長谷川摂子によるせなけいこの絵本批評

 せなけいこが亡くなった。

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 絵本を読む環境がほとんどなかったぼく自身は、小さい頃せなの絵本には『ねないこだれだ』にしか出会えなかった。

 自分に子どもができてからは、『じゃあじゃあ びりびり』『いやだいやだの絵本』など、かなりお世話になった。

 せなの絵本を「しつけ」としてとらえることがある。「夜中まで起きているとお化けが出てきますよ」という言説の具現化として『ねないこだれだ』を考える、というのはその典型例だろう。

 こうしたせな観に対して、長谷川摂子は次のような批判を加える。

〔せなの絵本を〕しつけの本という性格づけをする向きもあるようだが、その見方は一面的すぎる。世の中の母親というものは、毎日子どもをしかり、なだめ、着替えや食事、睡眠と、暮らしの流れに子どもをのせていかなければならないのだ。その中で、子どもに話しかけねばならないことが、どんなに多いことか。けれど「◯◯しなさい」「××しちゃだめ」といった命令と禁止の言葉の連続で一日が過ぎていくのは親も子もたまらない。食べさせたり、ねかせたりするとき、そんなあからさまな命令や禁止の言葉でなく、イメージ豊かな楽しい言葉かけで、子どもが生活のリズムにすすんでのってくれれば、どんなにか暮らしが、平和で落ちつくことか。そこのところが、幼児をもつ母親の生きる術(すべ)のようなものだとわたしは思っている。そういう親子の切実な関係から、せなけいこの絵本は生まれてきた。(長谷川摂子『子どもたちと絵本』福音館書店、1988年、p.102-103)

 しつけでなければ一体なんだというんだ?

…と、いぶかる人もいるかもしれない。

 そこのところを、長谷川は次のように少し噛み砕く。

 

大人はこわいものの話を、子どもをさとす方便に使っているけれども、子どもはこわさをバネに、想像の世界を色濃く紡ぎ出しているに違いない。大人のほうでも、現実と幻想の境界を見定めない子どもの迫真の想像力に便乗して、幼児のいる暮らしの心豊かさを味わっているのだと思う。(同前p.102)

 

 子どもの感じる「こわさ」には、リアルな現実というより、それを入り口にして、想像の世界に飛躍していくところに、妙味がある、と長谷川は考えている。夜の薄きみわるさを入り口にしながら、「おばけ」という想像の世界へ地続きで入っていき、その先がぐっと広がっている。子どもこそがその想像のディテールをふくらませ、巧妙に仕上げていくのであるが、絵本を一緒に読む大人はそれを否定したりするのではなく、そこに便乗してその世界に入っていってしまうのだという。

 そんな絵本をつくるのは簡単ではないか、と思うかもしれない。

 それがそうでもないのだよ、ということを、長谷川は『あーんあん』を例に次のように説明する。

 

 

 『あーんあん』は現実とファンタジーとの往来が大胆で、しかもイメージに底力がある。「かあさんが かえっちゃ いやだよー」と、次々に泣きだす保育園の子どもたち。涙がたまって、どんどんふえて、胸まで涙の池につかった子どもたちは、とうとう魚になってしまう。この現実からファンタジーに移行する三場面の展開のリズムはすばらしい。絵は前ページのイメージを着実に残しながら変わっていくので、言葉の軽快なテンポといっしょに走りながら、時間的な持続感があって、変化の感触が生々しいのだ。(長谷川前掲p.104-15)

 現実からファンタジーに移行する際にくどくど説明をしない。さっとテンポよく移行しながら、それでいて、技術としての巧みであることを示している。なんとなく『ドラえもん』を読んでいるとき、ストーリーを大胆にテンポよく進めていく様を思い出したりする。子どもがファンタジーに入り込むテンポを知悉している。

 

泣いている子どもたちの服の柄と、魚の背模様を、コラージュの手法を生かして一致させてあるのもふるっている。子どもたちは、この子がこの魚、あの子があの魚と指でなぞり、ちょっとぞくっとしながら遊んでいる。(長谷川前掲p.105)

 子どもたちは一旦入り込んだ世界に浸り、その世界の論理ですでに遊んでいる。そのようなフックが用意されており、大人の出る幕ではない。

 しかし、では子どもだけの世界かといえばそうでもない。

 絵本にかかわる大人もそこに入り込む。

 

 最後、かあさんの網にすくわれてキョトンとしている男の子の顔は魅力的だ。この子は大人に手の届かない遠い非現実の世界に半身を浸している表情をしている。二歳ぐらいの子はときどきこれとそっくりな顔をするな、と思いながら、一人の母親が子どもの心とたがいに浸透し合いながらこの絵本を作ったという奇跡を、しみじみ感じるのである。(長谷川同前)

 その世界に入り込みながらも、少しメタな視点からそれを眺め、「二歳ぐらいの子はときどきこれとそっくりな顔をするな」などと感じたりする。子どもと一味でありながら、少しそこから抜け出している。「大人のほうでも、現実と幻想の境界を見定めない子どもの迫真の想像力に便乗して、幼児のいる暮らしの心豊かさを味わっている」とはまさにこういうことであろう。

 

 しかし、そうした絵本の作り方は、実はきわどいボーダーラインの上にあり、それがある意味で魅力になっていることを、長谷川は記している。

 

けれども、このたぐいの絵本は、イメージが思いきって飛躍せず、日常から横すべりしただけのものだと、作者の母親意識があらわに見え、子どもも大人も遊べない絵本になる恐れを、多分にはらんでいるのだ。一方では、こういう絵本の作り方の危うさも思うのである。(同前)

 まさにそれが「しつけ絵本」という説教になってしまう瞬間であろう。せなの絵本はそのきわどいところをうまく縫合して、子どもたちが豊かな想像に入りながら大人たちもそこに便乗して楽しめる世界として仕上がり、なおかつそれが日常の切実な語りかけの言葉として機能するように絵としても展開としても仕上がっているのである。奇跡のような絵本だ。

 

 だから長谷川は『ねないこだれだ』についても、

この本は子どもがねる前によんではいけない。(長谷川p.103)

として、その楽しみ方を書いている。それはなぜか、どんなふうに読むのか、は長谷川の本を読んでほしい。たくさんの絵本批評が載っており、きっと楽しいだろう。