「自立」とか「ボランティア」とか「食育」とか「持続可能」とか「安全」とか「主権者教育」とか——その言葉だけ聞くと「いいこと」だとしか思えないよな。
だから、左翼であってもそのまんま使っちゃうことがある。まあ、ぼくもそうだ。
だけどそこには「込められた政策意図」があって、その使い方をよく見抜いて、注意しながらつきあわないといけない。
本書を読むとそういう警戒感が生まれる。
というか、多くの人にとっては題名からして意味不明だ。
読めば内容を実に正確に言い表しているとは思うのだが、広く売ろうと思ったときにこんなタイトルつけるかねと思った。
だけど、むやみにわかるように広げてしまうことで、本当に届けたい層に届かない、という問題も起きるのかもしれない。仕方がないのだろうか。
まず「新自由主義」がわかるくらいの層に届けようと考えてみる。
本書では厳密な定義がされているのに、ここでぼくが乱暴な、ざっくりとした定義を与えてしまうことは、その厳密さを台無しにするとは思うけど、その厳密さにたどり着くまえに疲れて果ててしまうという人たちのために、ぼくが乱暴に説明することを許してほしい。
新自由主義は、それまであった福祉国家のような社会保障を中心とした手厚い国家介入のしくみや規制をどんどん解体して、資本を自由に動き回ららせようとする政策の流れである。
こうしたよくイメージされる新自由主義を、「ロールバック(撤退型)新自由主義」とする。
しかし、これだけでは社会がどんどんほころんでいってしまうので、代わりにコミュニティでの助け合いや「しっかりした個人」を作り直すことで、そのほころびをつくろおうとする。まあ、自助や共助を強調して、従来の新自由主義の弱点を補おうとする。
これは本書のタイトルにある「ロールアウト(伸展型)新自由主義」である。改良型新自由主義といってもいい。
家族、職場、学校、余暇のクラブ、近隣、これらのコミュニティの活性化とそこに参加する主体の創出がおこなわれるのである。(p.23)
「ロールアウト新自由主義」は、「新自由主義」という基本フレームは維持したまま、フレームに合うように市場以外のコミュニティなどを活性化させ、補完させる。それを、国家が評価を用いて操作する。その時、それらコミュニティに参加する主体が創出される。そしてそこで排除からの包摂が試みられるが、なお排除される層は存在し、彼らへの強制がおこなわれる。(同前)
本書では、それを学校教育の現場——学習指導要領に登場する「ことば」の検証を通じて、どういうふうに子どもたちに教えられていくのかを見ていく。
- 自立(第2章)
- ボランティア(第3章)
- 食育(第4章)
- 法・きまり(第5章)
- 安全(第6章)
- 公害→環境→持続可能(第7章)
- 主権者教育(第8章)
共通するのは、行政が果たすべき公的な責任、大企業の社会的責任という枠組みが無効にされて、個人・企業・大企業・自治体・国家がフラットに並べられ、単にフラットなだけでなく、その中でも個人の役割や責任が拡大されてその担い手であることが過度に強調されるということである。
行政や大企業の責任は全く書かれないわけではない。
しかし巧妙に相対化され、事実上不問にされ、自分個人の責任や自覚がまずは問われるのである。
下記の記事でも書いたけど、娘が中学校の時に書かされた環境の作文では絶対に大きな枠組みを問わせない。個人でできることは何かを厳しく追求させるのである。
ぼくがこの本で驚いたのは、「主権者教育」であった。
本書にも書かれているが、主権者教育は、戦後の左派的な教育学や教育運動の中で長く実践の経験があったものだったはずで、最近「主権者教育」「主権者教育」とかまびすしいものだから、やれやれやっと日の目をみるようになったかと思っていたらさにあらず。長い間培ってきた「主権者教育」が忘却され、完全に断絶したその向こうに、突如として権力側から持ち出されてきた、全く新しい意味合いでの「主権者教育」だったのである。
それは「公共」の新しい担い手としての「市民」を生み出そうとするもので、むしろ義務を担う主体だといっていいほどだ。課題や義務をどう果たすかというゴールのために「自分の頭で考える」という前提がある。
高校生になった娘は「公共」という強化を学んでいる。
その参考書『蔭山の共通テスト公共』を読むと、まず「『公共』とはどんな科目か」と書いてある。
高校卒業と同時に世間から即大人扱いされる
…自由と権利が増えるということは、同時に“責任と義務”も、一気に増える事になる。これは当然の話だ。だって「権利と義務」「自由と責任」が基本的にセットなのは、これから社会で嫌というほど痛感させられる“大人の常識”なのだから。
…ならば、何が必要か?——答えは「自分の人生に責任を持つ」ことだ。つまり、自分の要所要所の決断を他者に頼らず、「自立した個人」として、自分の幸福を、自分の選択・判断でつかみ取っていくことが必要になるのだ。
…議員に文句を言う前に、まずは自分が主権者であると言う自覚を持ち、「どんな議員を選べばよりよい社会になるか」を考え、選び、行動しよう。そう考えると、『公共』と言う科目は、皆さんに対する「主権者教育」の一環として、「社会と主体的にかかわるための判断力トレーニング」のために新設されたものと言える。(蔭山克秀『蔭山の共通テスト公共』*1p.8-9)
ここには、ロールアウト新自由主義下での「公共」の精神、その下での主権者教育の意義が「わかりやすく」書かれている。
町内会問題に長くたずさわってきた身としては、やはり新自由主義の弥縫策としてコミュニティ政策があるという視点である。
特に介護や地域福祉は、かつて家族から社会へと開かれたはずなのに、再びお金がない人を切り捨てる形で家族や個人へ押し戻そうとされている。お金がない人たちにとって受ける訪問型の(比較的軽い)介護サービスは、実際には「簡単なサービス」に成り果ててしまい、まともに機能しなくなりつつある。ほころんだところは、町内会やコミュニティでなんとかしてよ、というのがロールアウト新自由主義のやり口である。
なんとかしているがなんとかしていない現実を描いたのはブレイディみかこ『両手にトカレフ』であろう。
地域の自主的な連帯の貴重さを示しつつ、それでは何一つ救われないと言う現実を描いて、美談で絶対に終わらせないという強い決意がそこにある。
コミュニティを強化する——それ自体はいいことではないか。
というフレームに、ぼくらは「やられてしまう」。
食育もしかり。安全もしかり。である。
それ自体として文句がつけにくいものを持ってくる。左派の強調してきたものですらある。そういう概念をまず持ってくる。
その上で、自助・共助・公助を全て並列に起き、あるいは個人・企業・国家を並列に置く。結局企業や国家の最も根本的な責任は曖昧にされ、いつの間にか責任を取らされるのは自分ただ一人、もしくはその家族のみ。そういう「言葉」と「実践」の詐術に引っかからないようにしたい。
気づいた補論2点
本筋とは関係ないが、本書を読んで、特に気づいた点を二つ書いておく。
一つは、学習指導要領にどう立ち向かうかを改めて。
先日福岡市の新しい教育振興基本計画の原案に意見を言う機会があった。
そうした原案へのパブリックコメントはそもそも「部分」に意見を言わせる形式になっているので、そこからすでに罠が始まっている。
そもそも教育の目的などを一律に個人に押し付けること自体が間違っていて、その最たるものが2006年の新教育基本法とそれに基づく基本計画づくりであり、学習指導要領に縛られた教育の在り方なのである。
学習指導要領にどう向き合うべきか、本書で改めて書かれていて、基本点を確認すする上で参考になった。その部分をメモとして記す。
一つは、学習指導要領は法ではなく、官報告示に過ぎないのだから、法と法以外の境界をあらゆる場面で再確認しながら、現在、学習指導要領があたかも「法」のように機能し、さまざまな人権侵害を引き起こしていることの告発である。憲法の人権理念から学習指導要領を裁く営みといってもよい。そして「各学校においては、……適切な教育課程を編成するものとし」(二〇一七学習指導要領「総則」)と学習指導要領に書かれてあるとおり、教育課程の編成権は学校にあり、国家は教育目標・教育内容に立ち入ってはならないと広めることである。仮に目標や内容を示すとしてそれは大まかなもので、かつ参考程度に扱われるものとし、拘束力を持たせてはならない。専門職である教師たちが、保護者や地域住民、子どもたちの声を聴き、対話しながら教育目標や教育内容を考え、学校として教育課程を編成する。その原点に立ち返るべきであり、そのような文化的ルートの制度構想を再検討する必要がある。(p.300)
もう一つは、社会貢献をする仕事についてボランティアと労働の境目を曖昧にしようとする国家的企てに乗ってはいけないと言うことである。
本書はロールアウト新自由主義が称揚するボランティアと労働の区別の曖昧化について、労働が快楽・自己実現の強調を行われる傾向について渋谷望を引く。
そこでは、労働者が社会権思想によって得た「法廷的地位」よりも、フレキシブルに対応して「労働における快楽」や不断の「自己実現」を得ることによって、労働(生活)の内実を規定するようになるという。そのとき、「自己実現」が強調されることで「労働」と「社会活動」の区別は曖昧となり、フレキシブルな配置転換や職場のフレキシブルな移動が可能になったと述べている。(p.85)
「社会参加」は「生産の現場」を離れても機能し、「自己実現」や「生きがい」といったことばと接合し、「この語は個人が就業していようといまいと成し遂げることができる何かを意味」するようになった(渋谷2003:57)。ここにいたって「労働」概念が「社会参加」概念に転換され、「『自己実現』の名のもとに、労働(経済)の領域と社会の領域をフレキシブルに行き来する主体」が創出されたという(渋谷2003:57)。(同前)
「専従職員は労働者ではない! 革命の誇りを持ってやる自主的な活動だ!」とどこかから声がする。気のせいかな。
仮にそうだとしても、それを「理念」で区別を曖昧にして覆い隠すのではなく、現実の実態として劃然と区別することなしには、ただのロールアウト新自由主義下での「やりがい搾取」と言われても仕方がないだろう。
*1:前も述べたが、受験参考書としては役に立っている。