石井遼介『心理的安全性のつくりかた』

 リモート読書会の次のテキスト。ぼくはファシリテーターである。

 ハラスメントは、それをやってしまったら人権侵害になってしまう。じゃあハラスメントがなければいいのかというと(もちろんそれはそれで大事だが)、仮に「ハラスメントがない」とされる職場であったとしても、自由にモノが言えない・言いにくい職場というのがある。そのような職場はどうしたら作れるだろうか…という問題意識がぼくにはあった。

 

「生産的でよい仕事をすることに力を注げる」という要素

 もともと「心理的安全性」概念を提唱したエイミー・C・エドモンドソンは本書によれば

チームの心理的安全性とは、チームの中で対人関係におけるリスクをとっても大丈夫だ、というチームメンバーに共有される信念のこと(本書p.22)

だという。しかし、本書の著者である石井はこれを次のように定義し直す。

一言で言うと「メンバー同士が健全に意見を戦わせ、生産的でよい仕事をすることに力を注げるチーム・職場」のことです。(同p.22-23、強調は引用者)

 ここでエドモンドソンとの違いは「生産的でよい仕事をすることに力を注げる」という要素が入り込んでいることに注意する必要がある。

 ネット上で共産党内でのハラスメント問題が話題になったとき、「心理的安全性」について話題にする人がいた。それに対して、「ハラスメントと心理的安全性は違う」という意見、さらには「心理的安全性は資本の側が用意した概念ではないのか(だから左翼が迂闊に使うべきではない)」という意見があった。この二つはある意味でどちらも正しいと思う。

 「ハラスメントと心理的安全性は違う」は冒頭にぼくが述べたような意味で。

 「心理的安全性は資本の側が用意した概念ではないのか(だから左翼が迂闊に使うべきではない)」については、本書が日本能率協会マネジメントセンター出版であることからも推察されるし、本書の著者・石井が「生産的でよい仕事をすることに力を注げる」を出口にしていることからも、ある意味でうなずける。

 ただ、仮に左翼が政権を握ったり、社会を運営する中心に座ったりした場合でも、「職場が自由で民主的な雰囲気で、なおかつ生産性の高い(あるいは目的を遂行する)仕事をどうしたら実現できるか」というテーマは考えねばならないはずである。というか、政権とか社会とか言う前に、まず自分たちの組織がそのような組織でなければならないはずだ。

 本書にも出てくるが*1、「モノも言えず、恐怖や統制のノルマで縛られたキツい組織」であることはもってのほか。しかし、かといって「自由で民主的だが、いっこうに仕事ははかどらない。みんな無責任でやることをやらない」というわけにもいかない。「自由で民主的ならほっといてもやってくれるさ!」というのは、ある意味でそうかもしれないが、そう単純でもないところが、現実の難しいところではないだろうか。

 多くの進歩的組織はそういうことで悩んでいるはずだ。

 モノを言うことも建前は自由だが、実際には同調圧力でしばられていてモノが言えない。あるいは、異論を言えば、あれこれの理由をつけて村八分にされる。あるいは、恐怖や統制はないが、「●月までに●%アップ!」という目標達成など内心は誰も信じておらずなんとなく惰性でみんなやっている。だけどそれを根本から見直すことはできない…などという会社や団体もあるだろう。たぶん。どこかに。

 

「結束したチーム」は実のところ、異論を唱えることが難しい

 本書の隠れたテーマは「自由で民主的な雰囲気と、高い生産性・目的遂行力は両立するのか? 両立するならどうやってそれを実現できるのか?」ということだ。

 最初は「自由で民主的な雰囲気」づくりをやっても、何らかの仕事上の達成をしようと思うからこそ、ホンネのところでは「でもいざとなったら、みんなでキツいノルマをやるしかないかんね」となってしまって、「ツラいけど文句を言わずにやる」「文句いうやつは目的遂行の妨害者」的な空気へと逆戻りしてしまうのだ。「お遊びの時間はおしまい」というわけである。

 スポーツチームなどでも「選手をシゴいたり管理したりするのが結局は高い能力のチームに仕上げる近道」という信念はなかなか拭えず、「選手一人ひとりの意見を聞いて、モチベを上げて、みんなで甲子園行く」というような方向を非現実的なヌルい道としか思えず、「まあ草野球で楽しめばいいっていうチームはそういうことやったら?」としか思っていないわけである。

 スポーツマンガにはそういう対立がだんだんと描かれるようになってきた。

 『おおきく振りかぶって』は近年のその嚆矢だと思うけど、最近では西餅『僕はまだ野球を知らない』、特にその第二部にあたる『僕はまだ野球を知らない・second』は父子のチームが激突して、この対立のクライマックスとなっている。

 

 本書では次のようにこの問題意識をまとめている。

 「心理的安全性」という言葉は、字面や表面だけを捉えると誤解を生みがちです。心理的安全なチームというのは、外交的であることでも、アットホームな職場のことでも、単に結束したチームのことでも、すぐに妥協する「ヌルい」職場のことでもありません。

 例えば、「結束したチーム」はスポーツの文脈で良く語られ、目標に向かって一致団結する姿がチームの理想として認識されています。

 しかし裏を返せば、「結束したチーム」は実のところ、異論を唱えることが難しいチームともいえます。心理的に安全なチームはむしろ、チームメンバー大勢の意見が一致しているように見えるときでさえ、「それは違うと思います」と容易に反対意見が言えるチームのことなのです。(本書p.33、強調は著者)

 著者の石井は、最初にこの両立についての概念整理を行う。

 つまり、どうすれば心理的安全性と、仕事をバリバリやることが両立するか。もっと言えば単に両者が対立するのではなく、心理的安全性こそが仕事をバリバリやる条件になるのか、という整理である。

 石井はこの点について、「高い基準(ハイ・スタンダード)の仕事」という考えを提唱する。これは目標を高くしろと誤解されそうだが、と石井はいう。そうではなく、「妥協点が高い」という意味なのだという。

 「来期、100兆円売り上げるぞ!」という高すぎる目標設定をするが、期が始まってしばらくすると、「とりあえず、昨対5%増を目標に……」などと、すぐに妥協するリーダーは妥協点が低く、その高い目標にメンバーが共感することもありません。

 一方「今期、ここまで行こう」ときちんと目標を決めて努力し、あと半年では達成が難しいことが分かっても、粘り強く行動を増やしたり、新しいことを試したり、どんどんとノウハウをメンバーに共有したりするリーダーもいます。(p.35-36、強調は引用者)

 これが「妥協点が高い」のだという。妥協を簡単にしないことか? と思うが、そうではない。しかし、ここではそれ以上書かれていない。

 全体を読んでぼくが後から思ったことだが、この場合で言えば、最初の目標設定に理由・根拠があること、それを実現できる資源があること、その資源の動員が可能であること、などがメンバーによく共有され、納得されているということなのだろうと思った。根拠が徹底的に検証され、メンバーはそれを納得して共有し、いつでも自由に反対の異論が出せて、目標が変えられるようになっていることだ。論拠の正しさがあってみんなが納得すれば、目標は変えられてしまうという緊張感がある。逆に言えば、そうでないうちは、掲げた目標をなんとしもやり切ろうとすることになる。しかし、根拠と納得と自由な討論の雰囲気があるので、士気は高い。

 「●%増やすしかなかろう」といって、ろくすっぽ実現性も検証されないまま押し付けられるような目標だと、すぐに「●%増」という当初の目標は現実的には下ろされて、現場では「まず前回比を超えよう」という妥協したものにすり替わってしまう。うん。どこかで聞いた話だ。

 

「カルチャー」の改革と、「スキル・行動」の付与にフォーカス

 しかし、こう概念整理できたからといって、じゃあ具体的にどうすればいい? となる。

 石井は、そこで概念的にコトを分けて示そうとする。

 まず、一般的にモノが自由に言えるということではなく、高い生産性を実現する条件としての「心理的安全性」の要素として4つを提示する。

  • 話しやすさ
  • 助け合い
  • 挑戦
  • 新奇歓迎

 まあ、これは字面だけ見ても、何となくわかるだろう。詳しくは本書を読んでほしい。

 そして変化させるレベルを混同しないように3段階に腑分けする。

  1. 構造・環境
  2. 関係性・カルチャー
  3. 行動・スキル

である。1.は会社の業種とか、会社・業界がおかれている環境とかである。これはまず取り組みの対象にしていない。2.は会社や職場の組織的文化、気風のことだ。いわば土壌のようなもので、時間はかかるがこれを変えないと話は進まない。3.は職場で一人一人がどうすべきかというレベルの話だ。すぐにでもやれることである。

 つまり本書は2.と3.にフォーカスしている。

 

リーダーが行うべき課題としての心理的柔軟性

 その上で、2.を変えるためにはリーダーによる「心理的柔軟性」が必要になるとして、その展開を第2章で行なっている(第2章 リーダーシップとしての心理的柔軟性)。

 会社や職場の組織文化を変えるということが、実は「心理的安全性」を築く上では大きな土台になる。だから、本書のサブタイトルも「『心理的柔軟性』が困難を乗り越えるチームに変える」になっているのだ。まさに第2章が一つのキモだ。

 そして、この課題は主に職場の個々のメンバーではなく、リーダーがとるべきものとして提起されている。厳密に言えば本書は「リーダー」ではなく「リーダーシップ」=他者に影響を与える能力の発揮を求めているので、例えばヒラでもリーダーシップは発揮できるし、部長でもお飾りなだけならリーダーシップは発揮できない。いずれにせよ、「まず心理的安全性の保証となる文化を職場につくろう」と思っている人が、主体的にその変革に挑むという課題を示し、具体的にどうすればいいかを提示している。

 ただね。

 この章は読みやすくないところも多い。

 概念化=学問化しようとする意思が強すぎるのだろうが、抽象的で「言っていることはわかるけど、何のためにそんな話をしているのか?」と首を傾げてしまような記述もある。あるけども、そこはまあとりあえず飛ばして大ざっぱに「ここはリーダーシップをとって、職場に心理的安全性の文化を根付かせようとする努力方向について書いているんだな」と理解して進むのがいいだろう。

 結局のところ、カルチャーを変えようとすると抵抗が出てくる。しかし、そこにあんまり囚われすぎずに(「変わらないものを受け入れる」p.101)、奨励すべき、いい雰囲気の行動に注目してそれを励ましていくのがいいんじゃね?(「大切なことへ向かい変えられるものに取り組む」p.121) ということなのだろう。

 その上で、「正しさやタテマエ、これまでの自分の体裁に囚われるな。必要なことはこれだということをプラグマティックに見分けろ」というアドバイスをする(「マインドフルに見分ける」p.128)。

 これがリーダーがやるべき課題だというのだ。このような心のありようを石井は「心理的柔軟性」と呼んでいる。

 

メンバーに身につけてもらうべき行動

 次に、個々のメンバーが「心理的安全性」を作る上での課題を示す。

 段階で言えば3.の「行動・スキル」にあたる部分で、リーダーではなく職場のメンバーがどうすべきかという話になっている。

 一人一人が心理的安全性を保障するような行動をしないと職場に心理的安全性はもたらされないのだが、それをいきなり個々のメンバーに与えるのではなく、まず2章でリーダーシップによって土壌を耕す、もっと言えばリーダーがイニシアチブをとって土台をつくることなしにはできないと思っている。

 そういう意味では、この3章よりも前述の2章の方がキモなのだが、その結果、個々のメンバーがどう変わるべきなのかはこの第3章「行動分析でつくる心理的安全性」に書かれている。

 実は、この章も、前章と同じで、学問化させようとするあまり「いったい何の話をしているの?」と思ってしまう箇所がいくつかある。

 でもあまり難しく考えずに、そこは読み飛ばそう。

 要は、話しやすさ・助け合い・挑戦・新奇歓迎という心理的安全性の4つの因子を阻害するような「きっかけ・みかえり」を減らし、4因子の行動が増えていくような「きっかけ・みかえり」をどんどんやっていこう、ということなのだ。

 おそらく本書を手に取ったとき、読者が一番知りたかったことの具体的な話は、この章のp.198からの具体的な「行動分析」に書かれている。

 例えば

 新人が不十分と思える報告を持ってきた。

 さあ、あなたはどうする?

  • 「君の報告はわからん。ちゃんと分かりやすく報告してくれ」
  • 「報告ありがとう」

 この場合、後者を選ぶべきだと石井は言う。

 「スキルが低くてよい」「結果が出なくてよい」ということではない、として石井が整理を行う。

重要なのは「望ましい行動を増やす」ことと、「まだ高くないスキル・品質を切り分ける」ということです。(p.201)

 

 挑戦を引き出す際には、範囲を限定して制限を課すことでアイデアを出しやすくする…などの提起もされる。

 ここは具体的に本書を読んで実感してほしいところである。

 

形式でないルールをどう作るか

 第4章「言葉で高める心理的安全性」は、リーダーにもメンバーにも共通することとして、職場につくった「ルール」——ここでいうルールは、会社で言えば事業計画や方針、左翼組織でいうところの政綱・綱領あるいは決定のようなものだが、それを

いかにして「形式的なルール」にせず、実感を持って行動に移せるチームに変えるのか(p.231)

をテーマにする。

 章の前半は、形式から実感へと職場のメンバーの気持ちはどう進化していくのかが概念的に示される。

  1. 言われた通り行動
  2. 確かにそうやな行動
  3. そんな気がしてきた行動

 まあこれも本書を実際に読んでみてほしい。

 後半は、そのように進化させるためには、機能別チーム(「営業部」「開発部」など)での実践の仕方と、プロジェクトチーム(各部から寄せ集めてプロジェクトを達成する場合)での実践の仕方が違うとして、それぞれの場合について書いている。

 

実はみんなが読みたいのは第5章では?

 本論はこれで終わりである。

 最後に「第5章 心理的安全性導入アイデア集」。

 いやーさっき3章で「実はみなさん知りたいのはこういう具体的なティップスでしょ?」という趣旨のことを言ったのだが、この第5章はモロにそれである。これまでのような議論が苦手な人は、この章だけをまずは読んでみてもいいかもしれない。

 例えば

研修として、職場のチームで料理をすることで、固定化した役職・階層が解きほぐされ、チームを新しい観点で捉え直せる(p.292)

というような例が載っている。

 

 このようにみてくると、改めて本書が、「生産的でよい仕事をすることに力を注げる」にフォーカスしていることがわかると思う。単に「勝手にモノを言い、言いっぱなしの職場」をつくろうとしているのではないのだ。

 もちろん、これで成功するかどうかはなんともわからない。

 だから、内容がすごくいいかどうかは判断はつかないのである。

 

社会進歩としての心理的安全性の構築

 しかし、ぼくは思ったのだが、資本の側は資本の側として、自由で民主的であることを条件としてどうやって生産性を高めるのか、ということに努力してんだなということだった。こういう資本の側からなされている努力も(いやむしろそのような努力こそが)、職場を自由で民主的にしていく、社会進歩の構成要素になるのではないだろうか。

 タテマエでいくら「私たちの職場は自由にモノが言えます」「異論はいくらでも言えます」「それでみんなで目標に向かって頑張っています」なんて言ってたって、そういう虚飾はもうたくさんなのだ。

 沈滞したムードと同調圧力が漂う中で、「まあ…これ以外に他に道もないし…とりあえず言われたことをやっておくフリでもするか」といって、黙々と従い、危険な挑戦や新奇な異分子が出れば上司の顔色を伺いながら上つ方とご一緒にそういうバカを排除するムーヴをやる。そういう組織はやがて滅びる。

 滅びないために、資本側も必死である。だから、こういう努力が生まれてくるのだろう。

 とはいえ、本書の限界として言える一つのことは、会社なり、事業所なり、組織なりの大きな進路を問う技術は、本書には入っていないことだ。そもそも大きな方向が間違っている、ということを問うことは意味がないとして、3つの段階分けの時にシャットアウトしてしまっている。

 太平洋戦争で言えば、戦争勝利のための作戦遂行にはあれこれアイデアを出せるけども、戦争目的そのものが大間違いでは? という根本的な議論を提出するにはどうしたらいいかはここでは書かれていない。

 大前提を疑わせないという思考は、別に左翼組織の中にも根深くある。

 そのようなところにまでさかのぼるにはどうしたらいいかは、本書からはみ出してまた考えてゆかねばらないことだろう。

 

「激しい言葉」での「率直な討論」は成り立つのか

 「自分たちは率直な討論をしている」という組織がある。自分たちは自由な討論をしている、率直になんでも言っている、だから、今さら「心理的安全性」など学ぶ必要はないとか、激しい言葉に聞こえるかもしれないけど、率直にモノを言ってるだけだ、とかそういう。

 仮に「率直な討論」なるもので「激しい言葉」がハラスメントに該当しないとしよう。

 その場合に、「率直な討論」が成り立つのは、それは様々な立場の人がいることを前提とした「一般社会」であろう。完全に一般の社会であれば、多様な意見は不快なままでも共存しあい、討論は(名誉毀損などにならない程度に)どれだけボルテージが上がろうが自由であり、社会の中で競争し切磋琢磨し淘汰し合えばいいからである。*2

 ところが「仕事の遂行」という共同目的で結ばれた「チーム」においては、「率直な討論」は単純に機能しない。同じチームとして共同の仕事を進める以上、「激しい言葉」でのやり取りは、感情的な困難が残るからである。*3

 しかも、討論のメンバーの間に、

  • 極端な力の非対称性(一方が指導者で、他方がヒラとか)
  • 一方の発言が非常に強く制約されている(発言時間、発言機会、発言届く範囲など)

のような場合には、なおさら「率直な討論」は成立しないだろう。そこに心理的安全性はなく、場合によっては「激しい言葉」そのものが「率直な討論」ではなく、一方が他方を抑圧するハラスメントになりかねない。

 だからこそそういう場合には、本書で披瀝されたような、心理的安全性を確保する技術が必要になる。それがなければ、実際には力や権限を持った者が幅をきかせ、萎縮や同調圧力が働く、心理的安全性ゼロの職場となってしまうだろう。*4

 

本書ですぐに役立つこと

 いろいろあるんだけど、本書の中ではまず「相手の発言や取り組みに感謝をする」ということはすぐにできるんじゃないか。この種の「きっかけ・みかえり」がなんども出てくる。

 「報告してくれてありがとう」「その取り組みはなかなかいいね」ということを、理由をつけて返すのである。

 新人とか、慣れていない人とかが、不十分な発言・方向・仕事を持ってくる。だけど、早く持ってきたとか、チャレンジしているとか、仕事の遂行を前進させる——ここでいう4因子(話しやすさ、助け合い、挑戦、新奇歓迎)を励ますものであれば、とにかく理由を含めて励ますことはできるのではないかと思っている。

 不十分なところや批判点をあげつらって、本書でいう「嫌子」を増やしてしまうのではなく。

 本書の実践は、いきなり全部を始めなくてもいいんじゃないかと思う。

 それはできるだけぼくもやってみようと思っていることなのだ。

*1:p.36。「キツい職場」「ヌルい職場」「サムい職場」。)

*2:あるいは、学会のように、チームとしての共同作業をそのあとに前提としない場でも機能するであろう。

*3:なお、ハラスメントについての訴えは別である。被害者が「激しい言葉」を使うのはある意味で当然だ。

*4:革命前のロシアのボルシェヴィキは、革命事業の遂行という共同性を前提としつつ、激しい言葉で議論しながらも、会議に応じてグループ(フラクション)を作り、会議が終われば後腐れなく分かれるという、稀有な存在だった。インテリゲンチャ性がそれを可能にしていた。