「今こういうものが読みたい」と体が欲していたのだろう。染み透るように読めた。もちろん、発売当初に買って読み、楽しんで読んだのだが、この時期に再読して面白さが格別だった。
近藤ようこ『高丘親王航海記』は、澁澤龍彦の同名小説を原作にしたマンガである。「薬子の乱」で有名な藤原薬子に、幼い頃に出会った経験が忘れられない高丘親王は、長じて唐に渡り、薬子から教えられた天竺を目指して船の旅を続ける。物語はその途上、主に東南アジア各国で出会う不思議な体験を綴ったものだ。
親王は67歳であるが、「どう踏んでも五十代の半ば以上には見えない」という風貌である。それはすなわち50代の物語であろうと親王に勝手な親近感を抱く。
そして、恐ろしく沈着で思慮深い物腰。かといって迷いがないわけではなく、むしろ幼い頃に薬子にそそのかされたことをはじめ、さまざまなことに思い惑っている。ぼくが理想としている像と今の自分の未熟で不安定な現状を、体現したかのような、その矛盾した姿に魅入られてしまう。
荒れ果てた後宮に案内され、その奥の部屋に閉じ込められている女たちの奇怪さ。
修行したまま砂漠で亡くなった死体を「蜜人」と呼んでその死体を漁る仕事。
夢を食う獏の陰茎を大切そうに撫でて精を放たせる美しい姫。
犬の頭をした人間。
そういう幻想的なエピソード、シーンが連続する。「なにをしょうもない作り話を」とはおもわずなぜか「そんな不思議なことがこの世にあるんだ…」などと感じながら、ページを繰っていくことになる。
その合間に挟まれる、薬子やそれに似た姫、そして男装の伴である美少女との、時には微細な、あるいは大胆にエロティックな関係。
要するにぼくは浮世を忘れるのだろう。隔絶された別の世界に深々と入り込む。
もちろん、すぐに家庭の雑事や仕事が待ち構えているのだが、なんとなく高丘親王になったような心持ちで、人と受け答えしたくなるのである。
例えば下図を見てほしい。
どうということのないコマだと思うかもしれないが、落ち着き払った親王の風貌と、ゆっくりと冷静に事を分けて話すその様が活写されている。
このような人になりたい。特に今…。などと心の底から願うのである。
怪異と幻想を描くこの作品に、近藤の作風はまことにふさわしい。
その当否を巖谷國士は解説で次のように述べている。
描き方も組みたて方も、強調や誇張が少なく、淡々としている。よくある細密な描きこみや過剰な装飾や、飛び散る汗や、感情のどぎつい表現もない。花や星につつまれもしない。人物の表情や仕草はさりげなく、内面をしつこく説明したりしない。それでいてくっきりと読者の心にのこる。/そういう漫画のスタイルこそが、じつは『高丘親王航海記』にふさわしいはずである。(近藤前掲、1巻、p.189)
蜜人を採集しようとして、砂漠で美女の幻想を見て、無限に射精させられる男を描いたコマの「ピッ」「ピッ」「ピッ」という射精の擬音の、手書きによる簡潔な書き込みなどは読んでいて可笑しいし、また、実に「心にのこる」。確か筒井康隆ではなかったかと思うけど、「射精中枢」を物理的に刺激させられてそれを繰り返させられる、おぞましさと快楽のようなものを思い出す。
あるいは杉浦日向子。
あるいは様々な縁起絵巻。
古の奇譚を思い起こさせるのにこういう絵柄がふさわしいのであろう。
直接は関係ないのだが、その解説を聞きながら、次の話題についても、すなわち「好みのイラスト」を描く人の「マンガ」が面白くない件について、ふと関連して思いが至った。
親王が南詔(雲南)の朽ち果てた石窟で、ミイラとなった僧に出会い、かつて使えた空海に出会えたと感じるシーンは、『ナウシカ』を思い出す。あるいは、『暗黒神話』を思い出す。『暗黒神話』を呼んだのが小学生の頃だったので、ぼく自身がなぜか親王のように懐かしい気持ちにさせられるのである。
ぼくに会って、なんかふだんと喋り方が違うなこいつ、と違和感を覚えたら、それは間違いなく「高丘親王」の真似をしているので「みこは…」と呼びかけてあげてください。