識なのではなく、ある意味で当然の考えだと言える。

 したがって日本の「中流」とは実は本当の意味での「健康で文化的な最低限度の生活」、欧州レベルの(社会保障を前提とした)「健康で文化的な最低限度の生活」なのではないか

 

シングルマザーモデルを

 だとすれば、やはり少子化対策の処方箋は、

  • 強力な労働時間の削減・規制で、男でも女でも誰でもが続けられる職場にする。
  • 住宅・教育・子育てなどを社会保障に移転し、最低賃金生活保護を抜本的に引き上げ、無職・非正規の子弟でも大学に不利なしに行けるようにする。

ということに尽きる。

 具体的には、いかにも「正社員の夫婦(もしくは高給取りの男性正社員と専業主婦)と子ども2人」とかを想定した「住宅ローン減税」「自動車減税」とかじゃなくてシングルマザーが何のストレスもなく子ども2人を大学にやれるようなモデルを作ってみるといいと思う。

 そんな政権を待望する。

 

映画『82年生まれ、キム・ジヨン』

(映画のネタバレが少しあります)

 リモート読書会の題材となったので、石牟礼道子苦海浄土』を初めて読んだ。恥ずかしながらそれまで一度も読んだことはなかったのである。

 

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

新装版 苦海浄土 (講談社文庫)

 

 

 なんの知識もなく読んだが、途中から違和感を抱いた。

 これは本当に誰かがしゃべったことなんだろうか? そしてその「聞き書き」なんだろうか?

 江津野杢太郞という9歳の水俣病患者の家族を記したところで、その祖父、爺さまが妻とともに漁をすることを語る次のような言葉を読んだ時にそう感じた。

 あねさん、魚は天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんを、ただで、わが要ると思うしことって、その日を暮らす。

 これより上の栄華のどこにゆけばあろうかい。

 寒うもなか、まだ灼け焦げるように暑うもなか夏のはじめの朝の、海の上でござすで。水俣の方も島原の方もまだモヤにつつまれて、そのモヤを七色に押しひろげて陽様の昇らす。ああよんべはえらい働きをしたが、よかあ気色になってきた。

 かかさまよい、こうしてみれば空ちゅうもんは、つくづく広かもんじゃある。

 空は唐天竺までにも広がっとるげな。この舟も流されるままにゆけば、南洋までも、ルソンまでも、流されてゆくげなが、唐じゃろと天竺じゃろと流れてゆけばよい。いまは我が舟一艘の上だけが、極楽世界じゃのい。(石牟礼道子苦海浄土 わが水俣病講談社、KindlNo.2372-2381)

 方言で書かれながら、整い過ぎているのである。地方の老漁師がまるで、物語や詩の一片のような、そんな言葉を紡ぎ出すものなんだろうか?

 講談社文庫の新装版で解説を書いている渡辺京二は、この江津野老人の独白は、「聞きとりノートにもとづいて再構成されたものなのだろうか。つまり文飾は当然あるにせよ…これに近い独白を実際彼女に語り聞かせたのであろうか」(p.370)と不審を起こし、こう続ける。

 以前は私はそうだと考えていた。ところがあることから私はおそるべき事実に気づいた。仮にE家としておくが、その家のことを書いた彼女の短文について私はいくつか質問をした。事実を知りたかったからであるが、例によってあいまいきわまる彼女の答をつきつめて行くと、そのE家の老婆は彼女が書いているような言葉を語ってはいないということが明らかになった。瞬間的にひらめいた疑惑は私をほとんど驚愕させた。「じゃあ、あなたは『苦海浄土』でも……」。すると彼女はいたずらを見つけられた女の子みたいな顔になった。しかし、すぐこう言った。「だって、あの人が心の中で言っていることを文字にすると、ああなるんですもの」。

 この言葉に『苦海浄土』の方法的秘密のすべてが語られている。(同p.370〜371)

 もちろん、これは文庫版の解説につけられているほどの中身であるから、すっかり有名なことなのであろう。知っている人にとっては「何を今さら」というべきほどのものである。渡辺はこうも記している。

患者の言い表していない思いを言葉として書く資格を持っているというのは、実におそるべき自信である。石牟礼道子巫女説などはこういうところから出て来るのかもしれない。この自信、というより彼らの沈黙へかぎりなく近づきたいという使命感なのかもしれないが、それはどこから生れるのであろう。(同p.371)

 若松英輔は、石牟礼が第1回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞しながらそれを辞退した理由について、これがノンフィクションでないことと、この物語の本当の作者が自分(石牟礼)ではないと考えていることを挙げている。

苦海浄土』は水俣病の患者たちが本当の語り手であって、自分はその言葉を預かっただけなのだ、という強い自覚が彼女にはある。表現を変えながら彼女はさまざまなところで、水俣病の患者たちは、言葉を奪われて書くことができない、自分はその秘められた言葉の通路になっただけだと語っています。(若松英輔『NHK「100分de名著」ブックス 石牟礼道子 苦海浄土 悲しみのなかの真実』NHK出版、KindleNo.17-19)

 対象に強い共感を覚え、その人そのものになってしまうような一体感とともに言葉を紡ぎ始める——これはある種の文学が誕生する瞬間でもあるのだろう。

 映画『82年生まれ、キム・ジヨン』を見て、主人公ジヨンの人格が分裂する、というか、母親や祖母がまるで憑依したかのように語り出したとき、それは「文学」が誕生する瞬間でもあった。

www.youtube.com

 一緒に映画を観たつれあいは、「自分だけでなく、母親や祖母たちの女性としての生きづらさに強く同情・共感し、自分の中に煮こごりのようになっていき、まるで憑依したかのようにその言葉を語り出した。だから、まさにジヨンは小説や文学を書くべき人であった。最終的に彼女が小説を書き始めたのはとてもよくわかる」と言った。

 ぼくも映画を観ていて、嗚咽しそうなほどに涙が止まらなくなったのは、ジヨンの人格が消え、ジヨンが祖母の言葉を語り出したシーンだった。それはジヨンの口を借りて、祖母が自分の娘(つまりジヨンの母)のつらさを語り出したものであった。女性が人生で背負わなければならなかった困難が歴史の地層のように積み重なって言葉になり、それを当のジヨンの母親が聞くのである。

 女性の三代の歴史と困難が凝縮され、それを孤独の中ではなく、母親の号泣と抱擁のうちに解放させるこのシーンは名場面というほかなかった。

 原作も少し前に読んだ。原作はもっとジヨンが生きてきた中で出遭わねばならなかった困難が数多く描かれていて、その一つひとつに共感もし、驚かされもし、反省もした。そして結末は、女性の現状に対する暗澹たる閉塞で終わるものだった。その救いのなさが、現状の告発としてとてもよく効いていた。

 

82年生まれ、キム・ジヨン

82年生まれ、キム・ジヨン

 

 

 だから、今度の映画の日本版のコピー「大丈夫、あなたは一人じゃない。」は原作のテイストを知っている者からすれば、違和感、というかむしろ眉をひそめると言っていいほどのものだった。

 しかし、観終わってみれば、原作のエピソードなどを生かしつつも、映画は原作とは別の作品なのだと改めて思った。「大丈夫、あなたは一人じゃない。」というコピーは、映画のラストの展望とも関わって、それなりにうなずけるものだと考え直すに至った(ただし、女性の困難な人生を支える人たちの多くが「家族」にとどまっている点がとても気になるのではあるが)。

 観ていない人は、ぜひ観に行くべきだ。

 

付け加え

 冒頭の夫の実家の様子が、もうね、「ぼくの実家」の雰囲気にそっくりで、言葉がなかった。息子ファーストで嫁に仕事をさせる。そして、現代では必要とは思えないような盆・正月の家事をさせるあたり。男が食器を洗うことすら「場違い」になり、そこに抗しきれない夫の様子もぼくそっくりで、隣でつれあいが観ていたが、どうしようとか思ってしまった。いたたまれないとはこのことだ。

「障害」と「障がい」

 福岡県自治体問題研究所のメルマガである「福岡みやしたメールじょうほう」を読んでいたら、出し抜けに「紙屋高雪氏が近著で議論しているように…」とぼくの名前が出てきたのでびっくりした。

 これは同研究所事務局長の宮下和裕の一文の表現をめぐっておきた論争である。この論争は、同研究所の「福岡の暮らしと自治」514号(2020年10月15日号)に転載された。その際に、メルマガからさらに後続のメールが追加された上で、実名などが明らかにされ、メルマガでは匿名だった発言者が誰であるかが明らかになった。

 ことの発端は宮下が「小規模特認校」*1というものを紹介する中で次のような表現を書いたことによる(引用は同号より。強調は引用者、以下特記がない場合は同じ)。

障害等を持つ子、不登校問題にも有効だとのこと。

 これに対して、元新聞記者の方から、

「障害を持つ」という表現は、「持つ」は本人の意思が入っている単語ですので、新聞用語では「障害のある」としか使いません。できれば、「障害を持つ」の表現はやめてほしいと思います。

という意見が寄せられた。宮下はこの意見を受け入れて訂正を表明した。

 しかし、これに対して、大分大学の高島拓哉准教授から「表現の訂正に特に異存はありません」として、宮下の意思を尊重しつつ、次のような意見が寄せられた。

ただし、「発達障害を持つ」が本人の意思によるとの理解は誇張を感じます。

意識的にであるかどうか「持つ」ことと無関係だと私は思っています。

英語の「have」の場合などは、もっと明確に、単にその人にそのような属性が伴っているという意味になります。

日本語の「持つ」はそこまではっきりとはしませんが、少なくとも意思が伴うことを要件とする表現とまでは言えないと思います。

  その上で高島は、こう指摘した。

障害の社会モデルでは、障害の本質は当事者自身がもっている医学的な機能障害(impairments)ではなくて、機能障害があることを踏まえた社会的配慮の欠如という社会の側の要因を重視して理解しています。このモデルだと、障害がネガティブであるのは、本来なされるべき配慮をサボっている社会の側の不作為を問題とするニュアンスになります。

 

 ぼくは、障害を社会の視点から捉えるか、医学的に見た個人機能の面から捉えるか、という視点の違いはなんとなく知っていた。しかし、この問題とは全然別問題だと思っていたのである。

 高島は続ける。

「障害」を「障がい」と書き換えるのも、伝統的な医学モデルによる障害理解のために、障害の否定面を当事者に還元する発想が前提されていると私は思っているので、社会モデル的な視点を多くの人に理解してもらうために、あえて「障害」の表記を使っています

  なるほど、と思った。

 ぼくは「障害/障がい」の表記問題を、「当事者が『障がい』を望んでいるから」「気にしすぎ/当事者の意見に絶対性を置きすぎ」「国の表記がまだ『障害』のままだから」などのレベルでしか考えたことがなかった。

 「当事者が望んでいる(「害」の字を嫌がっている)」という理由以外に「障がい」にする理由を聞いたことがなかったので、もしこの理由だけで受け入れてしまうと、「当事者が望んでいることは全て受け入れるべき」という原則を(自分の中に)立ててしまうことになり、釈然としないものを感じていた。また、言葉の成り立ちを歴史的起源だけで裁定してしまうと、例えば「女房」「主人」「家内」などの使用を断罪してしまうこととなり、それもやはりモヤモヤしたものを感じていた。

 結局そのレベルでこの問題を捉えていて、十分な根拠のないまま「障害」という表記を使っていたのである。

 そこに、高島の指摘は新鮮だった。彼は本当は社会モデルと医学モデルを統合したICFモデルというのが一番いい、と述べているが、

今はあまりにも医学モデルが人々の意識に根強く残っているので、あえてそうしています。

と書いている。

 この「ICFモデル」に関わって、医学モデルと社会モデル、それぞれの視点からの問題の把握の仕方を高島は実父の経験を使ってこう紹介している。

実父は小児まひの後遺症で、最初は両松葉杖でした。学生時代に手術を受けて片ステッキで歩けるようになったそうで、これは医学モデルで説明できることです。他方、職場が移転した時に、駅からが僅かばかり坂道になっていたので、距離は短いのにタクシーを使わなければならなくなったことは、社会モデルの該当する事例だと思います。実際にはこのように医学モデルと社会モデルはどちらも必要で、WHOのICFモデルも両者を統合したものになっています。

 高島がぼくの本を紹介したのは、

紙屋高雪氏が近著で議論しているように、私は表現の問題について、意見を述べるのは積極的なことだと考えていますが、表現については多様な意見があると思っています。

という流れだった。つまり、元新聞記者氏が表現について意見を述べたことは、一部の反リベラル派が口にするような「圧力」「言葉狩り」「言論弾圧」ではなく、民主主義にとって積極的なことだと高島もとらえたわけである。また、宮下の修正も、拙著で紹介している『はじめてのはたらくくるま』事件のように望ましいorありうる言論プロセスと感じられたのであろう。つまり、「圧力を恐れて萎縮したのではなく、じっくりとした対話と冷静な判断で表現を修正・撤回した」というわけである。

 

不快な表現をやめさせたい!?

不快な表現をやめさせたい!?

  • 作者:紙屋 高雪
  • 発売日: 2020/04/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

 ぼくは先ほど

「当事者が望んでいる(「害」の字を嫌がっている)」という理由以外に「障がい」にする理由を聞いたことがなかったので、もしこの理由だけで受け入れてしまうと、「当事者が望んでいることは全て受け入れるべき」という原則を(自分の中に)立ててしまうことになり、釈然としないものを感じていた。

と書いた。自分が作るビラで「障害者」などと表記すると、当の障害者から電話がかかってきて「あんたはまだこんな表記を使っているのか。呆れたな」と言われたりする。当事者の意見はとても大切なものだが、当事者性だけでは受け入れる理由にならない。

 例えば菅首相が「私は『学問の自由の破壊者』と書かれることは望んでいないので、『学問の自由の破壊者』とは書かないでほしい」という意見を言ってきたとき、それを「当事者からの意見だから」という理由だけで受け入れはしないであろう。

 

 高島の視点は「障害」表記問題に、(ぼくにとって)新しい視点を投げかけるものだった。もちろん、「障がい」の方の表記について他に何か新たな視点があれば積極的に聞くつもりではある。

 

参考:政府における検討作業

 なお、この議論自体は、すでに内閣府の「障がい者制度改革推進会議 『障害』の表記に関する作業チーム」によって検討結果がまとめられている。

https://www8.cao.go.jp/shougai/suishin/kaikaku/s_kaigi/k_26/pdf/s2.pdf

 その中で、例えば「障害」と表記することの肯定的意見として特定非営利活動法人DPI日本会議という障害者団体のコメントが次のように記されている。

 障害者の権利に関する条約(仮称)においては、障害を視覚、聴覚、 肢体等の機能不全等を意味する「Impairment」と表記するとともに、機能障害等によってその人の生活や行動が制限・制約されることを「Disabilities」と表記している。これは、障害者の社会参加の制限や制約の原因が、個人の属性としての「Impairment」にあるのではなく、「Impairment」と社会との相互作用によって生じるものであることを示している。

 したがって、障害者自身は、「差し障り」や「害悪」をもたらす存在ではなく、社会にある多くの障害物や障壁こそが「障害者」をつくりだしてきた。このように社会に存在する障害物や障壁を改善又は解消することが必要である。このような社会モデルの考え方と条文では、「Persons with Disabilities」と表記していることから、現段階では、「障害」の表記を採用することが適当である。
 当面は、障害者制度改革を推進し、社会の在り方を医学モデルから社会モデルへと転換することに時間を費やすべきであり、「障害」の表記については将来的な課題とすべきではないか。 

 その上で同チームは

現時点において新たに特定のものに決定することは困難

と総括している。

 そして当事者の表記希望に配慮することと、障害者権利条約やICF国際生活機能分類)の障害概念などに留意することを踏まえて、

法令等における「障害」の表記については、当面、現状の「障害」を用いる

としたのである。

*1:「児童数の少ない公立小中学校に学区外からの入学を認め、複式学級を解消して小規模校の存続を図ろうとする制度」(宮下)。