部落問題は解決したか、他の人権問題でも活かせるか:「地域と人権」4月15日号を読む

 今年は全国水平社創立100周年である。

 人権連(全国地域人権運動総連合)は機関紙誌でくり返しこの特集を組んでいる。人権連は全解連(全国部落解放運動連合会)が発展的改組したものだ。

 2022年4月15日の同団体機関紙「地域と人権」では、100周年記念事業の記者会見が載っている(2月22日)。

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部落問題は解決したか

 誰もがまず疑問に思うことは、「部落問題は解決したのか?」ということであろう。おそらく多くの国民にとっては自分の身の回りで「部落」と呼ばれる地域の出身者に差別感情を抱くなど「部落差別がある」という実感はあるまい。しかし、では問題がなくなったと言いきっていいのだろうか? という疑問もあるに違いない。

 人権連は「今日では基本的に解決したと言える状況だ」と明言する。

 人権連は「解決」したかどうかの4つの指標を示す。

 

 人権連の前身である全解連の第16回大会決定「21世紀をめざす部落解放の基本方向」(1987年)では、「4つの指標」は次のように規定されている。

部落問題の解決すなわち国民融合とは、①部落が生活環境や労働、教育などで周辺地域との格差が是正されること、②部落問題にたいする非科学的認識や偏見にもとづく言動がその地域社会でうけ入れられない状況がつくりだされること、③部落差別にかかわって、部落住民の生活態度・習慣にみられる歴史的後進性が克服されること、④地域社会で自由な社会的交流が進展し、連帯・融合が実現すること、である。

 人権連の丹波正史・全国人権連代表委員はこの「4つの指標に照らし、現在どこまで解決してきたのか分析」し、こう述べている。(ちなみに③についてはぼくも初めて聞いた時「な… 何を言っているのかわからねーと思うが」状態であったので、人権連の活動家に話を聞いたり、資料を送ってもらったりした。)

①「生活環境や労働・教育などで周辺地域との格差がなくなる」状況にするために、33年間の同和対策事業で16兆円の資金が投入され、格差は大きく縮小し、基本的に格差はなくなった。②ときに「非科学的認識や偏見にもとづく言動」が起きても、地域社会がそれを許さない民主的な力を持ち、差別的発言をすること自体が恥ずかしいという社会状況になっている。③パンツ一丁で出歩くといった「生活態度・習慣にみられる歴史的後進性」はみられなくなった。④「地域社会で自由な社会的交流が進展し、連帯・融合が実現」している。このことから、今日では基本的に解決したと言える状況だと述べました。

 この場合の「解決」というのは、「差別事象が全くなくなる」のではなく、社会問題として解決され、個々の差別事象が起きてもそれを許さない社会状況になっているかどうかだという意味である。

 改善の事例については、全国での具体的な自治体名を挙げての事例は部落問題研究所の書籍などに詳しい。例えば2017年に出された同研究所編『ここまできた部落問題の解決』の第二部「部落問題の解決はどこまで進んだか」において豊富な事例がある。

 

 

 

 

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 「1件でも差別落書き・ネットの書き込みがあれば『差別がある』とするのか」という問いに対して、人権連の示す原則的な回答はこのようなものである。

 

 同号では、こうした人権連の見解に対する批判的質問を載せている。

質問 在特会が水平社博物館の前で差別的な街頭宣伝(2011年1月)した5年後に、こうした事実関係があるにもかかわらず、人権連は「部落差別はヘイトスピーチ問題と異なり、公然と差別的言辞と行動をおこす状況にありません。そうした行為が時として発生しても、それらの言動を許さない社会合意が強く存在しています」と見解を出している。今もその認識は変わらないか。

 鳥取ループはずっとアウティング行為を続けている。アウティング行為に関して「権力規制一辺倒ではなく、議論を通じて国民合意をすすめ、差別を受け入れられない状況を作り出していく」(全国人権連第9回大会決議)との認識も変わらないか。

丹波 修正していないということはそういう認識です。

 ヘイトスピーチ問題との異同については、社会合意の存在以外に、表現の自由を規制しなければならないほどの人権上の危機が迫っているかどうかなども含まれていいかもしれないと思う。

 同号の1面には、別の記事として、福岡県の人権連が地元紙である西日本新聞と懇談し、西日本新聞の水平社100年報道の姿勢が「まだ差別は根強い」という方向に偏っていて、問題が解決された点を見落としているのではないかという人権連側とのやりとりを載せているのが興味深い。

 西日本新聞側は鳥取ループの地名暴露動画・地名総鑑の販売、ネット上の差別について言及し、「人権連さんはネット差別に楽観的では」「ネット差別軽視では」という批判をする。

 人権連のスタンスは、悪質なものは(現行の一般法による)法的措置で責任追及するが、基本的にはオープンな言論によってそうした差別を批判し、駆逐していくという方向を述べる。「単なる落書きは無視して騒がない」という瑣末なものへの対応も述べていて、ネットにおける「スルー」と同じだなと思いながら読む。

 ぼくも基本的には人権連の立場に近い。

 部落問題はそれを生み出す客観的な要因に目を向ける必要がある。

 その根源は、封建的残滓であったから、戦前の寄生地主制などが解体されたことで、大きく前進する道が開かれ、そこに多くの「同和対策予算・事業」が投じられてきた。その結果、基本的には解決されたと考える。あとに残った問題(貧困など)は一般行政を充実させることで国民全体と力をあわせる、というのが基本だろう。

 残った差別事象については、言論による闘争を行うべきだ。

 加えて、人権連がいう「新しい差別」が逆に困難を新たに持ち込んでしまう危険があり、むしろ部落問題を完全に一掃するためには、こうした「新しい差別」こそなくしていくことが大事だ。

 この点について同号での次の丹波指摘、および、記者とのやりとりは注目すべきだ。

また部落差別には「古い因習にとらわれた差別」に加え、不公平乱脈な同和行政や同和教育によって生じた恐怖心・偏見から生み出される「新しい差別」があり、今日的問題の主因は「新しい差別」にあると指摘しました。

質問 「新しい差別」とは具体的に何か。

丹波 一つは、1969年ごろから〔部落解放運動の〕分裂騒ぎがおき、自治体等々に対し糾弾が行われました。暴力的なやり方で相手を屈服させる。たくさんの人を集め、人民裁判のようなことをする。その光景を見た人は震え上がります。人々に「怖い」という意識を受け付けました。この意識はなかなか払拭できません。今、派生的にいろんな問題が出てくる場合、こうした残像が出てきます。例えば八鹿高校事件などです。

 二つ目は、未だ同和対策を行なっている自治体があります。法律がなくなったにも関わらず、自治体が特定の地域を指定し、特別な対策をやることは問題があります。それは「特別扱い」という意識を生み出し、市民の中に広がり「新しい差別」となります。

 

部落問題が示した他の社会運動でも活かせる教訓

 水平社100年にあたって、部落問題は、単に部落問題として考えるだけでなく、今日のジェンダーやマイノリティ問題などさまざまな新しい社会課題を考える上でも重要である。

 

 一つは、差別問題は、差別表現との闘争がメインなのではなく、差別を生み出す社会の客観的構造そのものをなくしていく社会的政策こそが必要なのだということだ。

 二つ目は、差別的表現との闘争は、法的な規制を行うのではなく、表現・言論の自由をベースにして、出来るだけオープン・自由に行うことが必要だということ。しかも一般社会の中では「糾弾」のような恐怖をベースにしたものではなく、対話理性の発揮のような形が望ましいということだ(もちろん、差別的表現をなくすように求める社会運動そのものを否定してしまうのは行き過ぎである。社会的な圧力も一定程度必要なものである。その圧力の量的基準も存在しない。各自が判断する以外にない)。

 この点でも同号で丹波が「融合の道」と「糾弾の道」を対比させたことは重要である。

また100年の歴史の半分が「融合の道」か「糾弾の道」かで分裂してきたことに触れ、「糾弾の道ははじめは差別的言動は影をひそめるが、結果的には反感をかい、いろんな分野に弊害が現れる」と指摘。八鹿高校事件は、人々に恐怖心を植え付けたと批判しました。

徹底的糾弾からはじまった水平社運動が、差別を残している根本的な要因に目を向け、労働者、農民と共同して部落差別の解決を図る道を探り、国民融合論につながる人民融合論を1935年に唱えていたこと。こういう歴史的教訓が正しく受け継がれなかったと指摘。