『しょせん他人事ですから』7・8

 裁判に関わるようになったので、身近に弁護士の方と接する機会が多い。

 つい弁護士もののマンガなんかを読んでしまう。

 本作は昨年はドラマにもなったのでそちらでご存知の方も多いはず。

 本作は弁護士のかかわる事件の中でもネットをめぐるトラブルを中心に扱っている作品である。

 最新の7巻・8巻では、男性中年サラリーマンが主人公。プロ野球選手に対する誹謗中傷をSNSで書きまくり、それを抑止するために球団から仕事を受任した弁護士を逆に懲戒請求する扇動を行う。

 やがて、この男性は情報開示請求を弁護士からされてしまうのである。

 

 

 「悪口」をかかれまくっていた選手は、この男性と弁護士を通じて対面する。

 対面した男性は、球団への愛を熱く語り、選手に対しても顔を赤らめながらサインを求めたりするのである。

 

 他の人のブログや動画を見ることがあるけど、そのブログや動画を驚くほど詳細に読み込んで実に熱量あふれる「批判」コメントを書いたりする人がいる。

 そういう他の人のブログに蟠踞している人のコメント群を見たつれあいは、「いや〜…こんなに熱心に読んでいる人、他にいないよね。完全にファン…というか一番熱心なファンでは?」と言っていた。

 よく言われるように愛憎は表裏一体のものなので、そのことはよくわかるんだけど、実際に会ってみるとこの作品に出てくる男性みたいな存在なのかも。*1

 「愛憎は一体のものであり、愛深き故の行動なんだから、実際に会ってみたら気のいい人だろう」…ということはまったくない。ただの一方的な感情の押し付けなのである。この男性は、自分の子どもに対しても勝手な「期待」を押し付け、そうでないと勝手に見放したりするのである。

 選手は最終的に気づきを得る。

自分の想像で他人をコントロールしようとするから苦しいのかも

他人の考えなんてコントロールできないのに

 これは男性に対するコメントではなく、男性から被害を受けてきた自分自身の感情についての悟りである。

 男性に対しても、弁護士は

彼は彼のストーリーの中で生きている

関さんの言う通り

コントロールもできないし

しようとしても無意味なんです

と述べる。

 

「コントロールできない他人」と熟議民主主義の関係

 これは熟議の対極にあるもののように思える。

 その両者の関係をどう評価し整理したらいいのか。

 まず、個人での対応と、社会・組織としての対応とは、違うレベルにあるという整理が必要ではないだろうか。

 個人対個人のレベルで言えば、一応ぼくが今思っているのは「お互いに歩み寄れる人たちの中でまずは話し合ってみたらいいんじゃないか」というほどの結論を得ている。「話し合えない人」というのはどこにでもいるので、そこは待つしかないのかなと思う。個人レベルでは負担が重いので、ミュートやブロック、削除も積極的に活用していいんじゃないかと思う。

 組織や社会全体の対応としてはまた別である。

 容認できない意見も存在を許し、さらに、その多様性が(不快ではあっても)反映される仕組みを作るべきである。「みんなで選挙に行きましょう」とキャンペーンしたら、兵庫県知事選挙のような結果が出てしまった…! となっても、その「不快」さを反映する仕組みがあることはやはり民主主義にとって大事なことだ。

 

「妥協点を探る政治」と「SNSによる全員投票」

 今年の1月8日付の朝日新聞「2025 政治の行方は」という討論記事の中で、同社編集委員高橋純子の次の発言に注目した。

SNSによって選挙が「推し活」みたいになっているが、本来は違う。政治は合意形成であり、妥協だ。自分たちが望んだ答えではないが、全体を考えたらこの程度という「100点は出せない世界」。民意を集約しつつ妥協点を探る、国会審議を通じてそのような姿を見せ、有権者に対する「教育機能」も果たしていかねばならないが、SNSによって目先の人気取りにきゅうきゅうとしている印象をもつ。これが高じると、SNSによる国民投票で政策決定すればいいじゃんと、政治家不要論に抗せない。

 そうだよね、と思う反面で、いやそういう「不快な民意」を遮断する言い訳になってない? という不満も感じてしまう。

 「民意を集約しつつ妥協点を探る」と言いながら、その「探られたはずの妥協点」は、従来多くの人にとって納得しがたいものだった。だからこそ、「SNSでの全員投票」のような民意こそ可視化して突きつけてほしい、とみんな思うのだろう。

 「SNSでの全員投票」のような制度は、「不快な他者」を可視化する。そうすると、熟議側はなぜ「不快な他者」の要求は100%飲めないのかを説明せざるを得ないから、説明して納得してもらう努力をする。世の中は、この「説明して納得してもらう努力」の部分が多分圧倒的に足りないんだろうなと思う。

 「合意を形成し妥協点を探る政治」と「SNSによる全員投票」は、どちらも必要な契機であるが、どう制度設計してその両者を配置するかが肝心である。

 

 どうだろうか。

 こういう整理で行くしかないと思うけど、違うだろうか?

*1:え? お前もハタから見たらそうだって? 違うわ!…と言いたいところだが、人から見たらそうなってしまっているかもしれないことについては常に気をつけたいものである。