町内会と行政の関係はどうあるべきか

 先日福岡県・福津市で、住民のみなさんが主催する町内会についての勉強会に呼ばれ、チューターとして問題提起を行いました。その問題提起は次のようなものでした。2.と3.がメインです。

 

1. 町内会はどうあるべきか

  • 加入率の低下と担い手不足。原因はどちらも「仕事が多すぎる」。
  • (原則1)町内会は任意加入の団体(加入を強制できない)。2005年の最高裁判決。つまり「町内会はボランティア団体」。
  • 福津市でも加入率は減少:全体は8割台だが10年で4ポイント低下。福間駅周辺は5-7割。
  • 任意加入である以上、担い手は限られおり、町内会は無限に仕事は増やせない。
  • 仕事をリストラして身軽な町内会に——「ミニマム町内会」のすすめ。
  • 町内会が「やらなくてはならない仕事」はない(住民への無答責)。自治体によって「町内会がやっている仕事」は全く違うのは、その地域の自治体が責任を持っている仕事の範囲が違うからで、要は自治体が責任を持っている仕事量によって町内会の仕事が変動している。
  • 町内会が必ずすべきたった一つの仕事=コミュニティ意識の醸成。
  • 町内会は本来任意加入団体なのだから、サークルと同じであり、町内会は私的な団体。だから結社の自由がある。換言すれば、その町内会がどんなルールを設けても、それは自治の範囲内。逆に言えば、「こんなひどい町内会を何とかして!」という人がいるけど、その場合は中から変えるか、脱退するしかない。VOICEとEXITE。行政は介入できないし、すべきではない(ただし、後で述べるケースを除く)。

 

2.行政と町内会はどうあるべきか

  • (原則2)行政は住民への責任(憲法に基づくローカルミニマム)、町内会はプラスアルファ(ボランティア)。
  • 行政区長制度とその危機――「頭が行政の末端(公務員)、体はボランティア」。これが「会計年度任用職員」制度になって、うまくいかなくなっている。
  • 行政の町内会へのスタンス→「行政の仕事」を依頼するのか、「町内会の仕事」を補助するのか。
  • 「行政の仕事」の依頼であれば、手を挙げた団体に委託料(報酬)を渡すべき。明確な契約に基づく委託をやるべきだ。
  • 委託を受けた以上はNPOでも企業でも私人でもサークルでも同じ。契約を履行する義務を負い、その範囲で「行政の仕事」を「下請け」する。
  • 「行政の仕事」である以上、住民差別は許されない(福岡市で資源ごみを出す「リサイクルボックス」は市が設立のお金を出し町内会が管理しているが、町内会会員しか利用できないのではなく、「福岡市民の方ならどなたでも利用できます」と明記してある)。f:id:kamiyakenkyujo:20200620182810j:plain
  • 委託された団体は、契約の範囲で透明性が求められる。
  • 行政による町内会への指導は「委託」の範囲内で正当化される。だって、行政が頼んだ仕事なんだもん。
  • 自発的に手を挙げる分には、行政から町内会に仕事はいくらでも委託できる。

 

3. 空白問題

  • 町内会が行政の仕事を引き受けるのはあくまで自発的なものであり、あるいは、町内会は任意加入なので町内会がない地域も生まれる可能性がある以上、委託できない地域(空白)が生じる——この問題に対応しない制度設計をしている自治体が多い 。その場合、「行政の仕事」である以上、空白は行政の責任で埋めるしかない。
  • 例えば福岡市における市広報の配布のケース。配布の請負を希望する町内会(自治協)が手をあげて報酬付きで引き受けるが、希望しない町内会のエリアには市の責任で民間業者が配布する。
  • 民生委員など推薦問題でも、欠員が生じたエリアは、本来行政の責任で埋めるべき。
  • どこまでが「行政の仕事」=ローカルミニマムか、行政が住民に説明する責任がある。「ここまでは行政が責任を持ちます。それ以上に、町内会でプラスアルファをできるところはやってください」という具合に。
  • 少なくとも「福岡市型」に変える必要がある。曖昧に町内会に依頼するのではなく、頼むときはきちんと頼む。また、「町内会の仕事」に補助をするという形。*1
  • プラスアルファとして「町内会があったほうが得だな」と思ってもらう。
  • わかりやすい例として「福岡市の生活交通支援事業」を考えてみる。バス路線などがほとんどなくなってしまう生活交通が空白のエリアに対して、市はコミュニティバスを走らせるなどの支援をしていないが、住民組織(実体は町内会)が立ち上がって(住民組織と交通事業者が協議する)、乗合バス・タクシーを走らせるなら応援する。福岡市はコミュニティバスを走らせるのは「ローカルミニマム」と考えておらず問題であるが、線引きとしてはわかりやすい。町内会があることによって「プラスアルファ」になっている。*2

 

4.これからどうなるか・どうすべきか

  • 「原則1」と「原則2」をあわせて考えた場合、地域課題を町内会に担わせることは無理(限界)がある。
  • 企業・科学技術・行政サービスによる高度な解決(例:見守り)。それと同レベルのことが町内会にできるのか? 任意加入な上に、地域的にエリアが限定され人材が限られる。
  • 町内会ボランティアが盛んになる時代 。
  • 同時に権利・義務を明確にして自発性が求められていく時代——あいまいな強制をする団体は滅亡していく。

 

 

*1:ぼく自身は「福岡市型」は大きな問題を抱えていると思っているけど、行政の仕事を曖昧に町内会にやらせている方式はそれよりももっと大きな問題を抱えているので、まずは福岡市のように町内会と行政の関係を明瞭にする形で一歩前に進めたほうがいいと思っている。

*2:だいたい「これ以下の利用にならないように」という条件になって、住民が維持に必死になっているなど、それはそれで住民組織は大変なのだが。

「星灯」8号に「『健全なセックスワーク』はあり得るのか」を寄稿しました

 同人文芸誌「星灯」8号(2020.6)に「『健全なセックスワーク』はあり得るのか」を寄稿しました。

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 章タイトルは以下の通りです。

 

  • 性風俗業者を救うべきか?
  • 問題の整理パターン
  • 中小企業の「搾取」にたとえてみる
  • 搾取・性的搾取は犯罪か
  • 蟹工船』と明るいオフィスは同じ「搾取」の現場
  • エンゲルスの売春論、マルクスの「公正な賃金」論
  • パチンコは無くすべきか
  • 買売春自体が抱える問題はあるのか?
  • 買売春が抱える2つの問題
  • セックスワーク」の社会的意義
  • 「健全なセックスワーク」を目指す
  • 性風俗産業への見方を超えて現実的に取り組むべきこと

 

 問題意識を端的に言えば、「貧困や暴力・強制などの問題を解決もしくは大幅に緩和した場合、『自由意思』でセックスというサービスを行い、それをお金を払って購入することはあり得るのか」ということです。

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 現実に左翼的政治活動の中で取り組んだことが問題意識の発端になっています。

 ご注文などは以下のページです。

https://www.facebook.com/groups/1507363926255135/

 

 ところで、結婚してパートナーがいるのに、セックスレスになってしまうとか、セックスの周期があまりに違うという場合、結婚を解消せずに別のセックスパートナーをつくる、いわば広義のポリガミー (複婚)を志向する者は性的少数者ではないでしょうか。

 一夫一婦制と現時点では衝突するので、少なくとも婚姻関係を維持したまま、パートナーの合意を得られるという条件をつけるなら、性的少数者の権利として認められるべきことだろうと思います。

 上記の論文ではその点を全く書きませんでしたが、セックスワーク自体やセックスワークを利用してセックスをすることは、ある条件さえ整うなら、それも性的少数者の権利という文脈から考えることは可能ではないでしょうか(ひょっとして先行の言論や研究がすでにあるのかもしれませんが)。

『文学女子に食べられる』の感想・続き

(性的な話題が以下書かれています)

 

 『文学女子に食べられる』についてもう少し書いておきたい。

 ↓の記事の続きである。

kamiyakenkyujo.hatenablog.com

 後輩(女性)が先輩(男性)を誘い、後輩の部屋でベッドに並んで座り語り合う構図、「お耳…… 舐めますね…」というセリフ、体を拘束されて目隠しをされる先輩に後輩が「大丈夫ですよ〜…♡」「怖くないです…♡」「全部気持ち良くなりましょうね〜…♡」と声をかける様子などの一連の要素はものすごく風俗みがある。

 風俗のような性技の熟練があるのに、恋愛であるという体裁なのだろう。「風俗のような性技の熟練がある」というのは風俗であるかどうかが重要なことではなく、「男性がイニシアチブや調整・合意を取らなくても、女性があらかじめ性的に積極的・能動的であり、性的な快楽に誘われることが目的とされ、そのことが保証されている」という意味である。

 ぼくが『文学女子に食べられる』よりも『文学女子に食べられる2』の方に興奮するのはなぜか。

 冒頭。1週間焦らしたのちに二人で会った時に

「この前よりも… もっと… すっごく気持ち良い事して… 可愛がってあげます…」

と後輩が耳元で囁くのは、まさに「男性がイニシアチブや調整・合意を取らなくても、女性があらかじめ性的に積極的・能動的であり、性的な快楽に誘われることが目的とされ、そのことが保証されている」ことの証明である。

 現実の女性が「あらかじめ性的に積極的・能動的」であるかどうかはわからない。男性が女性にのような能動性を求めているならそういう能動性を引き出すような駆け引き・やりとりという「努力」が必要だし、そういう「努力」をしたとしても、引き出されてこないことは無論ありうる。当たり前だ。人格を持った生身の人間なのだから。相手はこちらの思い通りのキャラクターではないのだ。

 セックスという機会を、自分や相手が性的な対象となり、単なる性的な存在になるということだけのものとして求めるぼくからすれば、一番大事なことはそこで性的な快楽・快感を得ることなのである。

 だとすれば、女性の側が「あらかじめ性的に積極的・能動的」であってほしいと強く願うことになる。女性にこうした性的な主体性・能動性を求める動機はこれだけではないかもしれないのだが、今自分についてあれこれ考えてみて、結局こういう理由なのかもしれないと一応の結論を得ている。

 なお先輩からのメールを見て「毎日ひとりでシてたの…」もその要素ではあるし、大昔のアダルトビデオとかエロマンガで見たことがあるような気がするセリフなのだが、そこはあまり訴求しない。女性がマスターベーションをすることが昔は重大な秘密事だと思われていたからそういうセリフもインパクトがあったのだろうが、現代ではそうでもないので。

 

 そして後輩がゆっくりとボタンを外して乳房をあらわにするシーンが長く分解されているのにものすごく興奮する。これは単に「おっぱいが好き」という性的嗜好だと思う。

 

 そして、この巻は先輩の乳首を攻めるシーンがすごく多い。

 これがおそらくこの巻が好きな最大な理由。これも単に性的嗜好の問題。

 ただ、他のマンガではこういうシーンがあっても、1コマないし数コマで終わってしまうのだが、本作ではこの過程が繰り返し描かれている。それだけでなく、乳首のいじり方がいく通りも描かれているのもなかなかお目にかかれない。

 一つ目は、指に唾液をつけてそっと触り「つー」と糸をひくパターン。

 二つ目は、指の腹で「くちくち」とさわるパターン。

 三つ目は、人差し指で「くにくに」と軽くいじるパターン。

 四つ目は、口で「ちゅーちゅー」と吸うパターン。

 五つ目は、舌先で「れー」(「れろれろ」という舌先のイメージを変化させたもの)と舐めるパターン。

 六つ目は、口ないし唇ないし舌ないし歯で「もぐもぐ」と「食べる」=軽く噛むパターン。

 七つ目は、舌で積極的に「ぺろぺろ」と舐めるパターン。

 八つ目は、一度先輩をイカせて敏感にした後に、やや強く人差し指で「カリカリ」と掻くパターン。

 九つ目は、先輩が盛大にイッた後に、仕上げのようにして「ちゅううううううう」と口で吸うパターン。

 そして、乳首全体を指で挟んで「ぎゅうううう」と絞るパターン。

 こんなにたくさんのバリエーションがあるのだ。先輩の性的な高まりにしたがって後輩が舌や指の動きを変えていることが本当に細やかに伝わってくる

 

 乳首について「いじめられるの…好き?」という「いじめる」という表現も、そこを偏執狂的に攻撃するような異常なイメージがあって、よく練られていると思う。「いじられる」ではダメなのである。

 

 そして、全く自分の不明であったのだが、ローターとかバイブのような性具って、女性のマスターベーションに使うだけなのでは? と思っていた。

 しかし、本作でアナルプラグを先輩に差し込んでそれを外側から「トントン」と指で叩くことで前立腺を刺激している様子を見て「あっ、こう使うんだ」と思った。

 そして、それを刺激するために後輩は左手を使ってしまい、右手で先輩の乳首を掻いているので両手がふさがってしまう。

 舌は先輩の耳を舐めて快楽を高めるのに忙しい。

 つまり口もすでに他の戦線に投入されてしまうのである。

 そうすると、先輩の乳首をいじる仕事は、片方「お留守」になってしまう。

 そこで、両手・口が相手のできない方の乳首にはローターをつけて快楽を与え続ける。

 ローターってこういう使い方もできるのか…と今さらながら知る。

 後輩はあえて男根を触らないし、先輩の両手は後ろ手に拘束されているので自分の男根が触れないようにしてあるのも、実に淫靡。

 

 この後、後輩の膝で授乳するかのような姿勢に先輩をさせて、先輩に自分の乳首を吸わせつつ、テンガを使いながら男根に刺激を与えている。

 いわゆる直に「手コキ」をするよりも、その方が快感を与えやすいのだろうか。

 そして先輩の乳首にはローターがつけっぱなし・動かしっぱなしになっている。

 ここでも、性具は両手や口を自由にしながら快楽を与え続けさせる道具として機能していることがわかる。またしても「性具ってこんなふうに使うんだ」と思う。

 

 そして最後の最後でようやく正常位でのカラミになるのだが、指・手・口が快楽を高めるために総動員される。足で締め付けるというのもそのためだったのか、と改めて認識する。全てが快楽のためなのだ。

 ただ、それだけでもない。

 先輩が「うぁぁぁぁぁ すっ 好きっっ」と叫び、後輩が先輩の頭を撫でながら「好きっ かわいいっ かわいいっ かわいいっ かわいいっ」と叫び返す。あえて、ここでは手や口は直接の快楽のための刺激から外して、精神的な愛撫のために使われている。後輩は紅潮しながら笑っている。

 「好き」というのは「愛している」という意味以上に、性欲の高まりをこう表現しているのだろうと思うけど、絶頂近くの表現としてまことにふさわしい。こうした表現は最後の最後でようやくやってくるのである。乱用しない。

 ちなみに、セックスの時に叫ぶ「好き」が性衝動の激しさを意味するものでしかない(ことがある)、という気づきはいつまちゃん『来世ではちゃんとします』2巻、p.8で大森桃江とセフレのFくんのセックスシーンで得られたことだった。Fくんのがっつき=性衝動が「好きだ」に変換されている様が大森の悟った苦笑とともに下の2コマではとてもうまく表現されている。

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いつまちゃん『来世ではちゃんとします』2巻(集英社)p.8

 話を元に戻す。 

 つまり本作、『文学女子に食べられる』『文学女子に食べられる2』は、とてもロジカルにできている。

 細かいプロセスや描写が説明的で、論理的なのである。

 他のエロマンガではこういうものがすっ飛ばされている。単に「叫べばクライマックス」「授乳ポーズで乳首を吸っていれば母性的」「拘束や道具を使えば背徳的」というものではない。ましてや「乳房が大きければ過剰に女性的」というものでもない(いや、それはぼくの性的嗜好の話に過ぎないのかな…)。

 

 ポルノというのは女性を性的な対象・性的な存在としてみるという風潮を助長するという批判がある。

 本作は、「女性を」ではなく、明らかに「男性を」である。ぼくは「先輩」の視点を獲得し、性的対象としてモノのように扱われ、また豊かな人格の全体性を捨象されて、ただの性的な存在に成り果てる。だからこそ、興奮するのである。これもまたポルノである。

「学校に行きたくない」から考える

 中学校に入った娘が「学校に行きたくない」と行って泣いて休んだ、というぼくのツイートが(ぼくにしては)バズっていた。

 

 

 

 まず、素朴に思ったのは、

  • ある程度知ってはいたが、あらためて「学校が嫌だ」「行かなくていい」「私もそうだった」という気持ちの人がこんなにもいるんだな、と思った。
  • “学校に行きたくない! って素直に言えてよかったですね”という趣旨のレスの人がちらほらいて、子どもが自分の言いにくい気持ちを親に言えるというコミュニケーションのルートが開通していること自体が貴重なんだなと思った。

ということだった。

 娘は1日休んで「休んだから大丈夫」と言って、次の日はけろっとして学校に行った。

 ところがその日のうち「疲れた…」と行って帰ってきて、夜は「ああ…学校行きたくないなあ」とまた言い出し、翌日朝も相当葛藤の上、「行くかあ」「まだ木曜かよ」とため息をついて登校してった。

 金曜日である本日、「行きたくないなあ」とやはり朝食中に一度だけつぶやいたが、もう一週間が終わるということを楽しみに、わりとスムーズに登校していった。

 

何が嫌なのか?

 彼女に何が嫌なのかをインタビューする。それは聞くたびに変わるし、とらえどころがない。悟性的に原因を突き止めようとすると、煙をつかむような感じになる。以下、彼女が挙げた「理由」を列挙してみよう。

  1. 担任の先生がいやだ。合わない。
  2. なんでノートを埋めないといけないの?
  3. 学校の行き帰り、特に「行き」は友達とも帰れないのでなんの楽しいこともない。そして(8kgに及ぶ)あのクソ重いカバンをどうして背負って1.8kmも歩いて通わないといけないんだ?(先生によれば「使わない教科書は置いて帰ってもいい」とのことだが、家庭学習で一定のものは使うように言われているので「最小限」のものだけ持って帰っても「めちゃめちゃ重い」と娘は述べる)
  4. 体育で半ズボンでやるのが嫌だ。毛深いから足の毛を剃らないといけない……。でも剃ると剃刀負けするし…。体育だけでも休めないのか?(休みたいって言えば?)うう、でも目立つし。
  5. 体育で今日ラジオ体操やるのも意味がわからん。なぜ? 学校教育でわざわざ1時間使ってラジオ体操だって?
  6. 給食がまずい。小学校の給食は美味しかったのに、なぜこんなにまずくなるのか。カレーでさえまずい。そんなものを食べるために長い時間残るのはうんざりだ。その分帰りたい。それは他の子もそう言っている。
  7. 黙って前を向いて給食を食べさせるのも耐えられん。
  8. まだ5時間(5コマ・5時制、午前中に5つの授業をこなして給食を食べ、帰る)なら耐えられるが、これで7時間になるとか、無理!
  9. 月曜から金曜まで死ぬ思いで登校しているのに、これで土曜日まで授業されたら耐えきれない。

 

 と、ひいふうみい…9つの「原因」がとりあえず並んだ。

 先ほども述べたとおり、「それはどうなの」と思うものもあるが、まあ、複合的なんだろ。本人もよくわかっていないし、ムカつくことが泡のように浮かんでは消え*1、それが楽しいことで打ち消されずに残ってしまうような感じなのではないか。

 

「もっと埋めてね」

 娘は学校の勉強もそれほど好きな方ではない。

 中学校に入り生活日誌と一体になった学習ノートを渡され、1日1ページ「埋める」ように言われている。しかし、まだろくすっぽ授業も始まっていない。授業の様子を聞いてもオリエンテーション的なものがほとんどだ。たまに中身があっても例えば理科では顕微鏡の各部名称などを教えられている。

 そんなもの、ノートを埋めようがないだろ? と思う。

 ましてや予習の仕方など教えてもらってもいない。左翼組織で、市内の学校の先生たちと広く懇談をした時、市教委がコロナ下で各家庭の学習用に作成したプリントが「新学期の予習」的な中身になっていて、集まった左派系の先生たちは「小学生に予習前提でプリントさせたりするのは無理ですね」と言っていた。

 つい最近まで小学生だった娘も同断であろう。

 4月です、あなたたちは中学生です、もう小学生じゃありません、計画的に学習しましょう、ノートをさあ埋めなさい、と言っても埋まるものではない。

 

 ツイッターにも書いたが、娘は市教委の配信している動画を見ながら、「歴史」「裸子植物被子植物」についてノートを書いた。

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 あなたは「最古の人類」を言えるだろうか? ぼくは堂々と「アウストラロピテクス」と述べたが、全く「不正解」だった。現在では「サヘラントロプス・チャデンシス」が最新知識になっている。これは市教委の動画配信でも冒頭で紹介し、教科書にも確かに出てくるのである。娘に学ばされた1つである。*2

 しかもノートには、「二足歩行ができるようになって人類に何が起きたか?」を娘なりに予想して書いた。「動画」ではその「答え」を述べているのだが、娘の「予想」とは外れていた。しかし、そういう論理こそ歴史である、そこに踏み出したことは歴史を学ぶ上でとても重要なことだ。

 しかし、担任の先生は、その中身については一切触れず、ノート欄のついてのコメントはただ一言。

「もっとすき間を埋めようね

だけであった。これが2日連続した。

 すき間を埋めるのがこの先生にとっての至上の価値なのである。

 40年前の元・優等生のぼくとしてはわからないでもない。まず「書く」という形で学習をし、それを量をこなすことによって質に転化するのだと。その訓練としてこのような生活日誌があり、すき間を埋めさせようとするのだろう。

 だが、動画も参考書もこれだけ発達した現代に、この方法は引き続き有効なのか。本人がわかるように図を書いて理解してもいいではないか。

 百歩譲って、すでに授業もかなり行われ、学習の方式を体得している生徒ならそういうコメントもわかる。しかし、コロナが終わっていきなりの宿題ノートにこれはないだろ。

 どうしてもすき間を埋めさせたいなら、何か知的刺激を与えてはどうなのか。

 「昔の人類は死んだ肉を食べていたとかいうらしいよ」とか。

 「裸子植物って恐竜時代には栄えていたけど、被子植物に負けたらしいね。果実があったほうがなんか有利なのかね」とか。

 そんな工夫は一言もなく、ただ「すき間を埋めろ」って頭がおかしいのでは。黒く塗れば満足なのだろうか。低レベルのAIかよ。

 娘は果敢にも「すき間ってどれくらいですか?」とノートに書いたらしいが「とにかく出来るだけ埋めてください」と臆面もなく返事が返ってきた。すごいな。

 わざわざ学習を無味乾燥にさせる天才ではないかと思う。知的好奇心を必死で切断しているとしか思えない。

 

 桜乃そら先生みたいにやれとは言わんから。

www.youtube.com

(娘の中学の先生の一人で「永遠の18歳」って自己紹介した先生いたらしいで)

 

 友達はいないのか?

 友だちはいないのかと言えば、6年生のとき、同じクラスの6〜7人の男女のグループを作ってよく遊んでおり、今でもラインで毎日つながっている。5・6年生の時は担任・友だち関係に恵まれ、本にも「早く学校に行きたい」「楽しい」「リア充すぎるwww」とか言っていたのだが、中学校でクラスは解体してしまった。このグループメンバーはクラスに1人だけいる(男子)。

 校門のところで帰りは一緒に帰るのだが、もう昔の共同体ではないのである。

 これは志村貴子『娘の家出』(集英社)の5巻で、高校時代に自分の中学時代のことを登場人物の2人が振り返るシーンで出てくる事情に似ている。下に示した右ページの3コマ目にあたるシーンのモブ的な描き方と、4コマ目の本当に親友たちとの違いがそれを表しているし、左のページのコマで登場人物が相手の語ることをしみじみと的確だと思う表情が実に良い。

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(志村前掲書p.96-97)

 友だちとの関係がクラスとの雰囲気などと「込み」で感じられ、クラスという土壌を離れてしまうと、友だちとの関係自体が変化してしまう、というか、一体で価値を持っていたものが失われてしまうのである。

 

学校に楽しいことがまだない

 「勉強」ができることでアイデンティティの大きな部分を獲得していた、元・優等生のぼくとつれあいに対して、娘は、「勉強」を楽しいとは思っていないようである。かなり苦痛な作業のように捉えている。それでも彼女が学校に行くのは「学校が楽しい」からである。それは小学校では友だちであったり、担任の先生であったりした。

 友だちについては修学旅行を始め、何度も何度も楽しいことを口にする。

 5年生の時の先生が、クラスメート全員を一斉に動かせてプールで巨大な波を起こさせた経験などは異様に楽しかったらしく、何度も娘から自然に「楽しかった思い出」として語られる逸話である。

 だから、ぼくら夫婦は一時不登校気味(小学3・4年生)であった娘に対して「もう安心」と思っていたのである。

 しかし、新たに中学生になって、学校に楽しみがない今、学校は緊張と嫌なことだけが、小さく、個別に浮かび上がってくる場でしかないのだ。

 どうにも先が見えない。

 

共産党の提言を読む

 そんな折に、共産党が出した学校再開についての提言を読んだ。

www.jcp.or.jp

 

 政党の政策提言をこれほど自分にとって心に染み入るように読んだ経験はあまりない。それほどの体験であった。

 提言は、子どもたちの課題を「学習の遅れと格差の拡大」と「心身のストレス」という2つに設定している。これはまさに娘に起きている問題である。

 

学習の遅れと格差の拡大

 コロナで学校が休みとなり、家に閉じ込められた娘のもとには85日ほどの期間中に合計120ページほどのプリントが届けられた。

 何より長期に授業がなかったことは、子どもの学習に相当の遅れと格差をもたらしました。学校は課題プリントの配布などで家庭学習を促すなど、さまざまな努力を行いましたが、まだ習っていない基本的な知識を、いろいろなやりとりのある授業なしで理解させるのは無理があります。保護者から「とても教えられない」と悲鳴があがったことは当然です。ネット教材に取り組んだ子どももいれば、勉強が手につかなかった子どももいます。長期の休校は、学力の格差を広げた点でも深刻です。

 1日あたり1.5ページである。計画的にやればそんなに難しくはないだろう……と思うのは、元優等生であるぼくの視点。1日ためれば次の日は3枚、3日で6枚、5日で9枚……そしてもうやる気が全くなくなる。

 娘は青息吐息でこれをこなした。最終盤にまとめてやっていたので、絶対できまいと思っていたが。特に計算が死ぬほど嫌いのようだった。

 しかし全くやっていない子どももたくさんいた。

 プリントやった子どもとやっていない子ども、自学ができた子どもとできなかった子どもの間に確かに格差が広がっていったに違いない。

 今娘は中学校の数学で初めに教える「正の数・負の数の加法・減法」を習っている。しかしその箇所は、休校中のプリントですでにやった前提で駆け足で通り過ぎている。教え方がぼくらが40年前に習った頃と変わっていて、ぼくからみても逆に複雑になっているように思えるのだが、彼女にしてみればちんぷんかんぷんである。

 教科書にはこうある。

 例えば(-3)+(-5)なら、「同符号の2数の和は、符号については2数と同じ符号、絶対値については2数の絶対値の和とする」と書いてある。

 (-3)+(+5)なら「異符号の2数の和は、符号については絶対値の大きい符号を使い、絶対値については2数の絶対値の大きい方から小さい方を引いた差とする」と書いてある。

 確かにそうなのだが、子どもは「異符号」とか「和」とか「2数」とか「絶対値」とかいう言葉遣いに慣れないので、それを理解し使いこなすのに疲れ果て、かえって分かりにくくなってしまっている。

 ところが隣の男子は配られた問題をスラスラと解いていく…のだそうである。

 おそらく、(+3)+(-5)なら「+(-5)のカッコの外し方は、+と(-ならマイナスのほうが強いので-5にする」として(+3)+(-5)=3-5=-2。(+3)-(-5)なら「-(-5)のカッコの外し方は、-(-なら反対の反対でプラスにするから、+5」として3+5=8。のようにしているのではなかろうか。理解としては雑だが、こっちの方が計算としては早い(2016年の「家庭教師のトライ」の動画はそういう教え方をしている)。

 まさに、格差が開いているのだ。

 

ストレスと不安

 そしてストレス。

 子どもたちは、かつてないような不安やストレスをためこんでいます。国立成育医療研究センターの「コロナ×こどもアンケート」では、76%の子どもが「困りごと」として「お友だちに会えない」ことをあげ、「学校に行けない」(64%)、「外で遊べない」(51%)、「勉強が心配」(50%)と続いています。各種のアンケート調査には「イライラする」「夜眠れなくなった」「何もやる気がしない」「死にたい」などの子どもの痛切な声が記されています。

 見てきた通りである。自分の娘に起きていることはまさにこれだ。

 

「何が何でも1年間分の授業を」こなそうとするな

 こういう時に学校には何が必要だろうか。

 こうした子どもを受け止める手厚い教育が必要です。

 かつてない学習の遅れと格差に対しては、子ども一人ひとりに丁寧に教えることが欠かせません。学習が遅れた子どもへの個別の手だても必要です。

 子どもの本音を受け止め、かかえた不安やストレスに共感しながら、心身のケアをすすめていくには、手間と時間が必要です。休校の中で特別な困難をかかえた子どもには、より立ち入った心理的、あるいは福祉的な面も含めた支援も求められます。

 

 例年通りの授業をしようと、土曜授業、夏休みや学校行事の大幅削減、7時間授業などで授業をつめこむやり方では、子どもたちに新たなストレスをもたらし、子どもの成長をゆがめ、学力格差をさらに広げることにもなりかねません。

 

 ほんそれ。

 建前論のように思えるかもしれないが、福岡市教育委員会はその典型で、「例年通りの授業をしようと、土曜授業、夏休みや学校行事の大幅削減、7時間授業などで授業をつめこむやり方」そのものなのである。学校現場は、この呪縛から一刻も早く解き放たれてほしい。

 貧困な学力観に沿って、「主要5教科の1年間での詰め込み」という縛りをかけるために、何もかもがきついのだ。ゆっくりと学校に慣らしていく、という当たり前のことがなぜできないのだろうかと思う。

 そのために、「主要5教科」以外が切り捨てられたり、学校行事がなくなったりする。

  例えば運動会。ぼくは小学校の運動会は意味がないと思っている派である。やめたほうがいいと思っている。しかし、それはあくまでぼくの思いである。福岡市教委は修学旅行を残し、運動会をやめる方向で号令をかけているのだが、本当に子どもたちがゆっくりとこの「非日常」を受け入れて立ち上がるために、そういう学校行事が必要だと思い、教師集団が子どもたちの意見をよく聞いてそう決めるなら、やったほうがいいと思う。

 そのような、子どもたちの困難を眼の前にして、子どもたちから出発することをせずに、やみくもに「主要5教科の1年間での詰め込み」を遂げようとする無理。

 その思い込みを解除し、期間の設定をなくすべきなのだ。

 それはこの提言でも指摘しているように、政府の通知でもいっていることである。

 この間の政府の通知の中に、「児童生徒の負担が過重とならないように配慮する」「学習指導要領において指導する学年が規定されている内容を含め、次学年又は次々学年に移して教育課程を編成する」「学習活動の重点化」など、学習指導要領の弾力化につながる要素があることは一定評価できます。

 

 簡単に言えば2〜3年かけて追いつけばいいのである。

 そして、この機会に、「学習内容の精選」に踏み込むべきであろう。

 いま教員たちの間で、「まずは子どもを温かく迎えよう」「子どもに必要な行事も大切にしたい」「コロナ問題を教材にしたい」など多くの積極的な取り組みが生まれています。たとえばその中の「学習内容の精選」は重要な提案です。「学習内容の精選」とは、その学年での核となる学習事項を見定めて深く教え、それ以外は教科横断で学んだり、次年度以降に効率的に学ぶようにする方法です。そうしてこそ子どもに力がつき、逆に教科書全てを駆け足で消化するやり方では子どもは伸びないと多くの教員が指摘しています。こうした柔軟な教育が求められています。

 

 娘の学校では、先述の通り、理科は顕微鏡の部品名称から教えている。教科書を見ると確かにそこからだ。しかし、どうして顕微鏡の部品名称から教えるのか、と素人考えで思う。これは本当に要るのか。

 「提言」にある「学習横断」というのは、例えば総合学習の時間なので「コロナ問題を教材」にして、小学生・中学生なら「もとにする量=比べる量÷割合」で感染率・死亡率を比べてみる。高校生なら指数関数で感染を考えてみる。またWHOのような国際組織の役割を知る。ウイルス・細菌の違い、ある特定の感染症予防策がなぜ有効なのか・無効なのかなどを学んだりするようなことが考えられる。

 

 教育委員会とこの問題(学習内容を精選し、学校ごとに自主的にカリキュラムを組むべきだ)で交渉すると、「えー、あのー、学校が自主的に考えるというのはその通りだと思いますー」と答える。しかし、実際には学校現場は「学習指導要領通りにやる」「市教委の方針に従う」という思いに強く縛られている。よほど大胆に解放させないと、学校は自主的に動き出せない。

 「コロナ下での30分卒業式」の際に小学校校長に「こんな短い時間の時くらい、君が代斉唱は外して子どもたちのプログラムを少しでも入れてはどうですか」と文書で請願したことがあるが、返答の場で「いえ、学習指導要領に則って、私の判断で国歌斉唱をやります」と硬い声で言われたことがある。「学習指導要領はあくまで大雑把に準じるもの、『大綱的』なものですよ」と説得したが、ひるがえることはなかった。

 

 憲法の精神は、教育の本質から、教員の一定の自主性を認め、教育内容への国家的介入の抑制を求めています(最高裁学力テスト判決)。ここから、学習指導要領でも教育課程の編成権は個々の学校にあることが明記されました。行政に忖度(そんたく)せず、目の前の子どもたちのために何がいいか話し合って決めていく学校現場を育てることは、現在の厳しい状況を打開するだけでなく、未来の希望ある学校をつくるために大きな力となります。

 

 

 とにかく言いたいことは、格差が広がり、ストレスをためている、目の前の子どもを中心にしてカリキュラムを組んでほしいということなのだ。何が何でも「1年間で教え込む」という呪縛を外してほしいのである。*3

 そして、「どうしても嫌なら無理やり学校に行く必要はない」ということも、選択肢であることが、ぼくのツイートへのたくさんの反応からあらためて気づかされた。

*1:例えば本当に先生が嫌いなのかとか、そんなことはわからないし、かなり流動的なものだろう。3ヶ月後には大好きになっているかもしれないし。

*2:娘の想像図は猿人なのに体毛がない。また、動画では設問をしていて、娘はその設問の答えも書いているが、動画の「解答」はこれではなかった。

*3:入試を控えている学年や最高学年(6年生など)については、学校だけの問題ではなく、これは県全体・国全体のイニシアチブが必要になるだろう。例えば入試に出す範囲を限定するなどである。

サークルひまわりのたね『文学少女に食べられる』

(性的な話題が書いてある記事です)

 

 サークルひまわりのたね『文学少女に食べられる』『文学少女に食べられる2』を読む。

 文学サークルに属する男女二人はどちらも大人しく、サークル部屋で本を読んでいるだけなのだが、2人で飲みに行くことになり、耳を舐めさせてもらえないか、と恥ずかしそうに女性の方から切り出す話である。

 彼女の部屋に行った二人はセックスをすることになる。

 男性の耳をそっと舐めるプレイから始まって、体の快感と思しきスイッチをゆっくりとくり返しなぞったり触ったりしていく。女性の側が男性に目隠しをさせたり拘束をしたり、器具を使ったりして、あたかも女性側の働きかけに精確に反応する性的機械のようになる。いわば「おもちゃ」になるのである。

 しかし、女性の側は嗜虐的になるのではなく、むしろ慈愛に満ちた表情と言葉で、男性の反応に興奮し、感動する。男性を支配するような、庇護的に振る舞うような、そんなリードを終始やって、男性を快楽に導く。

 続編『文学少女に食べられる2』は、付き合うことになった二人が、1週間の「お預け」という強力な抑圧を外して爆発するという展開で、『文学少女に食べられる』では攻めなかった部位を攻める。より分解的で、より長い尺でセックスを見せるこの『2』の方がぼくは圧倒的に好みで、「犯す女性」と「犯される男性」の立ち位置がしばしば逆転して快楽に溺れるスイッチを切り替えていく様も、眩暈がするほど倒錯的である。

 

 こういうものが今自分は読みたかったのだ。

 『娘の友達』を読んだ時、「このままエロ展開になってくれねえかな」と思っていたが、女性側が母性的な立ち位置で男性をリードし支配する、庇護するというのは、畢竟ここにつながっていたのだ。『娘の友達』はそんな展開にはもちろんなっていかないのだが。

 

 ある関係性の中で、無邪気に自分を性的な対象にし、モノのように扱ってもらおうと思う欲望がここでは解除されている。そして、男性も女性も、というか、より印象的には男性(そしてそれを読んでいる男性のぼく)が豊かな諸側面を持つ全面的な人格存在であることを完全に忘れて、ただの「さかったオス」、性的な存在でしかないという断言をしている作品なのである。そして、そういうふうに扱われたい、というぼくの欲望にまことによく応えている。

 

 「本当にお前みたいな男は無邪気なんだな」と言われそうだ。

 リアルの社会で性的な眼差しを向けられ、たえず性的な対象となり、いつも性的な存在と扱われることに、ある種の女性が恐怖を抱いていて、そういう人にとってこんな開けっぴろげな謳歌はとても耐えきれるものではないのかもしれないが。 

戦争とコロナは同じか。「新しい生活様式」は吐き気がするか。

 大塚英志のこの記事を読んで思ったこと。

www.webchikuma.jp

 

戦争とコロナは同じか

 第一に、戦争と感染症(ペストとかコロナ)は同じだろうかという問題。

 大塚が「同じ」と言っているかどうかは後で触れる。

 まずぼくはマルキストであるから、人間が起こしたものである戦争は人間の手で止められるというナイーブな楽観を持っている。別にマルキストでなくても戦争と感染症は違う、という出発点になるだろう。

 しかし、例えば山崎豊子の小説を見ればわかるけども、戦争のような巨大な歴史の流れの前に、人間の良心的な行動や反抗はひとたまりもない、ということはしばしばある。大河の中に流されていく幼児のようなものに思える。

 

ペスト(新潮文庫)

ペスト(新潮文庫)

 

 

 この点でカミュが『ペスト』で表明した戦争とペストを「天災」と一括りにする感覚はリアルなものである。

天災というものは、事実、ざらにあることであるが、しかし、そいつがこっちの頭上に降りかかってきたときは、容易に天災とは信じられない。この世には、戦争と同じくらいの数のペストがあった。ペストや戦争がやってきたとき、人々はいつも同じくらい無用意な状態にあった。(カミュ『ペスト』新潮文庫、kindleNo.617-619)

 そこから、無力感を表明し、賢しらに何もしないほうがいいと「クール」に忠言する人もいる。『ペスト』でいう「道学者」であり、「選挙に行っても無駄」「デモなんかしても何も変わらない」と冷笑するネット民だ。

ただひざまずいて、すべてを放棄すべきだなどといっている、あの道学者たちに耳をかしてはならぬ。(カミュ前掲書No.4018-4019) 

 大西巨人神聖喜劇』の主人公・東堂が囚われた虚無主義もこのヴァリエーションである。

 

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

  • 作者:大西 巨人
  • 発売日: 2002/07/01
  • メディア: 文庫
 

 

 しかし、『ペスト』の主人公リウー、というかカミュは、こうした「天災」に打ち勝つことはできないが、自分のできることをする、というほどはできる。「保健隊」というボランティアで活動することにしたリウーは次のようにいう。

「…今度のことは、ヒロイズムなどという問題じゃないんです。これは誠実さの問題なんです。こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかしペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」

「どういうことです、誠実さっていうのは?」と、急に真剣な顔つきになって、ランベールはいった。

「一般にはどういうことか知りませんがね。しかし、僕の場合には、つまり自分の職務を果すことだと心得ています」(カミュ前掲書No.2902-2906) 

 これは第二次世界大戦という巨大にもほどがある災厄と、まだ抗生物質での対抗ができなかった厄介な感染症という災厄に対して、カミュが抱いた実感であり、そこから絞り出すようにして得た人間の主体性を認めようとする結論である。

 もっと恐ろしい感染症がやってきたら(あるいは「スペイン風邪」のように非常に悪性のものに変化したら)わからないけども、少なくとも現代日本で、「戦争」や「新型コロナウイルス」への向き合い方はこれほど血の滲むような結論をしなくてもいいだろう。例えば「補償と自粛はセットだ」というデモなり運動なりによって政治を動かしているし、様々な社会資源を動員して感染症と「戦って」いる。ぼくらは政治を動かすことにカミュが描いたほどの無力感を抱いていはいまい。少なくともぼくは。

 

 大塚自身は「コロナ」と「戦争」を同じとは考えていまい

 為政者が「コロナ」を「戦争」に比喩して語っているという事実があり、同一視をした政治が「戦争」と同じように生活や身体への介入・管理を迫っている、というのだ。だから大塚に対して「コロナと戦争を同列している」と批判するのは筋違いということになる。

 

 「コロナ」と「戦争」は別のものだ、というのは、まず、辞書で引けば別々の定義があるよねという素朴な論理上の区別はもとより、比喩としてもよろしくない。

 例えば『感染症と文明』を著した長崎大学教授(国際保健学)の山本太郎は、次のようにいう。

 新型コロナは症状が出る前に広がるので、私たちが認知できた時には、根絶できる局面は過ぎていました。これに対処するには、ウイルスをなくす「戦争」ではなく、ウイルスと「共生」し、ある種の安定的な関係を築くしかありません。

 風邪を起こすコロナウイルスは4種類ほどあります。これらがパンデミックを起こすなかで人間は免疫を獲得しました。今の新型コロナも最終的に、人間とそういう安定的関係になればいいのですが、それまでに被害が出る。それが今の状況です。

 「戦争」には倒すべき敵があります。ウイルスは敵ではありません。*1

 

 要はワクチンの開発、集団免疫の獲得ということなのだが。*2

 つまり、コロナの具体的な問題に即して考えても、それを「戦争」の比喩で見るのは悪手なのである。

 

 

「新しい生活様式」は「気持ち悪い」のか

 

 第二に、新型コロナのもとで提唱されている「新しい生活様式」という介入は、戦時の生活介入を受容した自意識=「ていねいな暮らし」に似ているのか、という問題だ。

 

ぼくは以前から「日常」とか「生活」という全く政治的に見えないことばが一番、政治的に厄介だよという話をよくしてきた。それは近衛新体制の時代、これらのことばが「戦時下」用語として機能した歴史があるからだ。だからぼくは今も、コロナ騒動を「非戦時」や「戦争」という比喩で語ることの危うさについても、一人ぶつぶつと呟いているわけだが、それは「戦争」という比喩が「戦時下」のことばや思考が社会に侵入することに人を無神経にさせるからだ。

 

それら花森の提案は、翼賛体制という政治を日常の細部に、いわば女文字で落とし込んだところに特長がある。戦時下の婦人雑誌は男性のように勇ましい言葉で語る女達も多数いたが、花森は違った。政治の日常化、生活化には彼の女文字の編集こそが有効だった。

 大塚の論旨は、戦時下起源の「ていねいな暮らし」が清算されずに戦後も生き続け、その火種がコロナのもとでの「新しい日常」としてよみがえる、ということだろう。

 

 第一のところで考えたことにもとづけば、「コロナ」と「戦争」は別のものだから、むやみやたらに戦争と同一視して危険を叫ぶのはおかしいのではないか、結局事実上お前(大塚)が戦争とコロナを同じに扱っているんだろう、ということになる。

 しかし、「コロナ」対策として提唱されている「新しい生活様式」は無条件に正しいのかというのは、 そうではない。いくつか考えてみよう。

 例えばリモートワーク、テレワークである。

 それは技術発展そのものであり、クソのような通勤をなくし、オフィススペースと家賃をなくし、労働で使う無駄なエネルギーを省き、究極には「遅刻」という概念さえ消滅させるかもしれない。

 しかし、例えばメールやパソコンがぼくらの労働を軽減せずに、ますます長くて過密な労働時間に縛り付ける結果をもたらしたように*3、リモートワークやテレワークは「労働時間」概念を消滅させ、生活時間との一体化をさせてしまう危険がある。

 

労働時間短縮のためのもっとも強力な手段が、労働者およびその家族の全生活時間を資本の価値増殖のための自由に処分されうる労働時間に転化するもっとも確実な手段に急変する(マルクス資本論』第1部13章、新日本新書版第2分冊p.705)

 

資本論 3 第1巻 第3分冊 第3分冊

資本論 3 第1巻 第3分冊 第3分冊

 

 

 

 あるいは、オンライン授業。

 非常時に使えるというだけでなく、一人一人にあわせた理解と学力獲得を進ませ、「個別の学びを最適化」させる未来のツールのように扱われる。

 しかし、そうだろうか。児美川孝一郎(法政大学教授)のいうところを聞こう。

教科の学習はすべて、パソコンやタブレットを使って先端技術で「個別最適化」すればいいというのは大問題です。集団での学びでは「型」からはずれたような発想をする子がいて、そこからみんなが学ぶことで、考えが深まるということがあります。「個別最適化」で効率よく学ぶだけでは学ぶ過程が平板になり、深みがありません。

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2020-01-25/2020012514_01_1.html

 

 また、児美川はこうも述べている。

また、学びへのモチベーション(意欲)をどう引き出すかという視点もありません。やる気のある子はどんどん進むけれど、そうでない子はいくら「あなたに合った学習だ」と言われてもやる気にはならない。できる子だけがどんどん進み、格差が広がります。 

 これは、プリントに埋もれたぼくの娘に起きたことでもある。「できる家庭の子」はどんどんやってんだろうなあと思った。

 

 「新しい生活様式」、特にビジネスのシーンでよく使われている「新常態」はこのように無前提に正しいものではない。社会的な扱い次第で十分それは「毒」になる。(テレワークをしてはいけないとかオンライン授業をやってはいけないという主張ではない。念のため。)

 

 「咳エチケット」や「ソーシャルディスタンス」はどうだろうか。

 それ自体は、防疫的観点から正しいように思える。

 しかし、それは政策的な枠組み、政治の大きな枠組みを問おうとさせないこととセットになった思考様式になっていることがしばしばある。というか、ほとんどそうだ。

 例えばもしも、医療・療養資源がもっと備えられていて、検査もすぐに受けられていれば、患者は直ちに隔離され、これほど自粛や息苦しさがない生活を送れたかもしれない。また、補償と自粛がセットになっていて、しかも迅速に支給されていたら、店は、仕事は、安心して休めたかもしれない。*4

 そういう社会的・政治的な枠組みを大きく変えたらどうなるかについて、往々にして思考を停止させられ、与えられた枠組みの中で「咳エチケット」や「ソーシャルディスタンス」というモラルに縛られていることになる。そしてそれを守れないものを憎み、叩くのである。

 これは、「社会保障制度を貧しくさせたまま、町内会・ボランティアなどの助け合いを強要し、協力・参加しない人を『ずるい』とそしる」という思考様式、「教育予算をつけないでおいて、PTAのベルマーク運動に参加しない親を叩く」という思考様式ですっかりおなじみのものである。

 戦時下で空襲の際にバケツリレーをすることは「正義」であったが、そもそもそんなもので火が消せるのかと問うこと、逃げたほうがいいのではないかと提起すること、そして戦争そのものがおかしいのではないかと問うことはできなかった。そのようなもとでの「正義」なのである。

 

 なるほど、「戦争」と「コロナ」は別のものである。

 しかし、「戦争」のもとで生まれた「ていねいな暮らし」が権力や資本の視線を無前提に身体化・生活化させてしまったのと同様に、たとえ「コロナ」下であっても、その「新しい日常」には、権力や資本の視線を無前提に身体化・生活化させてしまう「毒」が含まれており、そのことに絶えず警戒すべきなのである。

 だから、歴史を振り返ってみて、今の問題を具体的に検証してみたら、そのような警戒が浮かび上がる。(大塚の主張を直截に信じて、戦時下起源のものが今そのまま問題になるということではないと思うが、大塚の警戒は今を見る上で参考になる、というほどの意味だ。)

 この意味で無前提に「新しい生活様式」を取り入れようとする風潮には、確かに「吐き気」がするというのはよくわかる。

 

*1:しんぶん赤旗日曜版2020年5月24日号。

*2:ただ山本は『感染症と文明』の中ではそれほど能天気には「共生」をとらえていない。「共生は、そのためのコスト、『共生のコスト』を必要とする。喩えて言えば、「ミシシッピ川における、堤防建設以前の例年程度の洪水」といったものかもしれない」「共生もおそらくは『心地よいとはいえない』妥協の産物として、模索されなくてはならない(山本前掲書KindleNo.1848-1860)

*3:統計における長期的な労働時間の縮減はいろんな要因があるので、ここではあまり深入りしない。

*4:本当にそれが可能かどうかは別個に検証されねばならない。ここでぼくが言いたいのは、「咳エチケット」や「ソーシャルディスタンス」を要求される時、そういう外側の議論は封殺されている場合が多いということだ。

カミュ『ペスト』

 Zoom読書会をやっている。

 このコロナの状況下なのでせっかくだから『ペスト』を読もうということで読んだ。

 

ペスト (新潮文庫)

ペスト (新潮文庫)

  • 作者:カミュ
  • 発売日: 1969/10/30
  • メディア: ペーパーバック
 

 

記憶について

 いろいろ思うことはあるんだけど、とりあえず、この箇所。

 ペストによって閉ざされた街で、ペスト被害に対するボランティアとして組織された「保健隊」でともに活動したタルーについて、その死後、医師リウーが思いをはせるシーン。

 

彼がかちえたところは、ただ、ペストを知ったこと、そしてそれを思い出すということ、友情を知ったこと、そしてそれを思い出すということ、愛情を知り、そしていつの日かそれを思い出すことになるということである。ペストと生とのかけにおいて、およそ人間がかちうることのできたものは、それは知識と記憶であった。(カミュ『ペスト』、新潮文庫Kindle の位置No.5187-5190)

 

真実のところ、リウーにはなんにもわからなかったし、そんなことは別に問題ではなかった。彼の心に残るであろうところのタルーの唯一の面影は、彼の自動車のハンドルを力いっぱい握りしめて操縦している男の面影であり、あるいは、今はもう身動きもせず横たわっている、このがっしりした体の面影であるだろう。一つの生の温かみと、一つの死の面影──知識とは、つまりこれだったのだ。(同前No.5202-5206)

 

 カミュはペストも戦争も、人間に降りかかる不条理を同列に見なしている。「ペスト」を「戦争」に替えて読んでもいいと思う。

天災というものは、事実、ざらにあることであるが、しかし、そいつがこっちの頭上に降りかかってきたときは、容易に天災とは信じられない。この世には、戦争と同じくらいの数のペストがあった。ペストや戦争がやってきたとき、人々はいつも同じくらい無用意な状態にあった。(同前No.617-619)

 カミュが『ペスト』で示している態度は、ペストが災厄全体を代表していることに見られるように、人間がそれに抗って勝利できるかどうかはわからない、というか敗北し続ける。

 しかしそれでも、リウーたちは「保健隊」に参加して「自分にできることをやる」という最小限のことをやろうとした。

 だがペスト=災厄とか不条理とかいったものが繰り返されるだろうから、それでも自分にできることは何かと言えば忘れないこと、つまり記憶することなのだ。

 

黙して語らぬ人々の仲間にはいらぬために、これらペストに襲われた人々に有利な証言を行うために、彼らに対して行われた非道と暴虐の、せめて思い出だけでも残しておくために、そして、天災のさなかで教えられること、すなわち人間のなかには軽蔑すべきものよりも賛美すべきもののほうが多くあるということを、ただそうであるとだけいうために。/しかし、彼はそれにしてもこの記録が決定的な勝利の記録ではありえないことを知っていた。それはただ、恐怖とその飽くなき武器に対して、やり遂げねばならなかったこと、そしておそらく、すべての人々──聖者たりえず、天災を受けいれることを拒みながら、しかも医者となろうと努めるすべての人々が、彼ら個々自身の分裂にもかかわらず、さらにまたやり遂げねばならなくなるであろうこと、についての証言でありえたにすぎないのである。(同前No.5511-5519)

 

こうの史代を思い出す

 すぐに、こうの史代この世界の片隅に』を思い出す。

生きとろうが 死んどろうが
もう会えん人が居って ものがあって
うちしか持っとらん それの記憶がある
うちはその記憶の器として
この世界に在り続けるしかないんですよね
晴美さんとは一緒に笑うた記憶しかない
じゃけえ 笑うたびに思い出します
たぶんずっと 何十年経っても

こうの史代この世界の片隅に 下』双葉社p.126)

  こうの史代は『夕凪の街 桜の国』から、戦争体験における「記憶」についてくり返し描いてる。主人公の一人が、原爆の体験を回想するシーン。

わたしが忘れてしまえばすんでしまう事だった

(こうの『夕凪の街 桜の国』双葉社p.26)

  この直後に、この諦念を否定するように記憶の象徴としての原爆ドームの大ゴマが入る。

 

 カミュは「忘れてしまう」ことを断罪してはいない。忘れてしまうのである。

 そのことを、ペストから解放された人々が、ペストによって犠牲になった人たちを忘れて騒いでいることを次のように書いて表している。

暗い港から、公式の祝賀の最初の花火が上った。全市は、長いかすかな歓呼をもってそれに答えた。コタールもタルーも、リウーが愛し、そして失った男たち、女たちも、すべて、死んだ者も罪を犯した者も、忘れられていた。爺さんのいったとおりである──人々は相変らず同じようだった。しかし、それが彼らの強味、彼らの罪のなさであり、そしてその点においてこそ、あらゆる苦悩を越えて、リウーは自分が彼らと一つになることを感じるのであった。

カミュ前掲No.5504-5508)

 だからこそ記憶、というか、記録をしなければいけない、とする。

 

「あきらめ」から「自分にできること」へ

 この記憶・記録の問題とは別に、不条理に対して人間は所詮抗えないという「あきらめ」、アパシーをいったん受け入れてしまった後で、しかしその上で何か自分にできることはないのかと考える様子は、大西巨人神聖喜劇』を思い出させた。

 

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

神聖喜劇〈第1巻〉 (光文社文庫)

  • 作者:大西 巨人
  • 発売日: 2002/07/01
  • メディア: 文庫
 

 

 戦争の反動的な性格を認識しつつどこにも変革の可能性を発見できなかった主人公・東堂は絶望に陥る。その結果「世界は真剣に生きるに値しない」「本来一切は無意味であり空虚であり壊滅するべきであり、人は何を為してもよく何を為さなくてもよい」という「若い傲岸な自我が追い詰められて立てた主観的な定立(テーゼ)」にたどり着く。その上で「私は、この戦争に死すべきである」という実践的な結論を得る。

 しかし、軍隊生活を送るうちに、この虚無主義的なテーゼは侵蝕されていく。同年兵たちの中に人間的な連帯を自然な感情として感じ取り、本当に必然として、言い換えれば至極自然な成り行きとして連帯を形にした大胆な「反抗」に及ぶのである。

 この展開に、リウーやタルー、あるいはランベールといった登場人物たちが「保健隊」に入って、決してペストという絶望そのものには打ち勝てはしないのだけども、自分にできることをやる姿は、カミュがこの後具体的に明らかにした「反抗的人間」のように思われた。

 リウーと東堂は別の生き様であるが、共通する理性をそこに感じた。