鍋倉夫『リボーンの棋士』

 『リボーンの棋士』は奨励会の年齢期限に間に合わず退会になった主人公が再びプロを目指す物語である。

 

リボーンの棋士(1) (ビッグコミックス)

リボーンの棋士(1) (ビッグコミックス)

 

 

 「九州漫画読み会ONLINE」で取り上げられた作品だったけど、配信をライブで見られず、アーカイブで見た。

https://www.youtube.com/watch?v=oZFJKVTq7xo

 

負の感情を前提にしながらメインテーマは…

 将棋マンガはいろいろあるので、その中でこの作品の特質を探すとすれば普通は「プロになれなかった怨念」「負の感情」「コンプレックス」みたいなものがメインテーマになるはずなのだが、主人公・安住はその影がホント乏しい。ないわけじゃないけど。

 そういうマイナスのオーラを削ぎとったキャラになっている。

 むしろそれは安住と同様に奨励会を退会になった土屋に一身に担わされている。

 6巻までで圧巻と思えるのは6巻の安住と元・師匠の伊達との対局である。

 

リボーンの棋士(6) (ビッグコミックス)

リボーンの棋士(6) (ビッグコミックス)

 

 

 先ほど述べたように安住側は奨励会を退会した「怨念」「負の感情」「コンプレックス」を背負っているベースに加えて、元師匠への感情もある。他方で、伊達側には元弟子を退会させてしまった負い目や現在勝負から「降りた」(棋士としての終わり)ように後進の育成に勤しんでいる。

 そうしたものが勝負が進むに従って、勝負の中にすっかり溶けてしまい、

師匠も弟子もプロもアマも関係ない。

あるのは自分と相手と将棋盤だけ…

純粋な棋理の追求……

そんな世界にまた来ることができた。

 と安住ではなく伊達に思わせている。

 そして安住は千日手で指し直しになった時、深夜3時であるにもかかわらず「最高の日だ」と思い、月に向かって

今日が終わってほしくない。

と心から感じるのである。これが「求めていたもの」だったのである。

 いろんなものを背負っているはずの2人がそうしたものを一切流し去って勝負に没頭する、将棋とは、というか競技=勝負というものはそんな楽しさがあるのではないか、それはプロであってもアマであっても関係ない、という原初的な感情を強烈に描き出している。

 最後に二人が出会った頃の姿に戻り、まるで子どもに向かっていうように、伊達が一言だけ

またやろうな。

と言い、安住が笑って

はい。

とだけ答える。他にもう何もいらないではないか、ということを示す素晴らしいシーンである。

 

 1巻、つまり作品の出だしで「お、これは面白そうな作品だ」と思うきっかけになるのは、安住が過去に対戦したことのある有名プロ棋士・明星を、多人数での指導対局の中で安住が負かすシーンである。過去に対局したことなど忘れて対面する明星は素人の集団と思って侮っているのだが、途中で自分が不利であることに気づくが挽回できない。

 ここでぼくらは安住に感情移入し、「ザマーミロ!」という気持ちになる。安住を侮った明星に一矢報いた気分になるのだ。いわばそこで「負の感情」「怨念」のようなものを読者として持つことになる。

 だから、この物語はそのような感情を推進力にしていくに違いないと思うのだ。

 あにはからんや、そうではないのである。(そして1巻のそのエピソードの終わりを読めばわかるが、安住はそのような感情にこだわってはおらず、むしろ将棋を楽しめなかった頃の自分を反省し、楽しみながら指すことで勝利を得ている。)

 「奨励会を退会しプロになれなかった」という怨念の前提から出発するマンガかと思いきや、そうした感情を全て払拭するような勝負の楽しさがあるのだということを主題に据えてくるところが恐れ入った。前提は廃棄されているが、しっかり生きている、つまりアウフヘーベンされているのである。

 安住がただ単に「明るいキャラ」なのではなく、勝負をすることの快楽の中に生きているがゆえにあのキャラなのだという説得性を持たせている。

 

そのほかの話題

 なお、個人的には研究会の雰囲気がすごく好き。

 このマンガでの雰囲気が好き、というより、囲碁とか将棋の熱心な研究会の姿がすごく好き。どういう雰囲気かといえば、一番それをうまく描いているのは『ヒカルの碁』の研究会の様子である。自主的にこれでもかと研鑽を重ねていく様子に、まるで『福翁自伝』の適塾のような近代草創期の野蛮な情熱を見る。切磋琢磨して研究し合う——なんて美しいんだ!(『まんが道』にもそれを感じる)

 

現代語訳 福翁自伝 (ちくま新書)

現代語訳 福翁自伝 (ちくま新書)

  • 作者:福澤 諭吉
  • 発売日: 2011/07/07
  • メディア: 新書
 

 

 このマンガで言えば、2巻の古賀7段の研究会に出るシーンである。

 

リボーンの棋士(2) (ビッグコミックス)

リボーンの棋士(2) (ビッグコミックス)

 

 

 特に研究に全く熱心でなく、惰性でプロを続けてるかのように見える小関との対比が好き。こんな雰囲気の研究会に俺も入りたい! 

 

 ところで、「九州漫画読み会ONLINE」でも取り上げられていたが、冒頭に出てくる安住と同じカラオケ店のバイト・森の扱いが雑。昔っぽい「女の子のそえものキャラ」になってしまっているので、もう少しなんとかしてあげて…。

 

疑問

 伊達vs安住で、勝敗の行方が誰から見ても決まってから、伊達が指し続けたのは何故なのか。その解釈が今ひとつわからない。

「ラディカルであるとは、ものごとを根本からつかむことである」(マルクス)について

 ある左翼組織の会議に出ていたら、報告者がマルクスの有名な章句を引用していた。報告が文書になっており、引用は次の通り。

物質的な力は物質的な力によってたおされなければならない。しかし理論もそれが大衆をつかむやいなや物質的な力となる。理論が大衆をつかみうるようになるのは、それが人に訴えかけるように論証をおこなうときであり、理論が人に訴えかけるように論証するようになるのは、それがラディカルになるときである。ラディカルであるとは、ものごとを根本からつかむことである。

 『ヘーゲル法哲学批判序説』からの引用である。出典が書いていないが、大月書店版『マルクス・エンゲルス全集』と全く同じなので、おそらくそこからの引用だろう。マルクスのこの著作は有名なので他にもいろんな訳がある。

 

 

 今どきこんなマルクスの発言を引用をするコミュニストの会議報告があるの? といぶかる方もいるだろうが、本当にあるのだ。だいたい定期的に行われる会議なのだが、この報告者は必ず1か所はマルクスとかエンゲルスとかの長々とした引用をする。近年ではまことに珍しい報告者である。

 それはさておき。

 もともと、ぼくはこの「ラディカル」と「根本」という訳について不思議に思っていた。

 「ラディカル」には「過激な」とか「急進的」という意味がある。「ノンセクト・ラジカルズ」と言えば「党派に属していない過激派」というような意味になる。

 他方で「ラディカル」には「根本」という意味があるから、世間様から見て「あいつは急進派だ」とか「過激思想だ」とか言われる人は「物事の根本からの問題を提起し、行動している人間・思想」であることが多い。「資本主義社会そのものを変えないとダメだ」とか「消費税を廃止せよ」「学校制度そのものが悪なのだ」とかである。

 だから、初めの「ラディカル」は本当は「過激」「急進」とした方がわかりやすいのではないかと思っていた。しかし、訳さずに「ラディカル」とそのまま載せる場合をよく見る。

 原文はドイツ語である。そのもう少し前を入れると、次のようになっている。

Die Waffe der Kritik kann allerdings die Kritik der Waffen nicht ersetzen, die materielle Gewalt muß gestürzt werden durch materielle Gewalt, allein auch die Theorie wird zur materiellen Gewalt, sobald sie die Massen ergreift. Die Theorie ist fähig, die Massen zu ergreifen, sobald sie ad hominem |am Menschen| demonstriert, und sie demonstriert ad hominem, sobald sie radikal wird. Radikal sein ist die Sache an der Wurzel fassen.

 参考にしたのは以下のブログ。

anowl.exblog.jp

 

 このブログは次のように訳している。

批判の武器はもちろん武器の批判に取って換えることはできない。物理的な暴力は物理的な暴力によって倒されなければならないが、しかしまた、理論も、それが大衆を捉えるやいなや物理的な暴力になる。理論は、感情に訴えて人身攻撃で証明すれば、それはすぐに過激になる。過激であることは、事柄を根本から掴むことである。

 “フツーは「剣はペンより強し」なのだが、大衆が何かの理論を知ると一気に過激化して、暴動=革命を起こし、国家の武力など倒してしまう”という意味で訳している。これはこれで意味が通っている。

 die materielle Gewalt「物質的な力」が「物理的な暴力」という訳になっている。この部分は英語ではmaterial forceである。

 materielleは英語でいうとmaterial、Gewaltはあの「ゲバ棒」の「ゲバルト」である。「ゲバルト」を「暴力」と訳す場合もあるが、「強力」「実力」「力」と訳す場合もある。英語ではforceになる。

 ちなみに、英語では次の通りだ。

 

The weapon of criticism cannot, of course, replace criticism of the weapon, material force must be overthrown by material force; but theory also becomes a material force as soon as it has gripped the masses. Theory is capable of gripping the masses as soon as it demonstrates ad hominem, and it demonstrates ad hominem as soon as it becomes radical. To be radical is to grasp the root of the matter.

 参考にしたのは以下のアーカイブ

www.marxists.org

 

 しかし、このブログの訳は、後半がわかりにくい。

理論は、感情に訴えて人身攻撃で証明すれば、それはすぐに過激になる。

 「感情に訴えて人身攻撃で」の部分はad hominemだ。英文にも独文にも出てくる。ad hominemはラテン語である。英和辞典では次のように解説されている。

 

  1. ラテン語〉理性より感情に訴えて
  2. ラテン語〉〔議論などで〕人の性格を攻撃して、人身攻撃の

  

 ブログ主はどちらの意味をも付与したようである。あえて意味をとれば、“人格攻撃をして感情を煽ればたちまち炎上するよね”ということになる。うーん、マルクスがネット論客みたい。

 ここまではまあいいとして、しかし次の、

過激であることは、事柄を根本から掴むことである。

にはつながりにくい。“人格攻撃で煽動されたアホなネットイナゴ”というイメージで来たのに、そのアホ大衆は「事柄を根本から掴む」ということをやってのけているからだ。

 マルクスが『ヘーゲル法哲学批判序説』を書いたのは1844年。ドイツは1848年の革命の前であり、さらに言えばヨーロッパ中で議会による革命などイメージすることがまずありえない時代の論文だから、ここで革命が武力革命をイメージしていてもそれは仕方がない。だから、前半部分の翻訳はとりあえず容認しよう。

 しかし後半のad hominemのあたりはどうも違う。

 

 ぼくがすぐ参照できる本として『マルクスエンゲルス8巻選集』があり、これは次のような和訳を載せている。

 そこでは該当箇所はこうである。

理論はそれが人に即して〔ad hominem〕論証するやいなや、衆人を摑むことができるのであり、そしてそれはラディカルになるやいなや、人に即しての論証となる。ラディカルであるとは、事柄を根元においてとらえることである。(選集1、p.16-17)

 

 ad hominemは「人に即して」となっている。

 ドイツ語の原文では、このラテン語の後に「am Menschen」があり、Menschenが「人」、amはan dem の縮約形で「〜で」とか「〜に」とか「〜において」という意味となる。英語の前置詞にあたるものだろう。

 「人に即して」というのはどういう意味だろうか。

 「その人に合ったように」「その人に相応しいように」というオーダーメイド的な、あるいは個別最適化のような意味に聞こえるのだが、そうではないだろう。最初に紹介した、ぼくが会議で聞いた報告(おそらく大月版『全集』)の訳「人に訴えかけるように」の意味だと理解すれば理屈がつながる。「人の心の琴線に触れて」ということだ。*1

 そして、マルクス研究家の的場昭弘は「ラディカル」という言葉を放って置かずにあえて「急進的」と訳している。

 ぼくもここは「過激」か「急進的」かにあえて訳した方がいいんじゃないかと思う。マルクスがここで書いているのは、普通の人が使う「ラディカル(ラジカル)」という言葉をまず持ってきて、その本当の意味を打ち明ける、という論法になっていると思うからだ。つまり“人から過激思想だと思われているものは、実は物事を根本からとらえているので「過激」に見えるんだよ”ということをマルクスは言いたいんじゃないだろうか。*2

 

 冒頭の「批判の武器はもちろん武器の批判に取って換えることはできない」は初期のマルクスがよく使うペダンティック諧謔で、先ほども述べたとおり、ここは「言論による批判では、武力の代わりにはならない」(武力の方が言論よりも強い)という意味である。

 die materielle Gewaltを「物理的暴力」と訳すか、「物質的な力」と訳すかは難しいところである。「物質的な力」って、フツーの人が聞いてわかるかな? materielle(material)には「実体的な」という意味があり、自衛隊を「実力組織」と言ったりするので、「実力」はどうかと思ったが、それだと「実力テスト」の「実力」みたいに聞こえるよな。ここはあえて「力」だけにした方が伝わるのではないだろうか。

 

 紙屋訳はこんな感じか。

理論による批判では、武力の代わりにはならない。力は力によって打ち倒されるものだ。しかし、理論であっても、それが大衆をとらえると力になる。理論が大衆をとらえるというのは、それが人の心の琴線に触れるように論証されるということだ。そして、人の心の琴線に触れるように論証されるというのは、それが過激になるということだ。過激とはものごとを根本からつかむことである。

 うん、まあでもこれ「超訳」だからな。

 忠実な翻訳としては、やはり大月版『全集』訳がこの部分については一番わかりやすい。

 

 冒頭にも述べたとおり、例えば「消費税を廃止しろ」というのは「過激思想」に思える。しかし、こう提起することで税金は富裕層への累進課税であるべきか、大衆からの収奪的な課税であるべきかという根本的な問題提起がなされる。まさに「根本からつかむ」ということだ。

 消費税が5%か10%かという問題設定は確かに社会合意は得やすいけども、廃止か否かという議論に比べると、税制の根本問題は浮かび上がりにくい。根本問題が提起されて初めて、消費税は大衆から収奪するための税金であり、税金を取るならなぜ大儲けしている大企業や大金持ちから取らないのか、という点が「人に訴えかけるように」(人の心の琴線に触れるように)論証されることになる。

 

余談(付記)

 15日付の「しんぶん赤旗」でワタナベ・コウが自分と共産党(とその綱領)との出会いを語っていた。「共産党との接点は(それまで)まったくありませんでした」と述べるワタナベが人生を大きく変える様子が語られている。

  ワタナベは記事中で核兵器をめぐる世界情勢の見方についての自分の転換を語っている。これはまさにワタナベ的には共産党という「過激思想」に触れたということであるが、「過激」とは実は「物事を根本からとらえる」という意味であることがわかる。

 共産党は少なくとも党員の半分以上が改定された綱領を読み終えようという党内運動をやっているのだが、なかなか苦しんでいる。*3「大変な労力をかけて綱領を読ませても即効性がない(すぐに活動に立ち上がらない)」という気分が組織の中にあるからだろう。そんなに目の色を変えてやるような課題に思えないのだ。

 しかし、「このままだと落選するから土曜日までにあと2票お願いできない?」というような「即効性」のある訴えを求めるのではなく、「物事を根本からとらえる」変化をして長いスタンスで社会変革の運動に取り組んでもらえる人をつくろうとするなら、ワタナベが起こした変化にこそ注目すべきなんだろう。

 

*1:前述の英語の辞書の「1」の意味では「理性より感情に訴えて」とあってこれと似ているが、これはわざわざ理性と感情を対立させていて、別のニュアンスになってしまう。

*2:ちなみに、的場は当該部分全体を次のように翻訳している(的場「青年マルクスの『革命』観」から)。「もちろん、批判の武器は武器の批判にとってかわることはできない。物的な力は物的な力によって崩さねばならない。理論もまた大衆をつかむやいなや物的な力となる。理論は人間に即して証明されるやいなや、大衆をつかむことができるのであり、理論が急進的となるやいなや、理論は人間に即して(ad hominem)証明されるのである。急進的であることは、ものごとを根本からつかむことである。」

*3:ときどき「共産党員なのに『資本論』も読んでいないんですか?」とか言っている共産党外の人がいるけど、それどころではないのである。

ふせでぃ『明日、世界が滅びるかもなので、本日は帰りません。』

(以下、ネタバレがあります)

 

  派遣で働く28歳のアキの物語。

 彼女は自分なりの幸せをつかめないまま、労働においては派遣、生活においては恋人に振られてからセフレとのだらしない関係を続ける日々を綴っている。

 

一読め

 ワクワクしながらまず一読してしまったのはなぜだろうと思ったのだが、明らかに「セフレを持っているアラサー女性」という設定に性的な眼差しを送りながら読んでいたせいだろう。終盤に「男運のない人間だ」と自分をあきらめた後、辻春馬という年下の同じ会社の社員と知り合って、やがて恋に落ちるくだりは、職場において恋愛を成就させる緊張感の中、受け入れてもらえたという男性(春馬)目線で読んでウキウキした。要は、一読めは徹頭徹尾アキという女性と結ばれたい(性的な欲望を遂げたい)という一心で読んでいたのである。

 

 作者のふせでぃは、『君の腕の中は世界一あたたかい場所』でも『今日が地獄になるかは君次第だけど救ってくれるのも君だから』でも、男性に思いっきり依存しかかる不安定な女性の心情を切り取ることがまことに見事で、そちらを読んでいる最中、ぼくは決してそうした女性に性的視線を送れない。「重い…」という気持ちが先に立って、描かれている女性を観察対象のように客観的に見てしまうからである。

 

君の腕の中は世界一あたたかい場所

君の腕の中は世界一あたたかい場所

  • 作者:ふせでぃ
  • 発売日: 2018/02/02
  • メディア: 単行本
 

 

 

 しかし、本作の主人公アキは不安定とは言っても上記2作に出てくる中野ちゃんや荻窪ちゃんほどではない。そのさじ加減なのだろう。

 ともあれそのような視線で一読めを終えた。

 

 

二読、三読め

 性的な視線を残したまま、二読、三読する。

 冒頭にあるように、本作はアキがどうすれば自分は幸せになれるかを模索するテーマになっている。そして、アキにとっての幸せは恋愛の成就であり、しかも「たった一人の人のそばにずっと居続けられる」という驚くほど古典的なそれなのだ。作者が「あとがき」で

このお話では、アキちゃんにとっての幸せが愛し愛されることだったので、恋愛での幸せを描きました。でも、私は人間にとって恋愛がうまくいくことが一番の幸せだとは思っていません。

とことわっている。こういうテーマにしたからといってこれが作者の主張・追求テーマではありませんよということである。

 どうしたら幸せになれるか、という問題設定から問い返せば、アキの恋愛観はいかにも狭すぎる

 「明日、世界が滅びるかもなので、本日は帰りません」というタイトル。あるいは「もし今地球がなくなってもきっと後悔しないだろうな 元カレが私抜きで幸せになってる世界なんて」というセリフ。台風で「命を守る行動を」というテレビの警告は「他人事」に映り恋人がそれを「地球がやばい」と形容するのを否定しつつも嬉しく受け止めるその感情。傷つきたくないがゆえに誰とも心を開きたくないという恋愛観——アキにとって「私」もしくは「私の恋愛」は世界そのものなのである。「セカイ系」の懐かしいテーゼに似ている。

 アキは一度恋愛を捨てようとした。新しいことを始めることで「心がスッキリ」しようとしていたのである。

 しかし、やはりアキにとっては恋愛が幸せだったのだ。

 ただし、その恋愛の質が変わっている。

 もともと本作の中でアキは

いろんな人を味見したいなんて思わない

ただひとりの人と一生愛し合っていたいだけ

 とつぶやいている。それがアキにとっての恋愛だった。

 しかし、春馬にめぐりあったアキは、「一緒にいたい」という気持ちだけでよくて、その同じ気持ちの人にめぐり合うこと自体が幸せだったのだ、これからも一生愛してくれとかそんなことではないんだと考えを変えたように思える。

 タイトル「明日、世界が滅びるかもなので、本日は帰りません」は、これから「一生」どうなるかなどではなくて、今この瞬間に一緒にいたいと思えるかどうかが大事だという意味に取れる。

 中学生とか高校生ならともかく、アラサーのふたり、そのうち女性の方は派遣という実に不安定な身分じゃねーのか、大丈夫なのかとオトナな人たちは心配する。ぼくもその一味である。

 しかし、アキは「今この瞬間」の「一緒にいたい気持ち」こそ何よりも尊いものなのだと主張するに違いない。その無謀とも言える一面性が美しいのだという、これまた古典的な恋愛賛美がここにはある。

 

 うむ、例えばこれが恋愛の一瞬のきらめきを謳ったものであればどんなに偏っていようがその極端きわまる主張は本当に美しいのだろうけども、本作は「どうしたら幸せになれるか」という人生における長いレンジでの問題設定をしてしまっている。それゆえに、結婚するにせよしないにせよ、もし春馬との恋愛感情が終わってしまったらどうなるのであろうか。

 別れてまた「一緒にいたい同じ気持ち」の人を探すのがアキにとっての幸せなのだろうか。それは「ハッピーマニア」ではないのか。

 アキは幸せになるために恋愛から逃れるべきである。

 

 繰り返しになるが、作者はもともと恋愛の中での、ある不安定で行き詰った感情を切り取ってデフォルメして見せることが大変に見事な作家である。その切り取りを今度は「どうしたら幸せになれるか」などという人生の尺の中においてしまうところに本作の「怖さ」がある。

 アキはきっと幸せになれない、と冷水を浴びせておきたい。

宮部サチ『友達100人切れるかな』1

 ぼくはこれまでの人生の中で絶交した「友人」が2人ほどいる。

 そのうちの1人は会うたびにぼくを激しくいらだたせたり、挑発するようなことを言ってくる人で、会った後あまりに悔しくて独りで号泣したこともある。

 つれあいにそのことを話したら、せんべいを食べつつテレビの画面を見ながら

「それはさー、その人、あんたに嫉妬してんじゃないの?」

とこともなげに言った。

 そうか。そうなのか。

 本当かどうかはわからないんけども、励まされた気がした。

 そして、絶交することにした。

 

 本作はタイトルのとおり、ネガティブな人間関係に焦点をあて、その清算を2話完結の方式で語っていく物語である。さまざまな人間関係の悩みをかかえた相談者が「人間関係研究所」の「人間関係研究家」有馬亜土を訪ねるのだ。(この設定にはほとんど凝った部分やギミックがない。主張を解説させるだけのすがすがしいまでの道具キャラである。)

 

友達100人切れるかな 1巻: バンチコミックス
 

 

 冒頭の「マウンティング女子」は、自分より格下だと思って自分の引き立て役のように自分の近くに置いていた人物が実は自分よりも「上」であると感じさせられる事実に次第に接するようになり、毒を吐いたり絡んだりする話である。

 ぼくの場合、ぼくが能力的に格下だと思われていたのではなく、ぼくが恋愛や家庭において不幸な道を歩んでいると思われていたようで、しかし実際には幸福そうであったために激しく嫉妬されたのではないかというのがつれあいの見立てだった。

最後にひとつだけ

毒になる関係は いずれ自分を壊します

自分を大切にしないと

あなた 壊れますよ

(本書p.20)

 

 今の世の中、人間関係はむしろ主体的に選択できそうな時代のように思われている。それで「気に入った人しか関係しない」ことの病理のほうがクローズアップされているような気がする。

 だけど、本当にそうならこれだけPTAだの町内会だので苦労する人がいるものだろうか。気に入らない人間関係に耐えて同調圧力につぶされそうになっている人の方が多かろう。

 政治にかかわっているとつい顔を広くもつことがホメられるので、「気に入った人としか関係しない」というあり方はなんとなくうしろぐらい。

 だけど、絶交してみて本当にすっきりした。もうだいぶ昔のことだけど。

 そういうことが思い出された。

 

 本作1巻は必ずしも「切る」話だけではない。

 1巻の最終エピソードにあるように、関係を見つめなおす話も出てくる。

 ちょっとベタではあるけども、ネガティブな人間関係を見つめてみたい誘惑にかられて本作を読んでいる。

 

 

「首都圏青年ユニオンニュースレター」230号を読む

 「首都圏青年ユニオンニュースレター」230号(2020年6月28日付)を読む。

 すべてのページが勉強になった。

 

特集「コロナを生き抜く ユニオンの闘い」

 7ページまでがコロナ禍における争議当事者のインタビュー。特集「コロナを生き抜く ユニオンの闘い」である。

 ベローチェの団交をしている労働者は「都庁の労働相談コールセンターに電話したら、飲食店ユニオンが富士そばの件で勝ちとったらしいですよって聞いて、ツイッター富士そばブログ記事をみて相談しました」と証言。

 際コーポレーションの団交をやっている労働者は「飲みに行ったバーのマスターが富士そばの記事を紹介してくれたんです。それで相談して、団交することに決めました」と証言。

 富士そばの団交をしている労働者は「インターネットで調べたところ、飲食店ユニオンが同じような事例でたたかっているという記事(執筆者注:魚家と飲食店ユニオンの交渉についてのブログ記事)を見つけたので、飲食店ユニオンに相談しました。以前から『個人で入れる労働組合』があることはインターネットで見かけて知っていました」と証言。

 改めて思うのだが、ネットで知る、他の人の具体的な争議の様子から知る、というのは本当に大事な入口なのだな。特にネット。そしてネットに具体的な行動の様子が書いてあるということ。

 いや実は、左翼組織のビラとか、左派系団体のビラとかをお願いされて作ったりしているのだが、依頼してくる人たちは「ビラだけでなんとかしよう」としている、つまりビラを見て読んだ人が参加してくると考えているのである。特に若い人を組織しようとしているときに、古い世代の人たちはビラをまず発想しそこで終わる。

 そういうこともあるとは思うけど、ビラを見てネットで確かめる、もしくは初めからビラなど見ずに圧倒的にネットの検索で知る、という人(特に若い人)がほとんどなのに、ブログもサイトもSNSも全くやっていないという状況になっている。

 そんな2000年代前半の議論を今さら九州の端っこでやらないといけない状況なのである。

 そしてこのニュースレターを見て、ますますその思いを強くした。

 

「コロナ禍における飲食業非正規労働者の困難」

 前述のインタビューの総括。

 飲食業の非正規労働に顕著な問題としての「シフト」問題が取り上げられている。

 契約に労働時間の固定がなく、「シフトによる」とだけ定められている。しかしこれだと、経営側すなわち資本に都合のいい形で日常的に労働時間を切り縮められてしまうので、コロナで休業補償をする場合重大な困難に直面する。

そもそも労働時間が固定していなければ休業手当を支払うべき休業も生じていないことになります

 このような状況下で、シフト労働者への休業手当の支払いということは実は画期的な成果だとこのニュースレターの記事(栗原耕平)は書いている。

休業手当の支払いは、「本来これだけ働ける・稼げるはず」という形で労働時間を固定することを意味するため、シフト労働者とはいえ自由にシフトや給与を変動していいわけではないという社会的合意につながりうるためです。

 非常に重要な指摘である。最低生計費的な準拠するモデルとなるわけだ。

 

争議報告・スーパーホテル

 スーパーホテルの争議はこれまでもニュースレターで取り上げられてきたので部分的には知っていた。

 しかし、改めてまとめられると地獄のような働かされ方である。

 「支配人」として業務委託契約が結ばされ、労働者性が否定される。

 委託料を月100万円渡されるのだが、ここから雇うべき労働者の賃金なども出さねばならぬので、実質は20万ほどになる。

 ホテルに「住み込み」で24時間離れられない。休む場合は、代行サービスを利用させられ、それは1日3万円もする。20万円から3万円も引かれれば残りは17万円しかない。もし普通の労働者並みに週休2日休めば3万円×2日×4週=24万円(月)かかり完全に赤字である。

 150万円を補償金として払わされ、契約期間中にやめると取り上げられてしまう。

 恐ろしい契約である。

 ぼくの娘は学校で「アントレプレナーシップ教育」を受けている。福岡市の方針なのだ。そしてこれが労働者根性を捨てさせたアントレプレナーシップの最先端ではなかろうか。

 

支える会コラム

 蓑輪明子(名城大学経済学部准教授)の大学での授業の様子。

 青年ユニオンの活動家たちのZoomインタビューで、「誰でも入れるユニオンがあること、ユニオンなら専門知識豊富な組合員のバックアップを受けて会社と対等に話し合えること、学生でも会社とやり合って成果を勝ち取っていること。初めて聞く話にみんなが驚いた」。

 授業の様子がさらに続くが、『反貧困』を読んだ学生がこのZoomインタビューを見て、生活保護の申請でも専門家の力を借りていくことで受給にこぎつけられることと重ね合わせたりしている。そう、こういう気づきこそ大事じゃないだろうか。

 また、働いている学生が休業補償をもらえた経験を知って、そのことを知らなかった学生たちは驚く。「え…もらえるの? 国のお金で?」。それだけではない。そのことを知っていた学生たちも「ラッキー」だからもらえていたと思っていたが、その背景には労働運動が国を動かしていた事実があることを知ってやはり驚くのである。

 

身元保証民法改正

 弁護士のコラムである。

 働く時に身元保証人というやつが必要になる。あれが民法改正で責任範囲の上限を定めるように変わった。それを定めていないとその契約は無効になってしまうのである。

 可笑しいのは、「労働者の側から、不備を指摘してあげる必要はありませんが、豆知識として持っているとよいかもしれません」という記述。不備な方がいいわけである。

宮本常一『忘れられた日本人』

 宮本常一『忘れられた日本人』をZoom読書会でやるというので関連本を読む。

 

忘れられた日本人 (岩波文庫)

忘れられた日本人 (岩波文庫)

 

 

 素人として、この本をどう扱ったらいいのかが少し戸惑ってしまう。

 解説の網野善彦の読み方は次のとおりである。

 

 ここでは、私自身の関心に即して思いつくことの二、三をのべ、読者の参考に供しておきたい。…

 「対馬にて」をはじめ「村の寄りあい」「名倉談義」などで、宮本氏は西日本の村の特質をさまざまな面から語っている。帳箱を大切に伝え、「講堂」や「辻」のような寄り合いの場を持ち、年齢階梯制によって組織される西日本の村の特質が、これらの文章を通じて、きわめて具体的に浮彫りにされてくる。それは昔話の伝承のあり方にまで及んでおり、「村の寄りあい」には、西日本では村全体に関することが多く伝承されるのに対し、東日本では家によってそれが伝承されるという注目すべき指摘がみられる。しかし東日本の実態については「文字を持つ伝承者」で、磐城の太鼓田を中国地方の大田植と比較し、後者が村中心であるのに、前者が大経営者中心であったとする程度にとどまり、内容的にはほとんどふれられていない。

 戦後、寄生地主制や家父長制が「封建的」として批判されたことが、農村のイメージをそれ一色にぬりつぶす傾向のあった点に対し、西日本に生れた宮本氏は強く批判的であり、それを東日本の特徴とみていた。この書にもそうした誤りを正そうとする意図がこめられていたことは明らかで、それは十分成功したといってよい。ただ逆に現在からみると、ここで語られた村のあり方が著しく西日本に片寄る結果になっている点も、見逃してはならぬであろう。

 女性の独自な世界がリアルに語られているのも同じ背景を持っているといってよい。「村の寄りあい」の「世話焼きばっば」、老女たちだけの「泣きごとの講」、自らつくった「おば捨山的な世界」や「女だけの寄り合い」、また「女の世間」に描かれた共同体の大きな紐帯をなしていた女性の役割、とくに女性たちの世間話の中から笑話の生れてくる過程など、まことに興味深い話が数多く紹介されているのは、家父長制一本槍の農村理解に対する宮本氏の批判的角度の意識的な強調であろう。(宮本『忘れられた日本人』岩波文庫、KindleNo.4751-4763、強調は引用者)

 

 ここでの整理は、網野の『宮本常一「忘れられた日本人」を読む』(岩波現代文庫)の安丸良夫の解説でも紹介されている。

 

 

 『忘れられた日本人』全体を通して、宮本さんが主題にしていることが二つある、と網野さんはのべている。一つは女性・老人・子供・遍歴する人びとの問題で、これは従来の学問が対象にしてきたのが主として成人男性だったことへの反措定という意味をもつ。もう一つは日本列島の社会が一様でなく、東日本と西日本では大きな差異があり、それは発展段階の違いではなく、社会構造あるいは社会の質の違いの問題ではないかということ。戦後日本の歴史学や社会科学は、寄生地主制の解体を軸として戦後改革を捉え、そこから遡って、戦前の日本社会を、寄生地主制とそのもとでの村落共同体の強い規制力、男性中心の家父長制支配などとして捉えた。しかしそれは、東日本的通念をもとにした日本史像・日本社会像だと宮本さんは主張し、宮本さんはそうした日本像の転換を求めたのだという。(網野前傾p.240-241、強調は引用者)

 

 要するに、日本共産党を中心にしたマルクス主義歴史学の農村把握へのアンチテーゼとしての意義である。というか、単色のテーゼで社会を捉えるのではなく、その中に生き生きととした豊かな現実が織り込まれていることを見逃すべきではないと言いたかったのだろう。

 1950年代に、「国民的歴史学」の運動が勃興する。

 この話を今どこで読めるのかはわからないが、小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』には1章が割かれている。ぼくもそこで知った。

www1.odn.ne.jp

 

 戦後、朝鮮戦争国共内戦などの冷戦の激化の中で、「アメリカ帝国主義との闘争」が大きな焦点となっていき、日本の革命運動では、日本の独占資本主義の支配の問題よりも、アメリカ帝国主義による日本支配の問題が大きくクローズアップされてくる。「反帝反独占」のうち、「反帝」の部分、民族独立の課題が革命運動の大きな比重になっていくのである。

 

 民族の強調を鼓舞するようにスターリンの民族論の転換が行われる。

 民族nationは近代=資本主義以降に形成されたものであるが、その母体となる民族体folkはそれ以前からあったものだとする見解である。歴史学者石母田正スターリン論文を弾きながら「大衆こそが民族」だと強調した。

 石母田は「村の歴史・工場の歴史」という論考を書いて、それは「国民的歴史学」運動のバイブルになった。民族の主体である民衆が自分たち自身の歴史を書く運動なのだ。こういう論建ては民族・民衆・革命が一体のものとなりやすい。

 

 

 この時期の左派の歴史学研究の次の様子を見ればびっくりする人もいるだろう。

 

この大会〔歴史学研究会の1951年度大会〕で物議をかもしたのは、藤間生大の「古代における民族の問題」という報告だった。藤間はこの報告で、「民族的なほこりを全民族に知らせて、わが民族が自信をもつ」ために、記紀神話に登場するヤマトタケルを「民族の英雄」として再評価することを唱えたのである。(小熊前掲p.332)

 

 この時代に「国民的歴史学」運動の学生として奔走したのが網野だった。

 

歴史学の革命」や「歴史学を国民のものに」というスローガンのもとで行われた国民的歴史学運動では、多くの若い歴史学者や学生が、大学を離れ工場や村にむかった。一九五五年の六全協による共産党の方針転換で瓦解したこの運動は、多くの人びとを傷つけ、歴史学においてはいわば封印された傷跡となった。(小熊p.307)

 

 宮本の本書は、木下順二らとともに作られた、しかしこの「国民的歴史学」運動の中の所産である「民話の会」で語ったことがもとになっている。

 確かに「国民的歴史学」運動は瓦解したのであるが、それは一切が不毛だったわけではなく、このような民衆の生活史についてのすぐれた作品を生み出した。

 同時に、そういう中で生まれた作品であるから、強烈に、正統派のマルクス主義歴史学への対抗意識・アンチテーゼとしての意識が働いているのである。

 

 ここまで書いておいてなんなのだが、ぼくは2020年の現代において本書をそういう意識では毛頭読まなかった。

 

しかしこうした読み方だけでなく、「土佐源氏」や「梶田富五郎翁」をはじめ、本書のすべてを文学作品とうけとることもできる。(網野の解説『忘れられた日本人』No.4802-4803)

 

 まさに、文学として読んだ。

 ぼくはいま父親の生い立ちを聞き取り、それを文字起こししようとしているが、戦争期から戦後になって彼がどうやって生業を確立していくのか、それが滅法面白かったのである。「読んで面白い」ということだ。

 父親が商売で成功する話などは、それ自体が成功譚として興味深いのだが、同時に失われた昭和の産業史の記録としての側面もある。これを書き留めようとすることは「ヨーロッパで民俗学的な関心が高まった背景には、近代化と都市化、あるいは資本主義化による急激な社会変化を前に、消えゆく伝統文化へのロマン主義的な憧憬や民族意識の高まりが存在する」(Wikipedia)という方向性と重なるような気がした。

 

 そして、研究と批評との関連としても。

 網野は、解説の中で

歴史学が、歴史を対象化して科学的に分析・探求する歴史科学と、その上に立って歴史の流れを生き生きと叙述する歴史叙述によって、その使命を果しうるのと同様、民俗学も民俗資料を広く蒐集し分析を加える科学的手法と、それをふまえつつ庶民の生活そのものを描き出す民俗誌、生活誌の叙述との総合によって、学問としての完成に達するものと素人流に私は考える。

(同前No.4826-4830)

 

と述べている。

 近年マンガを「研究」として客観的なデータや書誌文献のあとづけによって解明することが盛んだが、そういうものとは別に、作品から受ける印象の中からの「総合」によって作品を把握しようとする(印象)批評の役割はいよいよ重要だろうとぼくは思っている。宮本が客観的な民俗資料とは別に、人と話したりする中で把握しようとした「総合」の作業をマンガの批評としてやっていく、そういう意義についてもふと考えたのである。

学校再開で親はどうすべきか 横湯園子インタビューを読む

 「しんぶん赤旗」日曜版(2020年6月28日号)に、臨床心理士の横湯園子・中央大学元教授のインタビューが載っていた(「学校再開で子どもは 保護者はどうする」)。

 コロナでの長い休みを経て不安定な娘(中1)の現状とぼくら親の対応をまさに言い当てているかのようで、染み入るような文章であった。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 このインタビューに付随して書いてある「子どものSOSサイン」はどれも娘に思い当たることばかりだった(不眠以外)。

  • 「情緒不安」(すぐに泣く、イライラ、頻繁に甘える)
  • 「宿題が手に付かない」
  • 「食欲不振」
  • 「不眠」

 

 

 インタビューを紹介しつつ、雑感を記していく。

 子どもたちは長期休校の間、先が見通せず不安だったと思います。心も体も休めていたわけではありません。

 

 ぼくは、臨時休校中の娘は、ネットの前で「楽しんで休んでいる」だけのように思えた。しかし、横湯は「学校を休んでいたから充電期間であった」という把握ではなく、ストレスなり不安なりに苛まれていた……とまで言えなくても、不安の中にいた時間であったとみるのである。

 

 学校は学習の遅れを取り戻すのではなく、新型コロナウイルスについてや、毎日どんな思いで過ごしていたのかなど話し合い、まずは子どもの不安を軽減してほしいです。

 

 学校では「学習の遅れを取り戻す」狂騒のようなことが起きている。

 福岡市では1日最大7時限にして、「基礎学力につながる」という5教科(国・数・英・理・社)を最優先にして来年1月までに終わらせようとしている。始まりが6月になった上に、終わりを1月まで。しかも授業は全て10分短縮。いかに猛スピードになるかがわかる。

 

 子どもたちもマスクをしなければいけないし、給食や休み時間もおしゃべりができなくなりました。感染を防ぐためのルールがストレスになっています。友達と思いを話したいとか、意見を交換しあうのは思春期の特徴です。親密な友達を鏡にして自分を確かめているのです。しかし、いまはそのおしゃべりが保障できていません。

 これは誰が悪い、というわけではないだろう。感染防止のためには仕方がないのだ。しかし、客観的な現実問題として、大事な機能を果たす「むだなおしゃべり」が生活からデリートされている。

 

 初めての経験の中、おとなも感染への不安を抱いています。子どもが感染を心配するのは正常な行動です。

 子どもが感染の不安や学校の様子を話してきたら、しっかり聞いてあげてください。ウイルスの知識は子どももおとなも同じレベルです。「心配だね。どうしたらいいだろう」と一緒に考えることで、子どもは自分をわかってくれたと安心と喜びを感じ、保護者の提案にイエスやノーが言いやすくなります。

 受験生は入試も学校見学も不安です。「もう少ししたら、校庭の外から高校をのぞいてみようか」など、少し先の見える話を子どもにしてください。

 

 「少し先の見える話」。将来を見通せることを少しでもしておこうということだろうか。ここは受験生ではないからよくわからないことはあるけど、そう言えば、娘は心配してもしょうがない「あさって」のことを心配して悩んでいる。

 「保護者の提案にイエスやノーが言いやすくなります」とはどういうことか。娘がぼくら夫婦の提案に「ノー」って言う時、反発しているだけのように思える。だけど、もし「自分をわかってくれた」と思うなら、もっと落ち着いて提案に答えるのだろうかなと思った。

 

 思春期の子どもは親やおとなと付かず離れずの関係にいながらも、本当に困れば話してきます。「必要なときは声をかけてね」と伝えることです。私の娘は何かあると私に「散歩してあげようか」と言ってきました。散歩中、何も話してこなければ、それで済む悩みなのだと思いました。悩みを話しだしたときは真剣に相談にのりました。

 

 ただ歩くだけで気がまぎれるということだ。しかも子どもから声をかけている。「散歩してあげようか」ってwww

 

 子どもに「学校を休みたい」と言われたら、保護者は返事に悩むでしょう。子どもにとって、親がわかってくれると思って休むのと、罪悪感を持って休むのとでは、気持ちが全然違います。

 これ……これなあ。なんか、ぼくはどうしても「罪悪感」を植え付けちゃおうと考えるんだよね。この状態(学校に行かない状態)をよしと思ってもらいたくないから。この前休むときは「小学校のときは月1休みだったけど、今はお父さんとお母さんが週1休みを認めてくれているので、既得権みたいに感じる」と言ったので、えっ、それはどうなんだと思い、こっちが焦って、学校に行くようにうるさく言ってしまった。

 

 子どもに共感しながら「どうしようか」と声をかけ、返事を待ちます。どんな結論でも尊重したいです。不安で言いすぎそうなときは、その場を離れて落ち着かせてください。私の場合、散歩や買い物をしたので、アクセサリーがいっぱいになってしまいました。

 

 「今日は行かない」と娘が言うと、どうしても落胆してしまう。尊重するなんて顔はできない。「不安で言いすぎそうなときは、その場を離れて落ち着かせてください」。そうか、そうするのか。つれあいとの関係でケンカになりそうな時は「その場を離れる」という処方はよくやるけども、娘の(学校に今日は行かない的な)提案を受理した時もそうすべきなのかもしれない。

 

 やる気がなかったり、量が多くて脳がいっぱいいっぱいだと勉強は頭にはいりません。昔、勤めていた国立国府台病院の分校で学んでいた生徒は「先生たちがガリガリ言わないから、勉強が染み通るように入ってくる」と言いました。子どもの力を信じて待つことだと思います。

 

 競争の中でこそ発奮する、という子どもがいるのもまた事実だし、ぼくも子ども時代はどちらかと言えばそうだった。だけど、そうでない子どももいる、と理解をすべきなのだろう。

 

 横湯のインタビューは以上だ。

 それに付随して「習っていないのになぜテスト」「先生があせって授業が速い」「疲れる。(分散登校の)10人学級が良かった」という見出しで、3人の子どもの声がイラスト付きで紹介されていたが、これもまた娘のことを言い当てているようで読みふけった。

 

 良い記事であった。